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ことばは矢のように、あなたのこころに突き刺さる。 あやふやで不安になることばも その傷が癒えることばも。
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今日は毎年恒例の昇仙峡の日。
今日も馬車に乗ってきました。
一年に一度しかいかないけれど、今回の昇仙峡は
お店がリニューアルされていたり、馬車の終点が変わっていたり
水飲み場がなくなってたりと、いろいろ変わっていてビックリ。
でも、往復馬車にのって、大満足な一日でした。

往復6時間かかるので、移動の社内では今まで時間がなくて話せなかった
いろんな相談ごとや話をたくさんしてきました。
今はほとんど仕事の話中心でしたが
精神科と心療内科の一般的なイメージの話(注:先月の日記参照)や
そういうイメージ持ってる一般人っていうのは来院対象じゃないからいいんだよ!
みたいな話や、今後の事業展開の話などなど。
久しぶりに仕事の話をたくさんしたなあという感じです。

山梨は今日は曇りで、ひんやりとした肌寒い一日でしたが
此処に来るたびに「ああ、11月って秋だなあ」と思います。
私が生まれ育った北国や、仕事の関係で住んでいた旭川などは
11月といったら冬なので、ここにきてから11月なのに雪が降るどころか
紅葉のシーズンだったことに驚きでした。
北国で紅葉って言ったら9月10月の秋なのよ。
こっちで言ったら9月なんかばりばりの残暑まっただ中なんだけど。

なんだか関東で暮らすようになってからの方が
季節感がはっきりしてるような気もする。

そうそう
車の中で話題になったことの一つ
私の通ってる大学の薬学部の学生が、薬理の先生に

「先生、なんで薬理なんてやんなきゃなんないのーっ!」

と言ったので、薬理の先生が「なぜ、薬理を学ばなければならないのか」
というストーリー仕立てのロールプレイみたいなものを出してきて説明
してくれた、という話。

でも、

薬理っていったら薬学の王道だろう!

薬理やりたくないならもはや薬学部に存在する意味がないだろう!

医学生が「何で内科やんなきゃなんないのー!」って言ってるのと同じだろう。

ありえない愚痴だ。

今の学生って何考えてるかわかりませんね。
というオチでした。

薬学嫌いな薬学生。

えっ?

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最近近所にこのポスターが貼ってあるけれど
どう考えても

「麻生が、やりぬく。 でも、今じゃない!」
って見えて仕方ないんです・・・
たぶん別の業者に頼んだんでしょうね
全くこういった状態で貼られるのを想像もしなかったんでしょう・・・

これ見たらきっと

「今やらないのかよ!」

って突っ込みたくなりませんか?


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昨日は物理実習3日目。
生物系実習ちがい、出席番号順でならぶ前期と同じ班構成です。

そう。

覚えている人もいるかと思いますが
あの、常に確認したうえに、説明したらそれを否定するという
私がイガグリを投げつけそうになった(というか投げた)彼がいるのです。

したばって今回の私は冷静。

あ、「したばって」っていうのは青森弁で「しかしながら」「だけれども」という意味です。
所により「したたって」というところもあります。
まあ、青森弁講座はおいといて。

彼のぞんざいな態度は、後期になっても相変わらずご健在で
班員に対しての話し方が

ねー! これ三角フラスコじゃなくていいの!
ねー! 〇〇に△ってかいてあるよ!やんなくていいの!
ねー! ねー! もう時間じゃないの!そっちやってよ!

なぜにそんなに態度がでかいのか。
せめて人を呼ぶときに「ねー!」はやめよう。ちゃんと名前があるのだ。
名札だって付けてるから、名前はわかるはずなのだ。

そんなんだから、班の他のメンバーもムッとしているのが
傍目に見てよくわかる。
話しかけないし、やらせないのだ。メンバーの一員になってない。
そんな感じです。彼一人だけ、別世界なんです。彼の中でも、私たちとは
別世界の人間だと思ってるのかも知れない。

前期は大人げなく切れましたが 今回は実習が終わった後
彼が一人になった時に言いました。

「あんな言葉使いしてると、みんなをいやな気分にさせちゃうよ。
これから一緒に頑張っていこう!っていうメンバーになるんだから。
それにOSCEでも態度見られるから、今のうちにあの態度と話し方直していかないと
急には直せないよ」

と、かなーりやんわり、冷静に。そして感情を全く込めずに言いました。

そしたら

「自分でも気づいてはいるんですけど・・直せないんです」

というので

「家でも親に ねー! とかちょっとー!って言ってるんでしょ」
と指摘したら

「そうです・・・」

彼は家では殿様扱いなのだ。
母親に対して「ねー!これ食べられないって言ったじゃん!」
とか、そういう事ばかり言っているそうなのです。
それに素直に従う「ごめんね、ママが悪かったわ」という母。
自分の思いどおりにならないところばかりを指摘する。
しかも、彼の場合相当な早口で、もごもごとこもった感じでこういった
ことを言うので、本当に「ぞんざいな」感じになってしまうのです。

