本当は結構お金がシビアなので(今月・先月とも)
外食してる余裕もあまり無いんだけど
人づきあいの投資ってことで。
そこで一緒に食べた友人が
「何も食べるものがない・・・こうみるとごはんものメニューばかりだ」
(注:お米は日本人の主食です)
というので、何でかなあ?と思っていたら
最近話題の汚染米のことだとか。
汚染米の報道が連日のようにテレビで話題になっていますが
その報道で「汚染米がすでに消費者のもとに届いている」
「外食産業で使用されている」などと報道されたため
彼女は危険なので一切お米(ごはんもの)は食べないことにしたのだそう。
そしてさらに
「関西ではここ数年肝臓癌が増えたらしいよ。それも汚染米が影響してるって話だよ」
「そのことについてもとさんはどう思う?これからも外食でお米食べるの??」
と、聞かれました。
・・・・・・・・・・。
もう、典型的な報道に踊らされる日本人。
〇〇がいいと言えばそれに飛びつき、△△がだめだと言われたら一切排除。
自分自身で調べる、ということはしないのでしょうか?
報道はすべて正しい事実だと鵜呑みにし
自分自身の意見というもの、自分自身の見解というものは
ないのか。
大学生でさえ、「自分から進んで学ぶ」ということをしなくなった昨今
手軽に結論を出してくれているマスメディアというのは
てっとり早く自分の方向性を指示してくれるものなのかもしれません。
集団心理も手伝って、物事の本質というものは
すっかり蚊帳の外になってしまっている気がします。
最近の日本の風潮、それは
「与えられたものだけを得る。」
そんな感じです。
以前のブログに書いた「フォアグラ」状態です。
情報のフォアグラは、好き嫌いができません。
ただただ、与えられるのみ。
本来情報とは、そういうものではないと思うのです。
与えられる情報量が多すぎ、自ら情報を得ようとしたりすることが
少なくなったような気がします。
大学だってそう。
知りたければ、聞くしかない。
調べるしかない。
それが当たり前だと思っていました。
だけど回りから聞こえてくる言葉は
「そんなの聞いてない」「そんなこと講義で言わなかった」
「教えてくれなかった」 そんな事ばかり。
まさに、学びのフォアグラ状態。
ただ学生は口をあけて(ない人もいるが)待っているだけ。
(でも、これでもかと与えるわけでもないから、厳密にいうと
フォアグラではないかも知れない)
情報とは取捨選択するものだと思います。
たくさんの情報の中から、何が正しくて、何が間違っているのか。
何をもう少し詳しく見ていく必要があり、何が本質から外れているのか。
そういったことを自分自身で考えることが出来ないことは
不要な争いを生み、無意味に人傷付けることになりかねません。
関西人がここ数年肝臓がんが多い、というのは
いったいどこから来た情報なのか?
どういう統計を取った結果なのか?
