ことばは矢のように、あなたのこころに突き刺さる。
あやふやで不安になることばも
その傷が癒えることばも。
昨日は久しぶりにクラスメイトとお昼の外食。
本当は結構お金がシビアなので(今月・先月とも)
外食してる余裕もあまり無いんだけど
人づきあいの投資ってことで。
そこで一緒に食べた友人が
「何も食べるものがない・・・こうみるとごはんものメニューばかりだ」
(注:お米は日本人の主食です)
というので、何でかなあ?と思っていたら
最近話題の汚染米のことだとか。
汚染米の報道が連日のようにテレビで話題になっていますが
その報道で「汚染米がすでに消費者のもとに届いている」
「外食産業で使用されている」などと報道されたため
彼女は危険なので一切お米(ごはんもの)は食べないことにしたのだそう。
そしてさらに
「関西ではここ数年肝臓癌が増えたらしいよ。それも汚染米が影響してるって話だよ」
「そのことについてもとさんはどう思う?これからも外食でお米食べるの??」
と、聞かれました。
・・・・・・・・・・。
もう、典型的な報道に踊らされる日本人。
〇〇がいいと言えばそれに飛びつき、△△がだめだと言われたら一切排除。
自分自身で調べる、ということはしないのでしょうか?
報道はすべて正しい事実だと鵜呑みにし
自分自身の意見というもの、自分自身の見解というものは
ないのか。
大学生でさえ、「自分から進んで学ぶ」ということをしなくなった昨今
手軽に結論を出してくれているマスメディアというのは
てっとり早く自分の方向性を指示してくれるものなのかもしれません。
集団心理も手伝って、物事の本質というものは
すっかり蚊帳の外になってしまっている気がします。
最近の日本の風潮、それは
「与えられたものだけを得る。」
そんな感じです。
以前のブログに書いた「フォアグラ」状態です。
情報のフォアグラは、好き嫌いができません。
ただただ、与えられるのみ。
本来情報とは、そういうものではないと思うのです。
与えられる情報量が多すぎ、自ら情報を得ようとしたりすることが
少なくなったような気がします。
大学だってそう。
知りたければ、聞くしかない。
調べるしかない。
それが当たり前だと思っていました。
だけど回りから聞こえてくる言葉は
「そんなの聞いてない」「そんなこと講義で言わなかった」
「教えてくれなかった」 そんな事ばかり。
まさに、学びのフォアグラ状態。
ただ学生は口をあけて(ない人もいるが)待っているだけ。
(でも、これでもかと与えるわけでもないから、厳密にいうと
フォアグラではないかも知れない)
情報とは取捨選択するものだと思います。
たくさんの情報の中から、何が正しくて、何が間違っているのか。
何をもう少し詳しく見ていく必要があり、何が本質から外れているのか。
そういったことを自分自身で考えることが出来ないことは
不要な争いを生み、無意味に人傷付けることになりかねません。
関西人がここ数年肝臓がんが多い、というのは
いったいどこから来た情報なのか?
どういう統計を取った結果なのか?
実際汚染米が流通していた地域と、全くしていない別地域とを比べ
さらにお米を主食にしている人間で生活習慣や年齢などを統計的に見ていかないと
何とも言えないのが本当のところでしょう。
「汚染米が関西地方に多く流通していた(大本の会社が関西方面だったため)」
「だから関西人は汚染米を食べていた」
「汚染物質のせいで肝臓がんの発生率が上がった」
あまりに短絡的すぎ、科学的な根拠もなにもありません。
科学とは真実を見つける手段の一つです。
科学的根拠がすべてだとは、私も思いません。
しかし、根拠を考える、それも「情報」の一つだと思うのです。
少なくとも、メディアの情報だけで結論付けてしまうよりも
ずっとずっとマシな気がするのです。
薬学部という自然科学系の大学生ですら、こうなんです。
私は彼女に
「いろんな情報がメディアに流れているけれど
私はそういった報道がすべて真実なのか
汚染されていた米があったことは事実だし
それが流通していたことも事実だろう。だけど
毒性の測定とはどういった方法で行ったのか
肝臓がんにしても どういう統計をとったのか
何を根拠にそういっているのかが分からないうちは
汚染米かもしれないから一切お米は口にしないという
極端な結論は出さない。もっとじっくり調べてみる必要がある」
と言いました。そしたら
「えっ、じゃあお米食べるの?ねえ?外でごはん食べるの?!」
と・・・・・・・・・。
食べますよ。
一応気には留めておくけど。それにもしそうだったとしても
もう食べちゃってるじゃん、今までに。その分はどうしてくれるんだよ。
大事なのは自分がどう考えるか。
そこだと思うのです。
私たちは情報の中で生きています。
それはとても便利です。私もその情報化社会の恩恵にあずかっています。
だけど、情報がありすぎると、それをすべて鵜呑みにするのではなく
何が大切なのか、真実はどこにあるのか、本質は何なのか
そういったことを、自分自身で考える必要があると思うのです。
そして出した結論が、世の中一般の風潮と違っていてもいいと思うし
多数派でなくてもいいと思います
要は「自分自身がどう思うか」「自分自身で納得する結論を出す」
ということです。
最近の日本は
自分がどう思うか、という、大切なことが
失われてきた気がします。
相手に合わせすぎたり、相手にどう思われるか気にしすぎたり。
自分が自分であることが、まるで怖い事であるかのように。
そういった抑圧が、「本当の自分」さがし、なんていう
そんなメルヘンを生んでしまうのです。
本当の自分はいません。
どんなあなたも、すべて本当のあなたの一部だからです。
もう少し、自信をもって、「私はこう思う」って言えるような
そしてそれをきちんと受け止め排除しないような
そんな日本であってほしいです。
本当は結構お金がシビアなので(今月・先月とも)
外食してる余裕もあまり無いんだけど
人づきあいの投資ってことで。
そこで一緒に食べた友人が
「何も食べるものがない・・・こうみるとごはんものメニューばかりだ」
(注:お米は日本人の主食です)
というので、何でかなあ?と思っていたら
最近話題の汚染米のことだとか。
汚染米の報道が連日のようにテレビで話題になっていますが
その報道で「汚染米がすでに消費者のもとに届いている」
「外食産業で使用されている」などと報道されたため
彼女は危険なので一切お米(ごはんもの)は食べないことにしたのだそう。
そしてさらに
「関西ではここ数年肝臓癌が増えたらしいよ。それも汚染米が影響してるって話だよ」
「そのことについてもとさんはどう思う?これからも外食でお米食べるの??」
と、聞かれました。
・・・・・・・・・・。
もう、典型的な報道に踊らされる日本人。
〇〇がいいと言えばそれに飛びつき、△△がだめだと言われたら一切排除。
自分自身で調べる、ということはしないのでしょうか?