でも、本人気付いてるというので
「じゃあ、少しずつ直していこう!来週からやってみよう!」
と言って彼と別れました。
彼が来週からどうなることか、ちょっと見てみます。
急には直らないですけどね。長年積み重ねてきたわけだから。

彼は5浪しているので、周りの人間は皆「年下」だと思ってるようなんです
自分より下の人間には、ぞんざいな態度をとる。
しかし、クラスの金髪の派手なおねーさん(年下)に
「ねえねえ」と話しかけられたら瞬間的に

「すいません!俺頭悪いんで!」

なんだその返しは。
きっと学生時代、そういう態度で一度や二度
いじめにあったことがあるのだろう・・・
それにしても、自分は年上だから威張っていい。
という態度はよろしくないですよね。
〇〇だから威張ってもいい、ということはないと思うのです。
相手を見下して威張ること自体、よくないことだと思うのですよ、私。

でもここでは自分が上になって
強い立場になれたと錯覚してる部分もあるのでしょうね

いろんな育ち方の学生がいるのですが
特に私の通っている大学は学費が高いので
お嬢様・おぼっちゃまが多いのは事実。
でも、そういった家庭に育ったからと言って、性格が悪くなるとは限らないし
そういった家庭に育ったからこそ、根性ねじ曲がったりもするわけで。
要は環境要因が大きいと思います。

鈴先生とかは「親の育て方が悪い」というけれど
私も、こういった「人間への根本的なかかわり方」や
社会に対する常識的な行動などは
やっぱり親が見本になるから、親の責任が重大だと思うのです。
よく「放任主義」で育てている、と自慢げに言う親がいますが
そんなのは自慢でも何でもなく
常識的な教育や人間としての教育を全く施さずに
今まで衣食住と金を豊富に与えて飼ってきました
と公言してるのとおんなじだと思うのです。

そんなの何の自慢にもならないのに
それが自慢で、非常識な行動や言動も
「個性」と、面倒な関わりをしたくない一心で
無視した結果だと思うのです

人間関係や生きていくことは
めんどくさくて泥臭くてうざいもんなんですよ。
だけどそれを避けていたら
私は人間が人間ではなくなってしまうと思うのです。
人間関係は、うざいのが当たり前。
気遣ったり、気遣われたり。
あたり前が、うざいの3文字で片づけられる世の中が
この先どんな人間社会を生むのでしょうか。


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水曜日は恒例の社員旅行。
今年は箱根に行ってきました。
私は大学があるので、実習が終わった後箱根に向い、宴会から
合流しましたが、すでに皆さん出来上がっていたため
素面のテンションと合わせるのに一苦労。
この箱根のために、金曜朝一提出の微生物のレポートを
必至で火曜の夜に完成させたため
宴会でごはんをたべ、温泉につかっって部屋にもどって
布団の上に横になった瞬間
二度と朝まで起き上がれなかった・・・
みんなは4時まで麻雀してたみたいだけど。
交流できずに今年も終わってしまった。
翌日は皆が寝ている間に大学に出発。
酷な日程ですね・・・まあ社会人と学生の時間の差って
こんなもんだろう。

大学生活では最近
「若い人にはついてけないなー」と思うことが
ちらほら出てきました。
この間の実習のレポート手分けしよーぜ!っていうのもそうだけど
昨日も親しくしている友人の一人が
関数電卓がほしー!と買いに行って
実際使ってみたら、分数が分数のまま表示できない関数電卓
(まあ、この「自然表示」というのがカシオの特権で逆に珍しいのですが)
だったことに気がついて
せっかく何千円も払ったのに

「何これー!使えないじゃん。説明書読んでも分かんないし。
新しいの買う。これ捨てるしかない」

というので

「関数電卓買う時にいろいろ見なかったの?説明とか箱に書いてあるものとか」

と聞いたら

「見たよ!なんか、なんとかが230と100いくらできるって2つあって、多い方がいいかと思って」

私「じゃあ、その多い230ってやつは、何する機能なの?」

「いや、分かんない・・」

コラ。
「だめだよ、せっかく何千円も払って電卓買う時にちゃんとよく見て比較して買わなきゃー。
お金ももったいないじゃん。安くないんだし」

と言ったら、きっとそれは年よりの考えなんでしょうね

「えー。だってお金もったいないっていっても、どーせ私のお金じゃないし。
親のお金だし。 また新しいの買おうっと。」

むっ。

いかんいかん。

こういうのって普通なんでしょうね。

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おはようございます。
このところ妙に山に登りたくて、ついに週末行ってきました。
といっても400メートルそこそこのちび山ですが
これがなまった体にはなかなかのものでした。
しかもメガネっこにはさらにツライ。

そうそう、ご心配頂いております目ですが、昨日の診察で
傷は治ったけど角膜の濁りがあるで、あとはこのままにするか
それともダメかもしれないけどあと二週間ステロイドを
点眼するか、どっちでもいいよ!とのこと。
こんな提示じゃ後者を選ぶしかないだろう。
黒目にかかっていないのが幸いして視力に影響無いのですが、
あと数ミリずれてたら移植(またかよ)だったらしい。
右目の移植の時は目をちくちく縫ったのに跡がないのは
細菌に感染しなかったからという理由だけなのだろうか。
謎だ。


