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ことばは矢のように、あなたのこころに突き刺さる。 あやふやで不安になることばも その傷が癒えることばも。
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「メンタルクリニックで相談業務をしています」
「カウンセリングルームで働いています」
「精神科で働いています」

そんなことを言うと、あたかもその人が人間的にとてもいい人だとか
精神的に安定している人間で悩んだりうつむいたりしないように
訓練されているというように思う人がいます。
そういう人間であってほしいんですよね。
禁煙外来の先生が、禁煙に成功した人物もしくは
煙草を吸わない人であるのが当然、みたいな。
そういった同一化が行われるわけです。

だけど私はカウンセリングをしているからと言って
患者さんの相談をしているからと言って
けして自分自身には悩みや落ち込みが来ないかというと
そうではありません。
むしろ私の場合、普通の人よりどうでもいいことで悩んでしまうタイプです。
生きてる意味について考えたりしてしまうタイプだし
かつての恋人の思いでがフラッシュバックしてどうしようもできないこともあります。
ただ、違うのは
白衣を着て、相談室に入ったからには
そういった私的な感情や感覚が一気に吹き飛ぶということです。
患者さんが目の前で辛さに耐えきれずに切々と泣こうとも
私はもらい泣きをすることは絶対にありませんし
(最初の頃は泣きそうになってましたけど)
椅子を蹴り倒して暴れようとも
恐怖におののいて相談室の自分の椅子から立ち上がるようなことも
決してありません。
ただ、黙って座って患者さんを観察しているだけです。

人の辛い話を聞いて泣くのは、それはプロではないと思います。
それはただの同情で、そこに冷静で客観的な判断が生まれるはずがないと
私は思うし、師匠からもそう言われてきました。
そこで泣いたら、患者さんと同じになってしまう。
患者さんは患者さんのスタンスで辛いし、なくし、暴れたくなるのです。
その気持ちを理解するのはとても大切ですが
同じになったら医療機関に相談に来た意味が無いのです。
話を聞いて泣くのは家族や友達の役目だと思うのです。

だから私は医療者として泣かないし
暴れている患者が暴れやめるまで基本的には
言葉はかけますが手は出しません。

だから余計に私生活でもしっかりしているような人間だと
思われるのかもしれませんが
仕事でやっているのと、自分のことはまた別の話ですからね

この仕事を始めてからしばらくは
このギャップにとても悩んだのです。
相手を冷静に見て、自分の生活も同じように客観視する。
そうすると、自分の生活に「生活感」という実感が湧かなくなってきたのです。
簡単に言うと人生が醒めてしまったような。
生きることは試練だというのであれば
それは泥臭くて面倒でしんどいはずなのです。
なのにそれが、一遍にブルーなトーンで
何のアップダウンもない代わりに心揺さぶられることもない
そんな毎日になりつつあって違和感があったのです。

そんな時、名越先生がこんなことを言いました。

「人間、生きているからこそ不安定なんだ。生きているからこそ揺れ動くのだ。
それが精神というもの、心というものなんだから」

あー なるほど、と妙に腑に落ちたのです。
不安定とは消してそれがイコール病気ということではないこと
そして精神活動があるからこそ不安定になるということ
そしてそれが生きているということ

生きているということは
自我ができるもっともっと前に決定されていること
そのスイッチは自分自身でオン・オフすることができるものではなかったのです。
生きることは生命そのものの使命でもあるし
使命だからこそ、本能だと思うのです。

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