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ことばは矢のように、あなたのこころに突き刺さる。 あやふやで不安になることばも その傷が癒えることばも。
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もう30代になって何年もすると
回りからとにかく

「けっこんしないのー?」
「ご結婚は?」

なんて聞かれる。

とりあえず、学生の身分で結婚するのは
私はどうかと思っている。
社会的な「大人」でないうちに
結婚という社会的大人の立場に分けるのは
絶対にぎくしゃくすると思うのだ。
学費も生活費も、親から半分以上援助してもらって
それで同級生や先輩と同棲して、結婚ごっこをして

「家事が大変なのー」

なんて、おねーさんちゃんちゃらおかしいわ。
親の用意した箱の中で、最低限の生活は保障されて
学費も出してもらって、生活費も出してもらって。
それ以上の贅沢をするために、アルバイトする。
それを大見え切って

「仕事が忙しくて勉強できないっ」

なんて言わないで欲しい。

それは仕事じゃない。労働でもない。
なくても生きていけるものだ。

親におんぶにだっこの後ろ盾で結婚することに
何の意味も社会的独立も感じない。
結婚したのに、双方の両親から生活費や学費を出して
生活していくって、私の中では納得できないし
理解できないのです。

私はたまたま社会人になった後、会社の制度で
大学に行っているので
生活費も学費も一切親から援助がないけど
それでも、今結婚するということは
まったく考えられないのです。
結婚する、ってことは
相手の人生に自分が半分責任もつ、ってこと
相手の人生の半分が、自分の人生になるってこと

だから、自分の苦労を相手に背負わせたくない
という気持ちが私にはとても強いのです。

私にしがらみが何にもなくなったら
結婚しよう。
それまで待てなかったら
どこかに飛んで行ってもいいよ。
私はあなたを
縛りつける資格なんてないのだから。

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あんまりだ。
何があんまりだって
精神疾患に対する周りの対応だ。
よってたかって精神疾患を否定しようとする。
認めようとしない。
ただ、治療が遅れるだけではないか。

精神疾患だって、人間の病気の一つ。
治療すれば、治る。
なのによってたかって
「病気じゃない」
「心の問題」
「根性で治る」
「気持ちの持ちよう」
の、連発。

どうして?
不思議でならない。
精神疾患=一生治らないとでも思っているのだろうか。
それとも、精神疾患は性格と同義語でしょうか。
だったら医療に「精神科」なんて存在してない。

電車の中で

「どうしてそんなに彼女を病気にしたいんですか?」
「病気の定義って何ですか?」

というので、摂食障害の定義を話してみた。
すると、

「もとさんが、無理やりそれに当てはめてるだけじゃないですか?」
「彼女は前からああですよ」
「私、学校以外の彼女も知ってますし、もとさんより長く過ごしてます」

だから何だっていうんだ。
病気なのに病気じゃないって思いたい理由がわからない。
治療すれば治るのに、どうして他の科の病気のように
扱えないのだろう。
まるで、精神疾患になることが、悪いことのように。
普通の病気と一緒で、特別なものじゃないと思うのに。
その凝り固まった偏見はなんだ。
病気の人に、きちんと治療を受けさせてあげないでどうする。
目の前で、その病気で苦しんでいるのに
どうして病人として認めてあげないのだろう
どうしてそんなにも、治療に反対するのだろう。
目の前で、その病気で苦しんでいる人がいるというのに。

特に、鑑別診断について
「無理やり当てはめてるだけじゃないですか?」
と言われたことに、カチン!と来た。

病気のどこが悪い?
治療することの何が悪い?
苦しんでいる彼女を
「病気じゃない!」と発破をかけることが
余計に本人を苦しめていることに
どうして気付かないのだろう。
治療して治る、普通の病気と一緒なのに。
どうしてそんなに薬を否定するのだろう。

摂食障害の人に対して
「食べれば元気になる」だとか
「薬なんかよりもカウンセリング」
なんて。

うるさいっ!

素人黙ってろ!!