こないだの試験の成績が却ってきました。
いやー、ほんと綱渡りですね。
首ねの皮一枚とはまさにこのこと。
啖呵切った機能形態学と薬理だけは高得点を死守したのが
幸いです。あとはみんな危険ゾーンすれすれ。よくぞ追試
にならなかったと採点の大らかさに感謝です(笑)

勉強というのは
学ぶ楽しさというものがあるわけだけど
それは一旦そういう場所を離れないと得られないものなのかも
知れません。
なぜ学ぶかが明確ならきっと
分かる楽しみがあるのだろうなぁ。

私の場合、丸のまま試練ですが。

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私の本音は
一体誰に話せばいいのだろう。

私の本当の立場を理解してもらえる人がそばにいれば
私の腕を掴むその手を
振りほどくことが出来るというのか。



だからその手を離して


私の大事な命綱。

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昨日で微生物実習もおわり、第一クールの生物系実習Ⅱが終わりました。

最終日はグラム染色の実技試験と、大腸菌培地と黄色ブドウ球菌に対する
抗生物質の感受性を調べる実験でした。
簡単に言うと、前の日に、各種抗生物質を含んだ小さい紙(薬剤ディスク)を
大腸菌や黄色ブドウ球菌が含まれている培地に載せて、紙のまわりに菌が生えず
円形に透明な培地になれば(これを阻止円といいます)その紙に含まれている抗生
物質は、その培地に生えている菌に対して有効だということ。

私の班は前日に大腸菌培地と黄ブ培地に8種類すべてを入れなければならないの
ですが間違えて2個ずつ入れてしまった薬剤があり、各培地で1種類ずつ、感受性を
調べられないものがあったのです。
実習担当の先生は

「もし、菌が生えなかったり、阻止円ができなかったような場合は、観察できないから
その分だけ他の班の様子を見せてもらってレポートに書いて」と言っていました。

しかし、うちの班のメンバーたちは
「一種類だけ他の班のやつ書いたら、ディスクの並びも違うからおかしくなんねぇ?
めんどくせーから全部隣の班の結果写そうぜ」

うちの班のやつも、他のはちゃんと結果でてますけど、あたかも自分の班がそうだった
みたいに隣の班の培地の様子を書くつもりか。
しかも、阻止円の大きさを定規で測るのだが、私が長さを測っているとさらにもう一人の
班の子が私に

「もとさん、測った長さ同じにしないといけないんで・・(勝手に測らないで)」

なぜそれぞれ自分で測った結果をレポートに書くのに、全員同じ長さに揃える必要が
あるのか。どうせ違っていたってその誤差1ミリくらいだ。
しかも君たちは隣の班の培地をあたかも自分の班の結果だとスケッチし、長さも隣の班
の一人が代表して測ったものをまる写しじゃないの。
なので私が

「同じにする必要ないじゃない。それぞれ測ればいいんだよ」

と言ったら、「他人と1ミリでも違う数値が違うと間違いで、その間違いを書くのがいや」
というような感じでもごもご。結局私以外の二人は、自分の班の培地の結果ではなく
隣の班の成功したものをスケッチしていた。
失敗すると考察しないといけないから面倒なのだろう。

要するに、なぜか19班の結果は、20班の私を除いた班員とまるっきり同じ値。
私だけ全然違う培地のスケッチで、当然阻止円径も別の値。
どーいうこっちゃ。
まあ別に他の班のメンバーがたとえ自分たちの結果に満足できなかったからと、
隣の成功結果を写したっていいけどね。
私は科学者としてのプライドがあるので自分の班(20班)の事実をレポートしますけど。

さらにその実習には課題があり、8種類の抗生物質について、用法用途などを調べて
レポートしなさい、というものがおまけであったのだ。
そこでまた班の一人が、隣の班と打ち合わせたらしく私に

「課題調べるのって8種類もあるからめんどくないですか?
みんなで2種類ずつくらいで手分けして調べようってことになったんンすけど」
(勝手に「なったんですけど」って決めるなよ)

と、言ってきた。
内心

「何で生まれて初めて大学生やって、しかも微生物なんか初めて調べるようなそんな
若造が調べたものをレポートに写さなきゃなんないんだよ?
人がやったやつなんか当てになんないし、あてにするつもりないから
結局自分で全部調べることになるから無意味。
それに調べたものが間違ってたら、この班と隣の班のメンバーが全員同じ間違いする
ことになるんだぞ。そうなったら誰が責任とってくれんだよ・・・
だいたいなー、たった8種類調べんのをめんどくせぇとか言ってんじゃねぇよ!」

