忍者ブログ
ことばは矢のように、あなたのこころに突き刺さる。 あやふやで不安になることばも その傷が癒えることばも。
[274]  [273]  [272]  [271]  [270]  [269]  [268]  [267]  [266]  [265]  [264
先日ブログで書いた、医療と経済について。
私は一番北先生とこの話をしたかったので、北先生からの反論メールが
届いてうれしく思いました。(なかなか会う機会がないので)

この前は医療も自由競争を!という主張の先生の講義を受けた、という話を
書いたのですが、それに対する私なりの不安がある、ということを付け加えました。
自由化していいものと、悪いものがある。
私もそう思います。

研修医が自由に研修先を選べるようになりました。
これは、「自由」ですよね。
だけど、その自由は、局地に集中してしまった。
地方は自由選択の枠組みに入っていない地域、いわゆる「選択の眼中にない」地域と
化してしまいました。
それは研修先の病院だけではありません。
昔はストレート研修といって、目的の科に研修医として働き、専門的な知識を
早い段階から積み上げることが可能でした。
しかし、今はスーパーローテーションが義務化されました。
中途半端に全科ローテする時間があったら、少しでも早く、専門的な知識を学びたいと
思う学生もいるだろう。
確かに一通りの知識は必要だが、今の医療は細分化・専門化が進み
分からない時は専門の先生にどんどん回していくではないか。
まわった先でその先のプロが診断してくれるのだ。

研修医が「毎日5時に帰れて、週休二日の科はどこですか?」と平気で医長に聞くように
なった今の時代。
自由化という大義名分で、人間の生活に必要な最低限の権利が
無くなっていくように思えて仕方がない。
つまり、私は「全国民に生活のすべてのことについて自由を行使させる」ことは
無理だと思うのです。
日本の国民が当たり前に保障されるべきもの、生活を守るもの、命を守るものについては
私も北先生の言うとおり、自由競争の原理を適用すべきではないと考えます。

医師を自由に選べる権利を、患者側に与えるのならば
医師は逆に、その「選べる権利」を守る側に立たなければならない。
教育もそう。自由競争で犠牲になるのは受ける側です。

平等とは、あらゆる「受ける側」への平等であり
与える側の自由と平等は、同じ視点て考えることはできないのではないでしょうか。
そこをごちゃまぜにしたことによって日本は
手が付けられないほど、修正がきかない制度が増えたのではないでしょうか。
税金が足りないから、国民負担を増やせばいいと
単純に考えるのかもしれません。
だけど、税金は毎年いくら無駄につかっているのでしょうか。

国民一人一人が血税を払い
日々の生活で節約を意識し、努力したって
国が億単位で無駄使いしたら、そんな努力は一気に水の泡なんですよ。
要するに
税金をいくら値上げしたところで、日本は根本的な無駄使いなどを必要経費とする
風潮があるためにいくら国民から税金を徴収したところで支出が増えるだけ。
家計簿の付け方知ってるか?と言いたい。
まあ、それはうちの大学にも言えるんですが
ちまちま研究室の電気を半分しか点灯しないとか、図書館の電気は6階以上は
点灯させないことにしたとか、無駄なんですよ。
そんなんで節約していくらになるというのだ。
そんな犠牲を払っても、上が何百万とか持ってったらあっという間に無駄。
私たちは無駄なお金を使わせるために節約を手伝っているわけではないのだ。

国家予算が何兆もあるために、一千万単位の支出は何とも思わない金額に
なってしまっているんじゃないだろうか。
その一千万は、いったいどうやって手に入れたお金なのか
全く考えたことがないように思えてなりません。
木を見て森を見ずとはまさにこのこと。

うちの大学の経済の先生はとても面白い講義をするのですが
時々納得いかない理論を展開することがあります。
たとえば

薬学部生の就職先で一番エリートは製薬会社の研究職!
一番給料がいい!