と、心の中で叫んでしまったわ。

結局、口では否定していてもその人には
精神疾患は不治の病みたいなもので
しかもそれは、頭のおかしい人というレッテルに
なってるんでしょうね。
一番偏見を持っているのは、その人自身だ。

糖尿病や高血圧は
診断を受ける前から
「怪しいんじゃないの?」
「詳しく医師に診てもらったら?」
なんて簡単に言うのに
どうして精神疾患は

「違うよ!精神科じゃないよ!」
「病院なんか行かなくても話すれば治るよ!」

というのだろう・・・・

この偏見っぷりに腹が立つわ。

カウンセリングなんて
簡単に言わないでほしいです。
カウンセリングできるほどの心の体力がなければ
意味がないし
まともなカウンセラーにつかなければ
ただお金と、心がすり減るだけ。
日本にまともなカウンセラーなんて
ほんの少ししか実はいないんです。
臨床心理士だからってまともなカウンセリングできるかといえば
決してそうじゃない
ただ学問や理論に詳しいだけで
現場の患者が本の通りに行かなくて
あたふたしている心理士が、日本に掃いて捨てるほどいるんです。

カウンセリングはただ話をうんうん聞いてるだけじゃない。
それならロボットでいい。
ただ、クライアントに喋らせるだけなら
何の意味もない。
でも、素人はそれが薬よりも効くと勘違いしている。
カウンセリングは精神科治療の印籠みたいなもので
これで何でも治ると思っている。
薬がなくてもカウンセリングで治るとかね。

身体症状のない神経症レベルなら
それでもいいでしょう
薬なんか飲むレベルじゃないなら。
精神病圏の患者に対して
カウンセリングのほうがいいとか
カウンセリングを万能視してませんか。
そしてカウンセリグで話を聞いてあげればいいと
思ってませんか。

話聞いてるだけで症状治るなら
精神科医が消滅してるでしょうね。
みんなすごいことになってるでしょうね。
ほんと。

判ったふりをして
親切のふりをして
実は精神疾患の患者に
偏見を持っているのは自分ではないですか
苦しみを共感しているふりをして
実はその苦しみは単に
性格の問題だと受け止めていませんか
そして苦しんでいる人を
治療から遠ざけ
苦しむ期間を延長させていませんか

私が
「素人引っこんでろ!(怒)」と思った、と
私の指導医に話したら笑ってました

日本人は精神疾患を安易に考えすぎる
誰でもなって、簡単に治るような
病気だけど気持ちの問題だとか
病気のカテゴリーに入れてくれていない。
だけど、性格の問題というほうが
精神疾患のレッテルを張るよりどれだけ残酷か
考えたこともないでしょうね
病気だったら治療することで苦しさから
解放される可能性が出てくるのに
性格だ、ということなら
一生付き合っていかなくてはならない。
治る治らないの問題ではなくなってしまう。
明らかにそっちのほうが苦しくないですか。

精神は脳の記憶と体が核融合のように反応して起こる
れっきとした病気なんだと
声を大にして言いたい

カウンセリング安易に勧めず
精神科の薬を安易に敵対視するべからず






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どうしてこんなにも精神疾患に偏見のある世界に
なってしまったのだろう。

どうして精神疾患を内科に回そうとするのだろう。
まったく違う科なのに
体裁が悪いとか、響きが悪いとか
そういうどうでもいい理由で
専門科へ回そうとしないのだろう
そしてどうして
精神疾患を治療する薬に
ここまで否定的に考えるのだろう。

飲んだら一生飲み続けるとか
薬漬けになるとか
薬を飲むことで悪化するとか

そうやって今まできちんとした
薬物療法を行うことをしないで
目の前の症状だけに目を奪われた
一部の医師のしたことが
どうしてこんなにも
日本中に薬物療法に対する偏見を
作ってしまったのだろう。

精神科は、そんなにも恐ろしいところですか。

そんなにも、自分たちとは違う人が
行くところでしょうか。

精神は見えないから
いつ治るかも、原因もはっきりとは
目に見える形で「これです」と
指さすことができない。
だからと言って
それがすべて本人の性格の問題でしょうか?
本人の気持ちの問題でしょうか。
心の持ちようで何とかなるものでしょうか。

日本人に根付いた
精神科=気がおかしい人が行くところ
という偏見が無くならなければ
自殺なんか減りません。
正しい知識がないまま、精神科というものを
恐れてはいませんか。

精神疾患を
こころの病気だと、心だけの問題にして
「だから薬ではどうにもならない」と
決めつけてはいませんか。

精神=心のことだと
勘違いをしていませんか。

そしてわけもわからず
ただ、腫れものに触るように
接していればいいと思っていませんか。

そのどれもが間違いです

精神疾患は病気です
原因があります
きまった病態生理があります
そして一定の経過をたどって治っていきます
普通の病気と、どこが違うというのでしょうか。
専門科に任せない意味が
どこにあるというのでしょうか。

それこそが
苦しんでいる本人を治療から遠ざけ
治癒から遠ざけるような関わりであるということに
周囲が気づかなければ
精神疾患が放置され、悪化するような関わりしか
生まないのではないでしょうか。


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昨日はサークルの飲み会。
お酒が入ると調子に乗ってしまう。

ほんのちょっとの、自慢。

あー、いやだいやだ。

昨日もそうだった。

帰りは珍しく、電車に乗り間違えて終電を逃し
タクシーで帰宅。

私は私で
十分認められてると思うのに
これ以上いったい誰に
認めてほしいというのだろう。

父親?