と、大人げなく思いましたがそこは堪え、

「そうすると、隣の班も含めて、全員同じレポート書くことになるよね?
文章まったく同じやつ。それでいいの?先生いいって言ってた?」

と返しました。
あからさまに「こいつKYだ」みたいなふてくされた顔されましたよ。
彼らの意図が踏みにじられたわけですから。

彼らはとりあえず助手の人にきいてみる、と言って聞きに行きましたが
「うーん、わかんないから先生に聞いてみな」
との答え。

そのあたりでもう彼らは分担する気満々だ。
そりゃそうだよね。テストさえ高得点とれば、実習で優がもらえるなら
とにかく結果だけ、答えだけを暗記すればいいんだ。
調べる時間なんか彼らには無駄以外の何ものでもない。

結局先生に

「自分で考えろ」

と言われたみたいです。あはは、あたり前ですよね。

今回の微生物実習は、「当然のことはいちいち言わない」方針だったようですが
今の学生にはそれはちょっと酷だったようです。
例えば、菌を扱う前に白金耳を焼く、と初日教わりましたが、翌日の別の実験の日には
言いませんでした。そのため学生が

「ねえ、白金耳って今日も焼かないとだめなの?」と言い出す始末。
私が
「そうだよー。常に焼かないといけないんだよーこの操作では
白金耳焼くっていうのはもう常識的にやんなきゃいけない操作なんだよー」
と答えると

「だって今日先生焼けって言って無いじゃん。」とふてくされて反論。
いかにも私が嘘ついたような、そんな感じで睨みつけてきます。
もちろん、上記2つの言動により、私は班から浮いてしまいましたよ。
村八分(死語)です。彼らには「こいつうぜぇ」と思われたに違いない。

その他にも

「せんせー! シャーレに植えた菌とか班の番号は書かなくていいんですかー?」
と、手をあげて質問していたやつがいた。
先生は

「当然です!いちいちそんなこと聞かないでください。常識です」

と答えたのだが、学生側はブーイング。

「だって言わなきゃわかんないじゃん。」
「言ってくれなくちゃ、後から書かなくていいって言われたら嫌じゃん」
「今回の実習って、先生あんまり説明してくれないよね」
しまいには
「あの先生キライ。ちゃんと説明してくれない」

・・・・・・・・・・・・・・・。

おねーさん返す言葉がありません。

そこまで指示出さないと何もできないのか。
答えだけは覚えるのが得意で
テストすれば高得点とり、何も理解してないのに「できたー」とか
いい点取ることだけが正しいことで
間違うことは不要なこと、ただ回答だけ覚えることに心血を注いだ
偏差値教育体制が悪いのか
それともゆとり教育という名の、子供に「自ら考える」ことをさせない
そういった体制が悪かったのか。

ゆとり教育は日本史上最高のバカを生んだと
何かの集会で聞いたことがあるが
いま、まさにそのゆとり教育第一世代・第二世代と机を並べて
学生生活を送っている私には
その発言はけして間違ってはいないと思っている。
全員がバカとは言わないが
日本史上最高に「自分の力で考えられない子供」や「常識なし人間」を
量産したことは間違いないだろう。

答えを間違うことを、なぜそんなに恐れるのだろう。
そして、周りと違うことをなぜそんなに恐れるのだろうか。
他人に迷惑をかけるような、個性とも呼べないようなものを

「これはうちの子の個性ですから」

と言ってはばからない親。
そして、それが正しいと信じて疑わずに育った子供。

医療系に進んでいいんだろうか?こんな学生たちが。
自分で調べることがそんなに「超だりぃ」ことなのか。
だったら大学生なんかやめちまえと言いたい。
親からのお金で何の不自由もなく学生生活を送っているのに。
自分で勉強したくて、薬学について学びたくて、もしくはその必要があって
わざわざ大学入学という道を選んだのではないのか。
まさか「親に行けって言われた」とかいうんじゃないだろうね・・・

もう 親の庇護がなければ
生きていけない幼児でもないのに
なにかあれば親のせいにするし、親がいないと生きられないようなことをいう。
しかし、その割には親への文句を言う。
「早く死んでほしい」なんて発言は何度学生から聞いたことか。
自分の力で働いて、生活したこともないひよっこが。
気分だけは一人前なのに、実際には一人をものすごく恐怖する。
アンビバレントな思春期が、大学生になってまで続いているかのようだ。

高校卒業してすぐ働いているような、そんな若者がいる一方
何も考えずにただ毎日だりぃ、と文句をいいつつ
お気楽に大学生をやっているような若者もいる。
そんなことを考えるのは
私がもう年よりだからでしょうか?
これがジェネレーションギャップというものなんでしょうか。

甘やかして育てられた若者は、困難を回避し、打たれ弱く
苦労なんて言葉は死語と化しているだろう。

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風邪っぴき中です
年に何回か必ず風邪をひいている私ですが
学生やるようになってから風邪ひくようになりました。
今まではクリニックに毎日いるから、風邪とか気を付けていたし
完全予約のクリニックなので、そんなに沢山の人とひしめきあうような
そんな待合でもないので。

さてさて 今朝の通学電車のなかで
一人、知的障害の方がいらっしゃいました。
その方は毎朝電車が一緒になるのですが
時々、電車から見える景色が楽しいのか
一人でおしゃべりしていることがあります。