と、言っていたのですが
私が昔働いていた製薬会社では
土日も休みなく実験し、正月もない、しかも結果が出るまで残業(納期みたいなものありますからね)
そんな生活で給料も超大手ではなかったためにそれほど「超高給」ではなかったので
研究所やめて病院薬剤師になったり、薬局のパートになって
定期的な休みが取れる生活に転職した人いっぱいいます。
それに何より、今やっている実験が本当に薬になるのか分からない仕事
それが研究職なんですよ
抗がん剤の動物実験までやったら全滅したとか
フェーズ2までいって頓挫したとか
そういうことだってあるわけですよ(実際あった)
そしたら今までの自分の残業とか実験とか水の泡な気がするのは
きっと私だけじゃなくいろんな研究所員が思っていたことだろう。
それに研究費の分配もあるので、不毛な研究やってる研究員に

「いつまでパッチやってんだよ!もう諦めろ!」 とか
「また早産したの!? 薬きいてないじゃん!200万がパーだ」とか
そういうこと思う場面が多発するわけです。
自分のしたことが眼の前で実際に見ることができる仕事がしたい。
そう思う人が転職という道を選ぶのです。
間接的にではなく、直接患者さんとかかわりたい。
そういう思いは、医療関係者が根本的にもつものではないでしょうか。
それを一概に「みんなのあこがれは研究所!」みたいなくくられ方は
私はいかがなものかと。
かくいう私だって、飼育管理という根本的な雑用が嫌いで
研究職から逃げましたから。
学生からは

「えーーっ なんでぇえええ」

なんて言われますが、仕事なんて実際やってみないとその苦労なんてわかりません。
私はメーカーの研究所に勤務するのが夢だったので、最初に研究所配属が決まった時は
マイナーな研究所でもとてもうれしかったのですが
はっきりいって、やってみないと分かりません。
あこがれや夢だけじゃやっていけない現実がありますから。

話がそれまくりましたが
経済政策だってそう。理論だけじゃ分からない現実がある。
だけど、経済政策・医療政策という「政策」は
だめだったからすぐ止める、方向転換するということが
なかなか難しいようです。
その中には多大な国民の犠牲を払います。
やってみなきゃ分からない、といって小泉改革は始まりましたが
その改革の結果 貧富の差は増し 患者はタライ回しにされ
結局は新たな改革のために再び国民に犠牲を強いることになった。

いつまで国民は、政策の犠牲になればよいのでしょうか。

医療はビジネスだと考える人もいると思いますが
私は人の命を扱い仕事はビジネスでは割り切れないと思うのです。
いや、むしろ
ビジネス的な観点ばかりから改革したら
私たちの医療は守られないとさえ思うのです。
自由競争の波の中で、患者の命の足元をみるような
そんなアメリカのようになってはいけないと思うのです。
やってみたけどだめだった、というのが許されない分野というもの
が、世の中には存在していると思うのです。


日本はアメリカに倣え、という方式ですが
そのアメリカがはたして世界で一番幸せな国でしょうか
日本はアメリカに憧れすぎて
失敗を教訓に出来ないでいるのではないだろうか
もはやアメリカの失敗を失敗として認識できないほど
日本の政治家の病理は進行してしまっているのかもしれない。

日本国民は
どういうことが現実化されれば 豊かな国だと、過ごしやすい国だと
思うのでしょうか
税金が高くても、医療・福祉・国民の生活 そういったものがきっちり守られていれば
国民が納得できるお金の使い方をしていさえすれば文句は言わないはず。
だけど今の日本は違います
何も守られることなく、いやむしろ脅かされながら
それでもなお改革という名のもとに さらに税金負担を強いる

小泉元首相は言いました。
「改革には痛みを伴う」と。

だけど
こんなに痛みを伴うのに、何も変わらず、むしろ悪い方へ行っているのは
その政策が暗に 間違いだったと示唆しているのではないでしょうか
改革が足りないのではなく、それが間違ったことだったと
なぜ認められないのでしょうか。

自由競争のなかで神の見えざる手が働くというけれど
今のアメリカに、神の手はどこへ行ったのでしょうか
自由という名の下に競争を激化して
神様も怒ってしまったのでしょうか
そして私は 医療・福祉については 神さまの登場は望むべきではないと
そう考えます。


※スーパーローテ―ション(スーパーローテ):すべての科を数か月単位で回り、それから
自分の専門科へ研修へ行く制度。このスーパーローテを2年受けなければ保険診療ができない


拍手[0回]

PR
この記事にコメントする
お名前
タイトル
文字色
メールアドレス
URL
コメント
パスワード   Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
この記事へのトラックバック
この記事にトラックバックする:
カレンダー
04 2024/05 06
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31
プロフィール
HN:
木蓮
性別:
非公開
自己紹介:
山へ行けばわかるよ
カウンター
最新コメント
[05/07 pochi]
[05/01 moto]
[05/01 moto]
[05/01 バード]
[04/29 pepipo]
忍者ブログ [PR]