もう手の届かないあの人?

先生?

それとも、自分自身?


空を見上げていたら
古池を思い出した。

古池は元気かな
今頃もしそばにいられたら
たとえ結婚したり、恋人同士でなくても
私が私以上にならなくて済むような
そんな存在でいられただろうな

東京にもあったんだ
こんなきれいな空が
うれしいな、君に見せたいな
君に会いたいな

福山雅治が歌ってる

そうだよ

君に会いたいな・・・

会って、
そのままでいいと
言ってほしいよ。

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青い森に帰ったのが
まるで幻だったかのようで、と以前ここに書いたけど

あれから一か月、私の頭の中は
過去と今と
記憶と現実を
行ったり来たりして
とてもとても
調子が悪かったのです。

幻ではなかったことは
この心や体が証明している。
痛いくらいだ。

今ではすっかり
まるで青い森になんか
帰っていなかったように
やっと元に戻りました。
ご心配くださった北先生
ありがとうございます。
ごめんなさい。

見ているわけがないけど
手嶋先生
もう、忘れても大丈夫です。
私のことは忘れてもいいです。
忘れても、責めたりしません。
手嶋先生が私を救ってくれたこと
金魚すくい見たいにひょいっと
窒息しそうな私に
息をさせてくれた3年生の日々は
私がしっかり、覚えています。
忘れられません。
私の辛いことを
分け合ってくれてありがとう。
卒業式の前の日でした。
あれからもう
先生に会えなくなることは
覚悟してたんだよ。

青い森は
私の骨や肉である。

だけど
私の心は作らなかった。

私の心が還る場所。
今の私にはない。
だけど私の未来にそれは
あるのかもしれない。
だから明日を
恐れないでいたい。

私はきっと
うまく生きることに慣れていない。

夢のような
青い森の日々でした。


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大学の友達の一人が摂食障害になった。
食べることへの葛藤が処理できないので
目の前にある食べ物に対して
食べずにいられない。
そこまでなら何とかなるのだが
摂食障害が摂食障害たるところが

食べたものが汚いもののように感じられて
一刻も早く吐き出したくなる、ということ。

普通ならば、汚いものは食べないですよね。
だけど、汚いものに変わって吐き出す、と
分かっていても食べることがやめられない。
食べずにいられない。
体の中で、たとえそれが汚物になろうとも。

摂食障害特有の、食べ物に関する認知の歪みは
最初からカウンセリグでどうこう、
という話では なくなってくる。
歪んだ認知でいくらカウンセリングしたって
無駄なのだ。

摂食障害に対する正しい知識がないと
食べた物を吐き出してしまう人を見て

「栄養が取れないから少しでも食べたら」
「吐き気止めあげるから」
「少しずつ食べれば大丈夫じゃない?」
「食べられる物を食べればいいんじゃない?」

などと、どうしても
「食べさせよう」という方向に動こうとする。

しかし、これは大きな間違い。
食べ物が汚物に思えるうちは
食べない方がいいのだ。

汚物に変わる食べ物と考えてみてください。
それでもあなたは

「少しずつ食べろ」
「吐き気止めで吐き気を抑えて食べろ」

と、言えますか。
むしろ、汚物になる食べものならば
「食べるな」というのが普通だろう。
それが正しい認知というものだ。

しかし、摂食障害についての正しい知識がない人は
とにかく「食べさせればいい」と思ってしまう。
食べることへの葛藤や、食べることが本人にとって
どういう結果や認知を生むかを考えることができないのだ。

私の友達の周囲の人間もそうだ。
友達や先生も、どうにかして食べさせようとする。
食べられないのが「心の問題」ではなくて
別のところに問題がある(たとえば、空腹の度を
超えてから食べるからだ、など)と考える。
そうして今日も食べろ、という。
栄養つけないとだめだという。

そして彼女は今日も汚物になると分かりつつも
口に詰め込む。そしてすべてを吐き出す。
周囲が心配して「食べないとだめだよ」などという。
彼女の中では「汚物でも吐かずに飲み込まなきゃだめ」と
言われているのと同じことなのだ。
(そこが意識できているか分からないけど)