今日、近くの私立の小学生が
その方が一人でしゃべっていることに、
子供ながらに奇異さを感じたのでしょう
数人の友達とコソコソと「あの人一人でしゃべってる」
「変だね」などと言い合っています。
そしてその小学生の中で数人が
珍しいもの見たさか
その障害者の傍に行き、じろじろと見ています。
その光景が、あまりにも私にとって嫌な感じでした。

しばらくすると中年のおじさんに制止されていましたが
私はこの朝の出来事を、家に帰って大人に話したとき
どうその障害者の方のことを説明するかで
その子の障害者や精神疾患といった方たちへのこれからの見る目が
決まってしまうんだろうなあと
思っていました。

「それは“変な人”がいたねえ」と もしその親が言ってしまえば
その子の価値観は「障害者は変な人」ということになってしまうでしょう。
もし、親がきちんと病気や障害のことを理解して、みんな同じ人間なんだと
そういうことを説いたらきっと
その子が障害者や病気の人に対する考え方、見る目は
きっと「私たちと同じ人間 個性がある」「病気がそうさせている」
といったものになるでしょう。

奇異な目に、子供には映るかもしれない。

だけど、それを大人がどう受け止めて返してあげるか。
そこが本当の大切な教育だと思うのです。


大学では
今日はグラム染色の実習でした。
お向かいの班員は、こういってはなんだけど
どーもまじめさに欠けているように思う。
そしてその班のメンバーと仲良しのうちの班員もまた
実習にたいするやる気のなさがはなはだしい。
今日は微生物を使う実習なのですが
大腸菌がついたピンセットを 火炎滅菌もせず
その辺にぽんぽん置いておくので
微生物の教授が一言

「ピンセットは汚染されているんだよ。ピンセットは焼きなさい。
あなたのテキストは汚染されちゃったんだよ。」

と言いました。
でも、その子は一向に「はぁ?何いってんのこのオヤジ」という目で
無言で睨みつけています。
そりゃそうですよね、見た目全然汚れてないですから。
大腸菌うじゃうじゃのピンセットでも
何の汚さも危険さも感じないわけです。
その後も先生は「ピンセットを焼け」と言っているのに
全く何言ってるのかわからない様子。
なぜピンセットを焼くのか
全く意味が伝わってないのです。
「うざいこの先生」というかんじで
睨みつけているだけ。

先生ももう「こいつ何言っても無駄」と思ったのか
どこかへ行ってしまいましたけど。

理由も分からず、ただ実習をこなしいているだけの学生が
試験で問題の答えだけ覚えたところで
それで知識がついたと言えるのでしょうか。
行動に対する理由つけが自分で理解できないのに
答えだけはわかる。

たとえば、大腸菌= 汚い
というのは答えられても
だから大腸菌を扱ったピンセットは滅菌する必要がある
というのは、問題に出ないので理解できないし、理解しようともしない。
問題に出てくるようなものだけを、言葉として機械的に頭に入れているような
そんな気がしてならないんですよ。

大腸菌に汚染されているピンセットだということは理解できても
だから汚染を広げないために、そのピンセットは火炎滅菌するということは
考えが及ばないんですよね。

目の前の物事に対して
1問1答方式でまる覚えする。
応用力がないのは、あたり前だと思うのです。
応用できなくたって、目の前のことだけ覚えれば
なぜそうなるか、とか、どうしてこうなのか、という奥深いところまで
考えようとすることは、彼らにとっては無駄以外の何物でもないのです。
それで点数がとれて、いい成績がとれるのに
何を無駄なことを、ということだろう。
何かを考える前に「だってテキストに書いてあるもん」
それで片づけてしまう。
テキストに書いていないことでも、サイエンスの事実はたくさんあるのに。

わかる楽しさも、それじゃあきっと
一生ないんじゃないだろうかと そんな気分になります。


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ここ最近は毎日実習に追われていて
買い物にゆっくりいくというより、ある程度目星をつけて
ネットで買い物してしまっています
これが結構危険で、人間PCの画面の2時間以上みていると
ある種の軽催眠状態に陥ってるんですよね
ネットサーフィン2時間以上は要注意です ついつい
バーチャル感覚でどんどん「購入」ボタンを押してしまっていた・・
ということもあり得ますからね 自分もそんな感じになりそうに
なってました。

そして事件がひとつ。
私はもともと目が悪く、普段はコンタクトレンズのお世話になっているのですが
ちょっとお疲れ気味の私はこの間コンタクトをしたまま寝てしまい
朝あわてて剥がしたら(はずしたら)
目の充血がひどく、おまけに目に白い斑点ができてるじゃないですか。
とりあえずメガネで大学へ行って、その間に信頼できる眼外科医の先生に
メールを打って、どうしたらよいか打診。

大学が終わって、目も充血や斑点は相変わらずだけど
痛みは治まってきたので病院へ行かず、メールの返事を待ってました。
帰宅して、夜中にメールが「すぐ病院言ったほうがいいね!」
ときたので 抗生剤を点眼して、明日病院いこ~と のんきに寝ました。
それほど自分がひどい方だと思ってなかったというか、ありがちな
自分だけは重傷だというような気分にならなかったのです。