実際汚染米が流通していた地域と、全くしていない別地域とを比べ
さらにお米を主食にしている人間で生活習慣や年齢などを統計的に見ていかないと
何とも言えないのが本当のところでしょう。
「汚染米が関西地方に多く流通していた(大本の会社が関西方面だったため)」
「だから関西人は汚染米を食べていた」
「汚染物質のせいで肝臓がんの発生率が上がった」
あまりに短絡的すぎ、科学的な根拠もなにもありません。
科学とは真実を見つける手段の一つです。
科学的根拠がすべてだとは、私も思いません。
しかし、根拠を考える、それも「情報」の一つだと思うのです。
少なくとも、メディアの情報だけで結論付けてしまうよりも
ずっとずっとマシな気がするのです。
薬学部という自然科学系の大学生ですら、こうなんです。
私は彼女に
「いろんな情報がメディアに流れているけれど
私はそういった報道がすべて真実なのか
汚染されていた米があったことは事実だし
それが流通していたことも事実だろう。だけど
毒性の測定とはどういった方法で行ったのか
肝臓がんにしても どういう統計をとったのか
何を根拠にそういっているのかが分からないうちは
汚染米かもしれないから一切お米は口にしないという
極端な結論は出さない。もっとじっくり調べてみる必要がある」
と言いました。そしたら
「えっ、じゃあお米食べるの?ねえ?外でごはん食べるの?!」
と・・・・・・・・・。
食べますよ。
一応気には留めておくけど。それにもしそうだったとしても
もう食べちゃってるじゃん、今までに。その分はどうしてくれるんだよ。
大事なのは自分がどう考えるか。
そこだと思うのです。
私たちは情報の中で生きています。
それはとても便利です。私もその情報化社会の恩恵にあずかっています。
だけど、情報がありすぎると、それをすべて鵜呑みにするのではなく
何が大切なのか、真実はどこにあるのか、本質は何なのか
そういったことを、自分自身で考える必要があると思うのです。
そして出した結論が、世の中一般の風潮と違っていてもいいと思うし
多数派でなくてもいいと思います
要は「自分自身がどう思うか」「自分自身で納得する結論を出す」
ということです。
最近の日本は
自分がどう思うか、という、大切なことが
失われてきた気がします。
相手に合わせすぎたり、相手にどう思われるか気にしすぎたり。
自分が自分であることが、まるで怖い事であるかのように。
そういった抑圧が、「本当の自分」さがし、なんていう
そんなメルヘンを生んでしまうのです。
本当の自分はいません。
どんなあなたも、すべて本当のあなたの一部だからです。
もう少し、自信をもって、「私はこう思う」って言えるような
そしてそれをきちんと受け止め排除しないような
そんな日本であってほしいです。
あああー もうやだああ と思いつつ順調に過剰適応的に過ぎて行きました。
人に話しかけられると、その人がイメージしている自分のとおりの姿を晒そうと
がんばってしまう状況を何とかしないと
いつまでたっても自分とのギャップが開いていくだけだ。
そんなこんなで無事終了。
ちょっと前のブログでも上がったけど
私は別に教員の誰かが嫌いなわけではありません。
基本的に嫌いな先生はいないです。
みんな突き詰めて本質を見ていけばいい人たちだから。
だけどちょっと表現力が乏しかったり
クセがあったりするだけなんです
だからと言って人間として嫌いになったりしません
人間をすぐに「好き」「嫌い」の2カテゴリーに分けないのが
私のポリシー?だからね。
嫌いから入ってしまったら、得られるものも得られない。
嫌いとは、すべてをシャットアウトするだけの強力な理由になる。
そんなの勿体ないと思うのは
私が職業上いろんな人と会って
免疫がついたからなのかも。
結局、人間はみな同じものからできている
相手を嫌うことは、とても勿体ないことだと思う。
自分以外の人間は
自分とは違う経験をしているから
そこから得られるものは、とても貴重なものだ。
私はやっぱり人が好きなのかもね。
突然原稿の依頼。
「あ、もとさん、すいませんあした印刷する会報、2ページ分よろしく!」
編集者とはなんと身勝手なのだろう・・・
しかもテーマまで決められてた!
ということで↓の原稿をあげました。2時間でかけってひどいよ~
「日本の医療について思うこと」
日本の医療は、一体何を目指し、どこへ向かおうとしているのだろうと
考えることがある。
それは、私が医療現場で働いていて、常に感じることだ。
日本の医療費は、マスコミやメディアから得られる情報では
「国民は医療費を使いすぎ」
「医療費が高額だからいけないんだ」
「簡単なことで病院にかかるから、医療費がかさむ」
そういったネガティブな面ばかりである。なぜ、どういったことで
「使いすぎ」と言われるほど使ってしまっているのか、そしてなぜ
「高額医療」になるのか、そういった問題の中心には目もくれず、
ただ結果だけを批判し、悲観し、そして私たち国民の負担を強いてい
るだけのように感じることもしばしばある。
国の言い分は、これから高齢化社会にむけて、高齢者が皆医療を受
けるとなると、医療費を使う人間が増える。それにより医療費が増える
→だから、高齢者の医療負担を増やそう♪
ということである。
しかし、「高齢化社会になる」と「医療費が増える」はイコールだろうか?