そんな中
その友達が今日は特大おにぎり2個を食べようとしていた。
私が「一個にしといた方がいいよ」と言うと

「二つ食べたい」

というので

「吐くんだったら食べないほうがいい」
(つまり、汚物に思えるくらいなら口に入れない方がまし)

と言うと
「えっ、1個にしたほうがいいですか?」と聞き返してくるので

「うん。というかむしろ食べないほうがいい。」と返すと
一斉に周囲から非難ごうごうなまなざしが痛い。

一見、食べられない人にさらに「食べるな」というのは
極悪非道みたいな感じに思えますが
たとえ汚物でも食べるように勧めるのと
汚物ならむしろ食いたくても食うなという方と
いったいどっちが治療的なのか。
いったいどっちが当たり前の認知なのか。
しかし、そんなことは今、
私の目の前にいる先生や友達には
全く理解されない。
私だけが非道なことを言っている人間になってしまっている。


精神疾患の大半は
周囲の手の差し伸べ方が間違っているのです。
ほとんどが、正しい精神疾患に対する知識のなさと
固定観念のせいです。

治療的、という言葉をご存知でしょうか。
たとえ今、目の前にいる本人が苦しくても
目の前の苦しさに目を奪われて手を差し伸べるのではなく
もっとその先にある、「治る」というゴールに向けて
どの方法が一番そのゴールに早く近づけるのかを考えて
手をひっこめたり、差し伸べたり、何かを奪ったり
何かを与えたりするのです。
それが「治療的」というものです。

だから私が、吐き出してしまうその人に向けて言った

「むしろ食うな。 食べなくていい」

という言葉は、ぱっと見とても非道な言葉に聞こえる
かもしれません。

しかし、治療的かどうかといったら
首を縦に振る言葉であることは、間違いないのです。

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中村文昭の詩、「挨拶せよ」を知ってる人がいるだろうか。

えこし会を主宰する彼の詩で、
私が一番好きな詩がこの「挨拶せよ」である。

めーさんと話をしている時、ひょんなことから
挨拶の話になったことがある。
めーさんは挨拶しても返ってこなかった場合
一度目は、聞こえていなかったのかもしれない
と思うが、二度目も同じように返ってこなかったら
もう二度と挨拶をしない、と言っていた。

私はそこには全く反対のスタンスを持っている。
私は、相手が挨拶し返してくるまで挨拶するからだ。

たとえばめーさんが実習に行く時、いつも
「いってらっしゃい」と声をかけるのだけれど
先週は木曜・金曜と無視されてしまった。
もしもめーさんならここで二度と挨拶しないだろうと
思うのだがしかし

私は前述のように相手が返してくれるまで意地でも
挨拶するタイプなので
昨日も挨拶して、今日も「いってらっしゃい」と
声をかけたらやっと

「はいー」

と返ってきた。(やった!)

こんな時中村氏の「挨拶せよ」の詩が脳裏をよぎる。
挨拶しなければならないのだよ、人間は。

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自分に何かして欲しいからじゃなく
自分が何かしてあげたいとかではなくて


ただ、あなたが幸せなように。


それがきっと

愛してるってことじゃない?

古池が幸せなら
うれしい。

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金木犀の匂いがする



甘くて歯が痛くなりそう

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昨日は大学に行き、ぼちぼちと勉強。
途中からみんな来て、そこにめーさんも参加したけど
なぜかきのうの私とめーさんはことごとく会話が対立。
まるで父と話しているようだった。

私は基本的に自分が見たこと
自分が確かめたことではないと話さない。
どんな些細なことでも
この手で、この目で、確かめなければ
信用なんてしないのだ。

だから、例えば
「あそこに○○があったよ」
と、私が見たままを言ったのに

「いや、そこにそんなのはない」
「そこにあるなんて聞いたことない」
「嘘ついたって、すぐにバレるんだよ」

というように、見たこともない人に
全否定されるなんてどうも駄目なのだ。
まるで、私が嘘をついているみたいに否定されると
それが好きな人だと余計に

違う、違うんだよ、本当なんだって。

と言いたくなってしまう。
本当にめんどくさいやつだ。
昨日もそう。
否定されるだけなら、父と同じだ。
わかってもらえないと見切って黙っていればいい。
その人の中で、私が嘘つきだと思われていてもいい。
それが、好きな人でないなら。