翌朝。
相変わらずの大充血です。
大学の帰りに最寄駅の眼科に行きました。
そしたら
休診。うっ。
昨日インターネットで調べたら、一刻も早く治療、
と書いてあった角膜潰瘍に非常によく似た症状だったから。
この日には絶対診察してもらわなくちゃ気が済まなかったのに。
仕方なく、帰り道にある眼下を探し、職場の隣駅(といっても急行でとなり)
の病院に診察終了時間ぎりぎりに歩きつき 診てもらいました。

私は3年前に角膜の一部を自己移植しているのですが
移植を受けてから、初めて、私の結膜移植をしてくれた先生以外の眼科医に
診察を受けました。

そしたら片言の日本語の眼科医の先生が出てきて

「あなたコレ重症ね! 角膜潰瘍。そこに細菌も感染してるヨ。
しばらくメガネダメネ」

がーーん。
コンタクトレンズ関連の眼疾患で最も重症なのが、角膜潰瘍なんです。
実習でも使った染色液で目を染めて、特殊なカメラで写真を撮ったら
角膜3層のうち2層まで穴空いてました。
しばらくコンタクト封印です。
ということで、このところメガネっこな私です。

しかし
メガネは去年作ったはずなのだが
どうも黒板が見えない。電車の電光板も読めない。
なぜだ。去年作ったばかりなのに。
眼科で処方箋も出してもらってメガネを作ったのに。

とりあえず道すがらの池袋のメガネ屋さんに慌てて行きました。
(なぜ池袋かは、たまたま池袋駅前に激安メガネ屋があったから)
本当は別の店に行きたかったのですが
探す暇もなく、ふとそこにあった激安メガネ屋へ入ると
男女二人きりのお店です。
男、ホストかと見間違うくらいの態度と容姿とトークです。
女、やる気がわずかながらも感じられません。
お客に対して話す言葉がすべて棒読みです。

でも急いでいたのでそこでやってもらうことにしました。
そして、今の視力を測ってもらいました。メガネをかけて。
そうしたらなんと!0.4しか見えてませんでした。
メガネかけて結構見えると思っていたのに、たったの0.4。
再びショック。去年からマイナス0.6ですよ。
明らかに 度が進みすぎ。
コンタクトは一段強めだったのですが
それでも0.7しかみえてなかったということが判明。
いったい1.0の世界ってどんだけ見えるんだ。

レンズを出され、球面と非球面が一種類ずつしかない状況で
選択の余地なく非球面を選ぶ。
ホスト(のような)店員さん
検眼用のデモレンズを机にぴしゃぴしゃ置きながら
ものすごいマシンガントーク。

「見える?どう?おかしくない? じゃいっか これで」

・・・・いいのかよ。

しかもしばらくして乱視が入っているということを告げると

「乱視? どれどれ。 あー。 これ、入れたらどう?見やすい?!」
乱視用のレンズを左に入れてもらう。

ますます見えなくなってます・・・・・・・・。
というか

見えなくなりました。(どーゆーこっちゃ)

店員「じゃこれは?」 と別のレンズを検眼用メガネにはめる。
それでもいまいち見えない。
やっと3枚目で、ばっちり。 一抹の不安がよぎるとはこのことだ。
やっぱり当初予定していたメガネ屋に行けばよかったのではないかと
ここでちょっぴり後悔したが、すでに遅かった。

「じゃ、見え方問題ないっていうから、これでやっちゃうね」

店員(女)、セリフどおりに
「では、30分ほどで出来上がりますので、店内ご覧になってお待ちください」

って、メガネないから見えないよ!
0.04の私をこんな狭い割れ物満載な店内で無謀にも放ってしまうつもりか。

店員(ホスト)が間髪入れず
「っつか待ってる間なんも見えないっすよね。10分で作ります」

あっという間に出来上がったメガネ。
恐ろしく見えます。あまりにも見えすぎてコワイくらい。
というか、これこそが1.0の世界なのか。
みんなこんなに見える世界に生きているのか。
検眼の適当っぷりにちょっとひいてしまったが、どうやら
過矯正でもないようなので一安心。

そんな風に出来上がったメガネをして
久しぶりにメガネを通しての世界を過ごしています。
そして相変わらず股関節脱臼のリハビリ中。
結構これがしんどい。全く右足をうまく動かせなくなってしまいました。
でも、躓くのは少なくなってきてます、確実に。

そんな毎日を、このところ過ごしていました。

気がついたらすっかり秋ですね

そしてあとほんの少しで
私の誕生日がやってきます。
ビタミン先生と出会ったのも、ちょうどその日。
コーヒーカップは無事回収してきました。
私が再びビタ先生を尊敬できるようになるまで
しばしお別れです。
(っと思っていたら、「もうしばらく来てないねー」 と、研究室で
話題になってたとか・・・^^:)

誕生日は年を追うごとに 重要度が下がり
忘れかけた存在や、来てほしくない日になるといいますが
私は私が生きていた証として
生きているということを実感できる大切な日として
いい年した今でも
とても、とても大切な日だと思っています。

