忍者ブログ
ことばは矢のように、あなたのこころに突き刺さる。 あやふやで不安になることばも その傷が癒えることばも。
[164]  [163]  [162]  [161]  [160]  [159]  [158]  [157]  [156]  [155]  [154

ここ最近の私の急激な鬱状態への加速の中で
TBSの元アナウンサーの方の訃報が飛び込んできました
色々な意見があるでしょうが
私は「なぜ周囲に相談しなかったんだ」とか
「それ以上に悩んでいる人は一杯いる。その程度で死ぬなんて」
というコメントには
私はどうも首をかしげてしまうのです。

もし鬱病という、病気のせいだったとしたら
今の私がそれにとても近いように
「相談する内容」というのが自分でも見当たらないのです
ただ単に 人と会話をすることによって気分を晴らす
ということは出来たとしても
相談してアドバイスをもらうような悩みが
もともと存在しないのです
見当たらないし あったとしても気が付いてないのです
自分の中で。

鬱がセロトニンの枯渇によって起こる
器質的な病気なのであれば(実際に神経症性抑鬱状態の鬱でなければ)
セロトニンが枯渇することによって
考えが堂々巡りし
気分が優れないのであって
アドバイスを求めて何かが解決したらOKになるとか
そういうことではないと思うのです
だから

「そのぐらいの悩みで死を選ぶなんて世間知らずの弱い人間」

なんて どっかのブログに書いてあったみたいですが
私はこの一言こそ 言語道断だと思うのです
本当の鬱病にだったら。
だって鬱になった原因(反応性のもの)ならばまだしも
積もり積もってある日セロトニンが枯渇した時に
それぐらいの悩みもへったくれも無いわけです
悩んでないの?と言う問いに対して 答えただけで
それが根本の鬱になった原因だとは
私は思えないのです
たまたま口にだした今悩んでいること、がそれなだけで
それが原因で私は死ぬほど悩んでいたり
死を選んだとは 私は思えないのです
あくまで、うつ病だったら、ということですが。

もし 何か原因が特定されることがあったら
それは鬱の自殺ではないと私は思うのです

私の経験上
鬱はどうしてこれほど
静かな死を選ぶのでしょう
それはやはり
アピール性のある死ではなく
内面から沸き起こる 脳が正常な働きを失うことによって起こる
ニュートラルな選択肢へ続く神経が
遮断もしくはそれに近い状況になっているのではないだろうか

原因が特定される悩みで死を選ぶ場合
アピール性がある死が多いような気がします

静かに人生に終止符を打つとき
人は何を考えるのでしょうか
死んだらその先に何があるのでしょうか
私たち生きている人間から見たら
何もなくなってしまいます
何も残りません

だけど
死を選んだ人は解放されたのだと私は思います
自分の意思とは関係なく頭を過ぎる鬱の思考や
原因が特定できず 自分で頑張っても自分ではもはや
どうにも出来ない落ち込み
自分の気持ちしだいでどうにでもなるなんて大きな間違いです
自分の気持ちでセロトニンが大量に出るなら楽なもんです
どうにも出来ないから苦しいのです

ニュートラルな思考回路が遮断されている時
そのときには答えが2つしか思いつくことができません
死ぬか 生きるか
○か ×か
白か黒か

しばらく考えよう という 
どちらでもない考えが出来ることは健康なんだと思います

苦しさは誰にも解き放つことは出来ないし
誰かや何かと 比べることなんかできないのです

拍手[0回]

PR
この記事にコメントする
お名前
タイトル
文字色
メールアドレス
URL
コメント
パスワード   Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
この記事へのトラックバック
この記事にトラックバックする:
カレンダー
04 2024/05 06
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31
プロフィール
HN:
木蓮
性別:
非公開
自己紹介:
山へ行けばわかるよ
カウンター
最新コメント
[05/07 pochi]
[05/01 moto]
[05/01 moto]
[05/01 バード]
[04/29 pepipo]
忍者ブログ [PR]