ことばは矢のように、あなたのこころに突き刺さる。
あやふやで不安になることばも
その傷が癒えることばも。
あとひと月で、自分の年齢も一つ上がりますが、その時に一つ区切りをつけようと思っていることができました。今月頭から頑張っています。 かなりしんどいですけど、それが本物を知るための手段なので、致し方ありません。 私は今年も、FB上で素晴らしい出会いがありました。 今年から本格的にFBに関わる様になったからかもしれませんが、 世の中で頑張っている人がいかに多いかを学びました。 そして、自分自身の甘さも。 自分は荒波にもまれて成長してきましたが、その荒波も、もはや 今後生きる上でどうでもいい事であると気が付いたのが昨年。 それに気が付いてから、沢山の人に恵まれました。 (一部の方には、荒波のぽちゃ、くらいは伝えてしまいましたが、それも今後の人生にとってどうでもいいことです) 私は自分では、どんなに周囲から激務だ、すごい、どうやっているだと聞かれることが多かったのですが、単に気が付いてないアホでした。 片っ端からすごい勢いで、自分の感情も忘れてこなしていただけです。 疲れたとか大変だとか思ったこともありません。 大学の薬理の試験の当日、朝4時まで緊急の電話が鳴っていたこともあったし、CBTやOSCEの前日は普通に外来で働いていました。 こんなことが出来たのは、自分の心に鈍感だっただけだったと最近思うのです。 相手の気持ちは、分析しようと思えば面白いように分かる。 それが仕事だから。患者なら、黙ってる、見ないふり、分らない振りもできる。教科書のように、疾患の先がもう、見えているからです。 (天狗になっているわけではありません、分かりやすい患者が多いからです) 自分のこの仕事で得た能力を、大学で得ようとしている資格とは到底 結びつけることが出来ないし、この仕事で得た能力を、今後使う仕事にも 付く予定がない。 一体自分はただ雨のように降ってくる仕事をバンバン片づけて、周りに「彼女に任せておけば大丈夫」と、本当に仕事仕事が降ってくる。 それでも疲れたとか大変だとか思ったことが無かった。 自分で気が付かなかったんです。それほどまで疲弊していることも。 数か月前ですが、自分の想像を超える勉強をしている人に出会いました。 いかに自分が甘かったか。 いかに自分が根拠のない自信をもっていたか。衝撃を受けるのにそう時間はかかりませんでした。 彼女(彼)らは、私と食事をしていても、暇つぶしのメールをしていても、それ以外の時間はすべてとてつもない努力の人だった。 それに気が付いたとき、自分の考えの甘さが恐ろしくなってしまった。 そんな人たちが自分とつながっていてくれる。 何て奇跡的で有難い事なんだろう。 縁というのは何と素晴らしいものだろう。 このご縁は、何としても大切にしようと、思いました。 今、私の想像を超えた勉強をしている友人二人は 連絡をこまめにとっているわけではありませんが、将来的に どんな形でも、同じ場所で働きたいと願います。 今はただの人ですが、いつか必ず、この二人と同じ立場に立ちたいと 涙が出るほど悔しい思いと、淋しい思いをしながら思っています。 私も頑張ればいいだけなのに、どうしてそれができないのだろう。 そして私を失ってしまうことが彼らの人生でなんでもなければ 追ってくることなどないだろう。 あと一ヶ月。 さようならか。一生の付き合いをするのか。
PR
この記事にコメントする