高齢化ということは、若い世代の人数が少なくなることである。最近では
「少子化」の問題が大きく取り上げられている。つまり、日本の人口は減
少傾向を示しているのである。医療を受ける絶対的な人数は、増えるど
ころかこれから減っていくのではないかと考えられる。
それを高齢者が医療を受けるから医療費がかさむ、などとは、なんという問題
のすり替えだろう。医療費がかさむ根本的な原因は保険点数が高いからだが、
日本の医療費が全体的に高いわけではない。
保険点数は1点10円と決まっているが、それは一つのことをしてたったの数十
円(数点)しか医療費として申請できないものから、数万点のものまでそれこ
そピンからキリまでなのである。
例えば、医師が血液検査をするとき、患者さんの血管に注射器を刺すその技
術料は、たったの11点(110円)である。何度刺しても、何箇所さしても11点のまま
である。
そうかと思えば、心臓や脳の手術では1回の手術につき7万点前後である。そし
て手術中に臓器の病理検査(その組織が病気に侵されているかどうかの検査)
をしたら、さらに数百点から3千点近くの点数がかかる。(もう一度確認するが、
1点は10円である。3千点は3万円)
それをまるで、日本の保険点数が全て高すぎるかのように解釈し、
「だから医療費がかさむのだ。保険点数を引き下げてしまえ!」などとは、あまり
にも飛躍しすぎではなかろうか?
ここで注目すべきは、高度なテクニックを要するものに対しての保険点数は飛躍
的に高く、あまりテクニックを要しない手技は点数が低く設定されている。つまり、
医療費が高いのは、高度な医療を患者に施しているがゆえの結果である。
別の考え方をすれば、高度な医療点数を請求できる「高度医療」を行える日本と
いうのは、ある意味誇れることではないかと思う。高度で先進的な医療を行ってい
るからこそ、医療費がかさむのである。それを、単に
「医療費が高い。じゃあ保険点数を低くしよう」
では、あまりに発想が貧弱だ。
さらに言えば、「簡単な医療非を国民に負担させよう」としたって、焼石に水とはこの
ことだ。数十点の患者の負担を増やして、いったい幾ら節約になるというのか。
とも言われている。でも、国が負担している医療費は、医療費全体のたったの3割程度で
あることを知っているだろうか。
残りの7割は、いわずもがな私たち国民が負担しているのである。国はその3割の負担額
も「お金が無いから払えない」。だからといって国民にさらに負担を強いるのは本末転倒で
はないか。
国のお金が足りないから国民に負担してもらおう!と安易に考えるその前に、税金の無駄
使いや賄賂をどうにかして欲しいと私は言いたい。無駄に税金を使いまくり、そのため本当
に必要な物へのお金が足りなくなる。国民の税金は国民が生活するうえで必要なものに使
うべきではないだろうか。
政治家のみなさんは私たちの意見をまとめ、私たちに代わって国づくりをする文字通り
「代議士」 である。
その方たちが、私たちの意見を無視し、料亭での接待や賄賂に血税を使ってしまうなん
て、まるで親からのお小遣いでは足りず、お金が足りないのは無駄遣いをしている自分
が悪いのに「親の小遣いが少ないせいだ!」とさらにせびるドラ息子と同じ。しかもそれ
でも足りなかったら財布からこっそり抜いたりして。(税金がこっそり増額されて給与か
ら引かれてしまうのも同じ?)
