ことばは矢のように、あなたのこころに突き刺さる。
あやふやで不安になることばも
その傷が癒えることばも。
今日は学校いって補習です
そして明日は実習のレポートの締め切り。
なんとか今日提出したかったので、ここ三日間はほぼ家でゴリゴリレポート
書いてました
おかげでさっき終わりました
オリンピックも大相撲も
ドーピング疑惑がかかっていますね
ドーピングするってことは
それだけその競技で「強さ」を獲得したかったのだろうと思うが
結局は強くても、名誉は剥奪されてしまう。
日本一、世界一の称号(名誉)が欲しくて
そういった薬物に頼ったのだとは思うが
結局は日本一・世界一の「卑怯者」という称号と
その影に
その人間が自分の身体能力を信じ切れなかったこと
負けるということに対して臆病であった事
そう、世界一・日本一の臆病者というレッテルも貼られてしまう。
結果さえ良ければ、いくらずるしてもいいのか。
そういう議論は、日本だって小学生の頃から教育現場で話題になるはずです。
結果さえ良ければ、そこでどんな過程があろうとも
それが見えないものならば、全て結果で判断される。
途中の努力を認めない教育が、一時期広く根付いていたし
そのころに育った子供は、今でもそういった考えが
深く根底に沈んでいる。
私の知っている人で、親も教育者であり、その人も教育者という人がいました。
その人は小学校教諭をしていたのだか、縄跳びの授業の時に
どんなに頑張っても二重とびが出来ない子がいて
毎日毎日、頑張って友達と一緒に放課後に練習を繰り返していました。
しかし、その教育者はこう言い放った。
「いくら頑張って練習しても、飛べないならできないのと同じだし
練習してないのと同じで0点だ」
この言葉を聴いたとき、私は強く反発しました。
子供が力を合わせて教えあい、励ましあっているところに
頑張っても飛べないなら頑張ってないのと同じ。
そういう言い方はない、と。
小学校の段階では、結果よりもプロセスを重んじるべきだ、と。
でも、その人は結局意見を曲げませんでした。
頑張っても飛べないなら、頑張った分は無しだ。と。
結果だけを求めるのは
こんな人格形成が行われる時にしなくても
後でいくらでも出来るだろうし
いくらでも求められるだろう。
だけど、目標に向かって努力する事の大切さ
そして努力するというプロセスそのものの大切さ
そういったものは、小さいうちでしか学べないのだ。
それが否定されて育ったら
結果さえ良ければ途中で何をしてもばれなければいいし
結果を出せなければその努力は全て無効、のうような
白か黒かのようなジャッジメントをするように違いない。
努力する人を馬鹿にするようになるかもしれない。
テストでずるして、うまく切り抜けるような人間になるかもしれない。
でも、そういった根本は、小さいころ、初めて教育という立場で
子供達に触れる大人、そして身近な親たちが作り上げていくものだと
私は思うのです。
努力が実らなくても
その努力はけしてごみのように捨てられるものではないし
けして無くなる無駄なものではない。
今すぐにそれが実らなかっただけで
私は人間の心の中で
いつか必ず豊かな心にたまるものになると
そう思います。
室伏選手が言っていましたね
「金メダルよりも、大切なものがある」
結局は、結果はただの結果であって
一番大切なのは
そこにたどり着くまでの道のりに
金メダルや銀メダルが贈られるのだと
思うのです
そして明日は実習のレポートの締め切り。
なんとか今日提出したかったので、ここ三日間はほぼ家でゴリゴリレポート
書いてました
おかげでさっき終わりました
オリンピックも大相撲も
ドーピング疑惑がかかっていますね
ドーピングするってことは
それだけその競技で「強さ」を獲得したかったのだろうと思うが
結局は強くても、名誉は剥奪されてしまう。
日本一、世界一の称号(名誉)が欲しくて
そういった薬物に頼ったのだとは思うが
結局は日本一・世界一の「卑怯者」という称号と
その影に
その人間が自分の身体能力を信じ切れなかったこと
負けるということに対して臆病であった事
そう、世界一・日本一の臆病者というレッテルも貼られてしまう。
結果さえ良ければ、いくらずるしてもいいのか。
そういう議論は、日本だって小学生の頃から教育現場で話題になるはずです。
結果さえ良ければ、そこでどんな過程があろうとも
それが見えないものならば、全て結果で判断される。
途中の努力を認めない教育が、一時期広く根付いていたし
そのころに育った子供は、今でもそういった考えが
深く根底に沈んでいる。
私の知っている人で、親も教育者であり、その人も教育者という人がいました。
その人は小学校教諭をしていたのだか、縄跳びの授業の時に
どんなに頑張っても二重とびが出来ない子がいて
毎日毎日、頑張って友達と一緒に放課後に練習を繰り返していました。
しかし、その教育者はこう言い放った。
「いくら頑張って練習しても、飛べないならできないのと同じだし
練習してないのと同じで0点だ」
この言葉を聴いたとき、私は強く反発しました。
子供が力を合わせて教えあい、励ましあっているところに
頑張っても飛べないなら頑張ってないのと同じ。
そういう言い方はない、と。
小学校の段階では、結果よりもプロセスを重んじるべきだ、と。
でも、その人は結局意見を曲げませんでした。
頑張っても飛べないなら、頑張った分は無しだ。と。
結果だけを求めるのは
こんな人格形成が行われる時にしなくても
後でいくらでも出来るだろうし
いくらでも求められるだろう。
だけど、目標に向かって努力する事の大切さ
そして努力するというプロセスそのものの大切さ
そういったものは、小さいうちでしか学べないのだ。
それが否定されて育ったら
結果さえ良ければ途中で何をしてもばれなければいいし
結果を出せなければその努力は全て無効、のうような
白か黒かのようなジャッジメントをするように違いない。
努力する人を馬鹿にするようになるかもしれない。
テストでずるして、うまく切り抜けるような人間になるかもしれない。
でも、そういった根本は、小さいころ、初めて教育という立場で
子供達に触れる大人、そして身近な親たちが作り上げていくものだと
私は思うのです。
努力が実らなくても
その努力はけしてごみのように捨てられるものではないし
けして無くなる無駄なものではない。
今すぐにそれが実らなかっただけで
私は人間の心の中で
いつか必ず豊かな心にたまるものになると
そう思います。
室伏選手が言っていましたね
「金メダルよりも、大切なものがある」
結局は、結果はただの結果であって
一番大切なのは
そこにたどり着くまでの道のりに
金メダルや銀メダルが贈られるのだと
思うのです
PR
この記事にコメントする