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精神科と心療内科と、いったいどこが違うのでしょうか
実は今年は医療法の改正があった年で
新たに標榜科名の前に、対象者を記載することが認められたのです。
この「標榜科」とは、内科とか、外科とか、厚生労働省が定めた診療科のことで
医師免許さえあれば、その中のどれでも看板に掲げてよいことになっています。
ただし、あくまでも厚生労働省が定めた診療科のうちから選ばなければなりません。
勝手に「ストレス科」とか、「頭痛科」などという看板をあげてはいけないのです。
これは、医療法として定められている「広告」にあたるものだからです。
病院の看板も、もちろん「広告」です。

標榜科名の前に対象者をつける、というのは「小児歯科」などのように、対象(専門とする)
患者さんの大まかなものをくっつけた標榜をしてよい、ということです。


今私の勤めているクリニックでは、この外看板をどうするかでちょっともめています。
私と院長の考えは、

「いつ無くなるかもわからない心療内科という、内科の看板はあえて掲げず、
思春期・児童と女性を対象としたクリニックであることを推し進めたい。
児童思春期精神科・女性精神科でいきたい」

というものです。

しかし、カウンセリング会社の社長(系列会社ね)は
「精神科だとイメージ悪くて客が来ない。心療内科というソフトなイメージを残し、
患者を増やすために心療内科は出し続けるべきだ」

というのです。

いるんですよね、こういう勘違いというか、偏見をお持ちでいらっしゃる方。
心療内科医は内科ですよ。内科医って書いてあるでしょ。

だけど、どうしてここまで出来上がっちゃったんでしょうか。
こころのことは、心療内科医、みたいなことが。

昔、いまほど神経症、ヒステリー(何度も言いますがキャーとかキーとかいう
やつじゃないからね)がメジャーな疾患ではなく、というより疾患だと認識されずに
ただの心の弱さだの気がふれただとか、そういった差別的に「気のせい」として
取り扱われていたころ
精神科のメジャーは精神病でした。今でも本気の精神科医は精神疾患を治したい
精神病を治したい、と思っているかもしれません。
精神病とは、統合失調症(昔の精神分裂病です。何を分裂させたか不明なネーミングだが)
や躁鬱病なので、見た目にも「この人の中で何かが起こっている」的なものを
感じさせる疾患を対象としていました。

今でいうPTSD、神経症、リストカッターはどうしていたかというと
神経症は必ず身体症状がでるので
内科に行っていたわけです
頭痛がする、お腹が痛くなる、食欲がない などなど
当然そういった人たちはとりあえず体の具合が悪いので内科に行きますよね
内科の先生はもちろん、どこか器質的に悪いのかと思い治療します
胃が悪いのかな?それとも頭に何かできているのかな?
でも何度調べても何も出てきません。
だけど症状は止まりません。お薬はどんどん増えていきます。
患者さんは診察で身の上話が主で症状について辛いという話をあまり
してくれません。
症状が出ているときだけ、器質的な変化が認められるのです。
それ以外は普通の人です。

とある内科の先生は、これが心の問題ではなかと思いはじめました
でも、当時の精神科は精神病圏の患者をみることがステータスで
神経症圏の患者を診る精神科医の先生は邪道だったのです。

これがいわゆる「心身症」のはじまり、心療内科の始まりだと思うのです。
心身症を治す。これが心療内科のターゲットなのです。
心身症とは心が原因で体に症状が出ることだといわれますが
ぜんそくや過敏性腸症候群などが「心身症」に相当するものです

そう、今の心療内科は
専門外の患者に追われているうちに
自分の専門さえも忘れて にわか精神科医としての
活動をせざるを得なくなった
そしてそのうち 自分たちこそが そういった疾患を見る科であるような
錯覚を起こしているのではないだろうか。

精神科医のやるべきことを、内科医がやる。
そしてだんだん詳しくなって、心療内科医と名乗る。
心療内科の研修なんて、ポリクリでなかったのに。
見よう見まねで大きくなってきたような、そんな印象があるのです。

だけど
こんなにも曖昧な科ってあるでしょうか。
心を治療する内科。心療内科。内科は外科手術をしない、
内蔵の病気を診る科。矛盾してます。
心は精神とイコールであるなら、精神内科はどうして無いのでしょうか。

それは日本人がこびりつけてきた「精神」という言葉のイメージが
悪すぎるからです。
精神論、という言葉もありますが、精神とは軍隊を連想させる
日本独自の根性文化に根付いているような気がするのです
それが精神というイメージ。
心が弱い。精神科行く人=心が弱い
精神科=おかしい人
そうじゃない。

完全にそうじゃない。
精神とはこころ。心をつかさどる脳の働き。
脳の動きや記憶に関係するもの。
人間には記憶がある。その記憶が体を無意識に支配することがある。
それこそが精神病以外の、精神科の真骨頂だと思うのだ。

