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ことばは矢のように、あなたのこころに突き刺さる。 あやふやで不安になることばも その傷が癒えることばも。
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誰かに分かってもらうことは必要なことだろうか?
自己満足に溺れずにいるためには
誰かに分かってもらいたいと思う
けれどもそれは何と傲慢で身勝手な思いだろうか。

すべてを打ち明けたら 言った本人は楽になれるかもしれない。
だけどその重さは打ち明けた相手に移動する。

そう 
分かってもらいたい人と受け止められる人間というのは違うのだ。
時に人間というものは大きな間違いを犯す
分かってもらいたい人が受け止めてもらえる人だと
勘違いすることだ
だけどそれは違う きっと違う。
その思いはイコールであれば幸せなことだが
そうではない場合が多いのではないだろうか
それでも人間は 分かってほしい人に受容されたいと願い
叶えられずに失望する。
なんて傲慢なんだろう。
理解してほしいという欲求は古典的な人間の欲求であると同時に
最も傲慢なことではないのか。

理解を求める、といろいろな所で「受容」を強制されそうになる現代
私たちが本当に受容しなければいけないことはなんだろう
本当に理解し、受容しなくてはならないのは
アンビバレントな自分自身ではないだろうか

相手に自分を受け止めてもらいたくて
まるで映画のパンフレットのように
自分自身の説明を付け加えたくなる
だけどそれはきっと
上記のように傲慢で身勝手なものなのだ。
私も時々やりそうになる。

だけどそんな事を 繰り返し 繰り返し
理解を求めるという行為を
ただの押し付けではなく 願いでもなく
分かり合えるという形を取ることができたら
きっとそれは政治の世界でも 私たち個人個人の小さなつながりでも
価値のあることではないでしょうか

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