報道はすべて正しい事実だと鵜呑みにし
自分自身の意見というもの、自分自身の見解というものは
ないのか。
大学生でさえ、「自分から進んで学ぶ」ということをしなくなった昨今
手軽に結論を出してくれているマスメディアというのは
てっとり早く自分の方向性を指示してくれるものなのかもしれません。
集団心理も手伝って、物事の本質というものは
すっかり蚊帳の外になってしまっている気がします。
最近の日本の風潮、それは
「与えられたものだけを得る。」
そんな感じです。
以前のブログに書いた「フォアグラ」状態です。
情報のフォアグラは、好き嫌いができません。
ただただ、与えられるのみ。
本来情報とは、そういうものではないと思うのです。
与えられる情報量が多すぎ、自ら情報を得ようとしたりすることが
少なくなったような気がします。
大学だってそう。
知りたければ、聞くしかない。
調べるしかない。
それが当たり前だと思っていました。
だけど回りから聞こえてくる言葉は
「そんなの聞いてない」「そんなこと講義で言わなかった」
「教えてくれなかった」 そんな事ばかり。
まさに、学びのフォアグラ状態。
ただ学生は口をあけて(ない人もいるが)待っているだけ。
(でも、これでもかと与えるわけでもないから、厳密にいうと
フォアグラではないかも知れない)
情報とは取捨選択するものだと思います。
たくさんの情報の中から、何が正しくて、何が間違っているのか。
何をもう少し詳しく見ていく必要があり、何が本質から外れているのか。
そういったことを自分自身で考えることが出来ないことは
不要な争いを生み、無意味に人傷付けることになりかねません。
関西人がここ数年肝臓がんが多い、というのは
いったいどこから来た情報なのか?
どういう統計を取った結果なのか?
実際汚染米が流通していた地域と、全くしていない別地域とを比べ
さらにお米を主食にしている人間で生活習慣や年齢などを統計的に見ていかないと
何とも言えないのが本当のところでしょう。
「汚染米が関西地方に多く流通していた(大本の会社が関西方面だったため)」
「だから関西人は汚染米を食べていた」
「汚染物質のせいで肝臓がんの発生率が上がった」
あまりに短絡的すぎ、科学的な根拠もなにもありません。
科学とは真実を見つける手段の一つです。
科学的根拠がすべてだとは、私も思いません。
しかし、根拠を考える、それも「情報」の一つだと思うのです。
少なくとも、メディアの情報だけで結論付けてしまうよりも
ずっとずっとマシな気がするのです。
薬学部という自然科学系の大学生ですら、こうなんです。
私は彼女に
「いろんな情報がメディアに流れているけれど
私はそういった報道がすべて真実なのか
汚染されていた米があったことは事実だし
それが流通していたことも事実だろう。だけど
毒性の測定とはどういった方法で行ったのか
肝臓がんにしても どういう統計をとったのか
何を根拠にそういっているのかが分からないうちは
汚染米かもしれないから一切お米は口にしないという
極端な結論は出さない。もっとじっくり調べてみる必要がある」
と言いました。そしたら
「えっ、じゃあお米食べるの?ねえ?外でごはん食べるの?!」
と・・・・・・・・・。
食べますよ。
一応気には留めておくけど。それにもしそうだったとしても
もう食べちゃってるじゃん、今までに。その分はどうしてくれるんだよ。
大事なのは自分がどう考えるか。
そこだと思うのです。
私たちは情報の中で生きています。
それはとても便利です。私もその情報化社会の恩恵にあずかっています。
だけど、情報がありすぎると、それをすべて鵜呑みにするのではなく
何が大切なのか、真実はどこにあるのか、本質は何なのか
そういったことを、自分自身で考える必要があると思うのです。
そして出した結論が、世の中一般の風潮と違っていてもいいと思うし
多数派でなくてもいいと思います
要は「自分自身がどう思うか」「自分自身で納得する結論を出す」
ということです。
最近の日本は
自分がどう思うか、という、大切なことが
失われてきた気がします。
相手に合わせすぎたり、相手にどう思われるか気にしすぎたり。
自分が自分であることが、まるで怖い事であるかのように。
そういった抑圧が、「本当の自分」さがし、なんていう
そんなメルヘンを生んでしまうのです。
本当の自分はいません。
どんなあなたも、すべて本当のあなたの一部だからです。
もう少し、自信をもって、「私はこう思う」って言えるような
そしてそれをきちんと受け止め排除しないような
そんな日本であってほしいです。
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