忍者ブログ
ことばは矢のように、あなたのこころに突き刺さる。 あやふやで不安になることばも その傷が癒えることばも。
[404]  [403]  [402]  [401]  [400]  [399]  [398]  [397]  [396]  [395]  [394
足利事件でその冤罪が確定したというニュースを
報道していた。
遺伝子検査がまだまだ精度が低かった頃
最新の科学技術として登場してきたこの技術は
曖昧さを十分に残しながらも、確実な証拠として
提出されたものが、決定打となって刑が確定したものである。

それがなぜ今、冤罪として無罪が確定したのか。
その当時の遺伝子検査技術は800分の1くらいの確率で
同じ遺伝子である、という結果を出していたことが 判っている。
これは、簡単に言うとまだまだ特定の遺伝子を細かく判断する技術が
進歩していなかったからである。
しかし、それにも関らず曖昧さがある証拠を、証拠の一つとして扱わず
完全無欠な、証拠の決定打として採用してしまったことに 大きな
間違いがあったのではないだろうか。

同じことは、精神鑑定にも言える。
精神は動かぬ証拠にはならない。
臨床に常に立ち
めまぐるしく変わる精神というものに
触れていなければ
容易に机上の理論だけでその精神を
把握しようとするだろう。

しかし、鑑定はあくまで予測値でしかない。
犯行時に戻って精神状態を鑑定するのは不可能だからだ。
あくまでも「いま、この時」を鑑定し、可能性として
審判に上げることができるだけなのだ。

しかし現在、この鑑定が絶対的な判断に使われることがある。
それはこの足利事件の遺伝子検査と全く同じ危険性を
秘めているのではないだろうか。
精神鑑定を持ち出す時
私は犯行時の意識レベルが
大きな意味を持つと考えているが
意識レベルが低かったとしても
相手が人間だとわかった場合は
裁かれるべきと考えている。

人を殺してはいけない。

それが日本の法律の根幹をなしているならば
人間と判断できたかできないかに懸かっているのだ。

正当防衛や精神疾患はその次に
環境背景として情状酌量するべきものだと私は思う。

まだ曖昧さがある科学なのなら
それ自身を結論を出すための決定打にするべきではない
と、思うのです。

科学は覆らない。

だけど、人間がその科学に追い付けない時
大きな間違いを犯すのではないだろうか。


拍手[0回]

PR
この記事にコメントする
お名前
タイトル
文字色
メールアドレス
URL
コメント
パスワード   Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
この記事へのトラックバック
この記事にトラックバックする:
<< breath HOME はりはり >>
カレンダー
04 2025/05 06
S M T W T F S
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31
プロフィール
HN:
木蓮
性別:
非公開
自己紹介:
山へ行けばわかるよ
カウンター
最新コメント
[05/07 pochi]
[05/01 moto]
[05/01 moto]
[05/01 バード]
[04/29 pepipo]
忍者ブログ [PR]