だけどどうしてもめーさんには
そう思われたくないの。

私は、
自分で見たもの
自分で感じたもの
この手で触ったもの
実感したものしか信用しない。
自分の目で確かめなければ
情報なんて信じない。
それなのに。

確かめてもいない人から
世の中の常識のように
当たり前のことのように
否定されるのは嫌いだ。

あらしのよる

帰りは教員の先生方と一緒になった。
そのまま夕食をごちそうしてもらったのだけど
その時

「もとは、教員の中でも好き嫌いはっきり分かれているけど
俺は好きだよ」

と言われて、ああ、全く同じことを中学の頃に
担任の田中先生に言われたことを思い出し
全く私って変わってないんだなあ、って思った。
というより あの頃はまだ自分がこれから
どうなるのかもわからず
小さな違和感を抱えながらも
自分が一人の人間だと思って生きていけていた。
それは、ここでは目立っている。
いやなのに無意識にそうなる。
そうしている自分が
まだまだ私の中にいる。

私は私の見たこと
聞いたことしか信じない。

自分で確かめたものしか信用しない。

その部分は、きっと賛否両論あるし
私の中の「わたし」は
小さくて不安定でどうしようもなく
強がりで弱くて悲しくてどうしようもなく。

認めてもらいたくて
でも
強がりで
でも弱くて

だけどしっかりある。

私はきっと、自分の生き方に
腑に落ちたいんだということが。

だからもがく
こんな、あらしのよるにも。


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久しぶりに山の知り合いと話した。
その時に、元気かと訊ねられて私は

分からない
元気なのかな

と答えたら

「僕の知ってる君はまるでオスカルみたいだったのに
随分自分に自信がなくなっちゃったのね」

と言われた。

私は
前にそう思われていた自分がどんなだったかわからない、と
答えると 再びその人は


山へ行けばわかるよ
山は自分を見つめる事が出来るからね 、と。



山に最近妙に登りたくなっていたのは
そういうことだったんだ。

山に行こうかな
私が私に近づくために。

忘れていた「わたし」を、見付けるために。


やまへいけばわかるよ

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めーさんにさよならできそう。
というより、しなくちゃという気持ちが
芽生えてきた。

めーさんを巻き込むのは良くない。
ただ、大好きなだけで
私を分かってもらおうとしたのは
なんて愚かで汚くて
自己中心的だったんだろう。

ただ、大好きだった。
ただ、それだけだった。

そのきれいな大きな手も
腕をあげた時のきれいな姿も
みんな、大好きだった。

私の腕はあの日から
伸ばしても、
伸ばしても
決して届くことがなかった。
遠い遠い腕だった。

あの時後ろ手に出しためーさんの手を
どうして私は掴もうとしなかったのだろう。

ただ、大好きなだけじゃ
生きていけないのかな

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どうして他人のことは
平等に全てに注意を払い
考えていることやその言葉の真為や
瞬間的に変わる心の動きまで
手にとるように判るのに

どうして自分の事になると
こんなにも嘘を付き
見ないようにし
気付かないふりをして
裏腹な事を言いながら
平気な顔して笑っていられるのだろう。

相手に偽った姿を見せるのは簡単な事だ。
成り済まして漂うなど簡単な事だ。
傷つかない振りや
無関心な振りをするなど
簡単な事なんだよ。

だけどそれを何より許せないのは
誰よりも自分じゃないか。
そんな自分を嫌ってるのは
誰よりも自分じゃないか。

逃げ出すより飛び下りるほうが簡単だ。

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頭脳と体が

ばらばらに動いているような。

そんな日々。

いったいどれだけ私は

自分を騙しているのだろうか



頭で考えていることと

動く体。 

私はその二つを持っている

けれど心はいったい

どちらに置いてきたのだろう。



気持と体の動きは別々だ。

いくら辛くても、体はそうは反応しない。



こころはどこへ置いてきたのだろう



記憶の中の青い森か

それとも、こちらにあるのか。



とにかくそんな日々を過ごしている。

何もなかったかのように、本当の私の思いや姿は

平気な仮面の下に隠れてしまう。

そしてそんな自分を罰してしまいたくなる。

中身のない人間だ、と。


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気を緩めると
あのときのことをつい忘れてしまっている
だけどすぐに気づく。
忘れてないし、忘れてはいけない。

私はここにいてもいいのだろうか

猛烈にあの道を走り出して
空に向かって踏み切りたくなる。

また、繰り返しそうになる

あのことを忘れて。

振り上げられた拳はそのあとどこへ


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