心療内科は
けして心をみているわけではないと思うのです。



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妙な夢で目が覚めた。

夢は叶えられない願望や、記憶のつじつまを合わせる為に
人間の脳が行う倉庫整理みたいなものだという。

私はどうしてこんな夢を見るんだろうか?
古池から電話がかかってくるけれど
私は話したいことがあるのに電波が途中で途切れてしまう。
かけ直そうにも非通知でかけられない。
ただ、私が生きてここにいることだけ伝わっただけ。
たったそれだけの通話。

もっと話したいことがあったのに。

謝りたいことも、感謝したいことも山ほどあったのに。

だけど最終的に私は一番
古池に伝えたいのは

今、生きてここにいます

私はここにいますと

伝えたいんだろうなあ。


キンモクセイの花が散る前に。


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だから今年も
キンモクセイの匂いがする

甘くて歯が痛くなりそう

歯の痛みには…




思い出は色あせなくて辛い。
あの場所に
キンモクセイなど無かったのに。




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自分を許すことができたら
どんなに楽になれるだろうか。
いろんな記憶から逃れて前を向いて生きていける。
(ような気がする)

他人を許すより自分を許すほうが難しくできている。

悲しみや過ちを打ち消して
流れの果てを望むよ

他人を許すのにはいくらでも理由が付けられる。
だけど自分のことには理由が付けられない。
言い訳ができない。

だから時々苦しくなる。


今でも私は
自分で自分を許すことができない。





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めげないきもちを
何かで手に入れることができるなら
今すぐそれを手に入れて
もう泣いたり落ち込んだり悲しんだりしなくていいのにね。


めげて明日を無くしたくても
何だろう

何かが明日も自分を
こんな毎日に放り投げる。

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昨日とある女の子が

「引っ越ししたいな~ ペットが飼えるところがいいな~、家に帰ってもさみしいから」

と言いました。

私が、「ペットは大変だよ~。どこにもいけないよ~」
というと、

「えっ、家に置いておいたらだめなの?それっていたずらとかするから見てないと
だめってこと?」

というので

「餌だってあげるでしょ、それに、生きているんだから部屋に閉じ込めておくこと
できないじゃない。見ててあげないといけないんだよ」

と、さらに言うと

「ペットホテルとかに預けるっていうのは?」と。
(お前は週三日しか家に帰らないから家に閉じ込めておくか誰かに預けるつもりなのか)

なのでさらに私が

「ペットホテルだって、普段からちゃんと飼ってるならいいけど、普段放置したあげく
突然預けたって駄目だよ~。それに、万が一ってこともあるし・・・」

というと、彼女の口から衝撃的発言が・・・


「だって、別に死んじゃったりしても、保障してくれるでしょ!?」


・・・・・・・あーた。

保障って、死んじゃっても
「あ、すいません、弁償します。30万の犬ですよね?じゃあ30万弁償します」 
って言って君は納得するのか。動物はモノじゃないんだっつうの。
家族が万が一旅行で死んでも、「事故は保障があるから」と言われて素直に納得するのか!?

でも、この発言から彼女は完全なる「動く人形」として動物がほしいと言っているということが
わかりました。

一人暮らしで、部屋に帰ってもさみしいから、部屋に帰ると動くイキモノがほしい。
かわいいところだけをいいとこどりしたい。
死んだら換わりを買えばいい。

きっとこういうタイプの人間が

「飽きたから」と言って動物を簡単に捨てたり、ほうり出したりするのだろう。
なんというエゴだ。

小さいころに、動物を飼うこと、生き物を命を自分の手が握ること
自分が世話をしなければ死んでしまうということ
死ぬということは、もう二度と会えない喪失感と一生付き合うということ
そういうことを学ばなかった、もしくは親により避けて生きてきたのだろうなあと
思いました。

命の大切さは
残酷なようだけど、実際にその手で、体で感じなければ
理解することはできないだろうし
想像すること、共感することさえ不可能だろう。
しかし そういったことは現代社会では
「経験しなくていいもの」の部類、そう経験しなければしないで
大したことないと思われているものになってしまったのではないだろうか。

命とはとても重く
その手から放したら二度と戻ってくることはない。

生き物は、「死んでしまうとかわいそうだから」と言って、飼うことを反対する親や
そう思って飼わない人も多いだろう。
でも、私はそれは違うと思うのだ。

生きているものは、死んでしまう。それが当たり前だ。
だけど、「死んでしまうから」かわいそうと言って避けるのではなく、
私たちが世話をしなければ死んでしまうからこそ、大切に、大切に
その命を守り、世話していかなければならないものなのだ。
そこで学べるもの、経験できることは、人間として大切なものがぎっしり詰まっている。

命とは、なんとはかないものだろう。

シュバイツァー博士はそういったけど
それをただの「悲しい現象」としてのみとらえるのではなく
それを取り巻く様々な心の動き、弱いものを守る気持ち
そういったことを学ぶことが 大切なのではないでしょうか。
そして大切な命と過ごした時間は、お金などでは決して買えない
かけがえのない時間と経験だと 私は思います。


彼女が動物を飼うのは、まだまだ早いなあ・・・


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