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ことばは矢のように、あなたのこころに突き刺さる。 あやふやで不安になることばも その傷が癒えることばも。
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死刑が執行されましたね
死刑は人権を無視しているとか、死刑は結局行われないなら
廃止するべきだとか
いやいや 死刑が犯罪の抑止力になっているだとか
色んな意見があると思います

私はずっとずっと昔
まだまだ駆け出しだったアナウンサーの一人に
こう聞かれたことがあります

「あなたは、死刑をどう思う?」

私はその時、「死刑があることで人間は罪を犯すことを躊躇するなら
死刑は存在するべきだ」と答えた。
でも、彼はこう言った。

「死刑は犯罪の抑止力にはなってないよ」

このことはあれからもう何十年と月日が経っても
死刑判決が出るたびに私は思い出す。
そう、彼の言うとおり
死刑という恐怖をちらつかせることが
何の犯罪抑止力にもなってないように思う。
凶悪犯罪は減らない。
むしろこの問いを投げかけられた頃よりも
より残虐で より凶悪になっている気さえする

死刑を執行しないなら
私はある必要の無い刑なように思う
でも執行するのであれば
それに値するほどの凶悪犯罪であるかを
何をもってして判断するのか私には分かりませんが
執行するつもりがあるのなら
その可能性があるのなら
残しておいてもいいのではないかと思います
犯罪者にも人権はあると思うけれど
でももしその人が殺人を犯していたとしたら
殺された人の人権はどうなってしまうのでしょうか
死刑反対をただ死刑囚だけの人権に注目して訴えている人は
被害にあった人の人権に目を向けていないような気がするのです

死んでしまった人は 
なぜ人権を無視され 殺されなければならなかったのでしょう
そして自分が死んでしまったのに
殺されてしまったのに
どうして殺した人間は人権を守られて
死ぬことを回避してもらえるのでしょう
私は今残っている死刑と言う制度は
相手に与えた極限の恐怖を
己にも味わわせなければ
そこまでしなければ 
人間の心を理解できない人間に対して執行する 
唯一残る ハムラビ法典みたいなものではないかと
解釈しています

犯罪者の更生をよく訴えられますが
私は更生というのは
反省とは別の類のことだと思います
反省だけならサルでもできる。というCMありましたよね
あれと同じです
反省したそぶりでも見分けが付かないから
再犯を繰り返したり
その場しのぎの反省を見せたりするわけです

更生とは
その罪を犯したときに
被害者が感じた気持ちにいかに共感できるようになったか
そこだと思います
共感力が無いやつは何度反省しても
別のカテゴリーで繰り返すだけな気がするのです
でも今 他人に共感する力なんて
生きるうえで当たり前のことのように
無視される存在になってきました
共感することが自己犠牲だと思っている子供もいるくらいです
子供と言っても私が指すのは
大人になりきれてない20代も含む、です

共感する体験を積み重ねずに育った子供は
薄っぺらい感情しかもてず
でもその薄っぺらい世界が全てになってしまう

こころはどこに行くんだろう。

日本人のこころの教育は
どこへ向かおうとしているのだろう。

私には、終焉を迎えようとしているように思えてなりません。

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