SICKOを鑑賞し、医療現場に携わる人間としてこのようなことを考えてしまった。
医療従事者のみなさんに言いたい。
私たちはけして「点数」で決められるようなことをしているわけではありません。
たとえ医療現場を知らない人に減算という不遇な扱いをされたりしても、けして私たちが
行っている医療が否定されていることではないということを心に留め、今患者さんの必
要とする医療を精一杯提供していこうではありませんか。
(若干変更点あり)
久しぶりに同級生と会いました。
2ヶ月くらい合ってない人がいるからね。
そしてあの苦しかった生物系実習Ⅱの合否発表。
実習なので否っていうのはサボってない限りありえないと思っているので
それほど大きな感慨は無いけれど
ただでさえあまり何も考えてない学生が多いのに
「どうせまじめにやんなくても合格でしょ?」
みたいな風潮が出来上がるのはあまりよろしくないと思っているので
合格はまあ良かったと思うのだけど
途中途中のあの威圧はどうかと思います・・今となっては。
厳しくするのと、威圧するのはまた別の話だからね。
確かに 教員の先生たちの「しっかり身に付けてほしい」という
教員としての気持ちは分かります。
ほんとによくわかる。自分もそういうことやってた(実習講師)から。
だけど、実習って本来は楽しく身につけるという
あくまで学生の興味をそそりつつ、主義や考え方を
身につけさせるものであるべきで
落胆させたり、不安にさせたり、さらには教員に対して
不信感を植えつけるものではないと思うのだ。
基本的には学生中心で
教員はキーパーソンでなくてはいけないと思う。
平等に注意を払いながらも、学生に身につけさせる。
これは私が今回実習で担当された教員の方の気質かもしれないけれど
極端に学生に対してやる気をそぐような一言を言ったり
後からみんなの前で「〇〇さんは減点!」のようなことを言ったり
そういうことをしないでほしかった。
言われたその子はその時どんな気持ちだったでしょうか。
私もその後に、その子に対して何の心理的フォローもできず
本当にかわいそうなことをしたと思ってしまいました。
・・・・・・・・というような、教員の失言のフォローをするようなことまで
つい職業病上やってしまってストレス溜まった気がします。
ハッキリいって前期の実習は自分のことで周りを気遣うことすら
瞬間的にできなくて、それでさらに罪悪感にさいなまれるという
本当に負のスパイラル。定期試験が終わるころまで続きました。
後期は前期ほどの憂鬱感はないにせよ
全くないと言ったら嘘です。
大学にはいろんな人がいます。
職場にいろんな人がいるように
小さい「大学」というコミュニティにもまた、いろんな人がいます。
自分のことだけを考えて、自分さえがんばれば
周りは今までと同じように接してくれると思っている人。
それはあまりに自己中心的です。
だって、今のあなたをみたら気を使わずにいるなんて無理です。
あなたは明らかに今までと違うのだから。
存在自体が気を使わせるということになぜ気が付かないのでしょうか。
気を使わせないように自分はがんばるし、気を使わなくたっていいと
その人は言うでしょう。
でも、それは他人の気持ちを考えられていないだけです。
他人がどう思うかは気にしない、とビタ先生も言うけれど
他人に気を使わせているのまで「気にしない」で片付けたら
それはただのアホです。
それから
いつまでも自分のことを偽っている人もいます。
それが悲しいただの自己愛さんならいいのですが
自己愛さんというのは、他人を下げることで自分を上げるので
周りが自分より下がってないと気がすまないのです。
「自分は医学部に受かっていた」とか
「ココにきたのは学費が安かったからだけ」という。
自分で学費を払うわけでもなく、ほかの薬学部も合格し、
医学部まで合格していたなら、特待でもほかの大学と同じ学費になる
今の大学を選ぶ理由が無いだろう。ましてや医学部に合格すれば
学費などどうにでもなるというのに。
それにうちの大学は特待になったとしても、他の私立と同程度の学費に
なるだけで、めちゃめちゃ安くなるわけではないのです。
つまり、実際には今の大学しか合格していないのです。
医学部に通っていると、同級生に嘘をついてうちの大学に通っている学生。
周りの学生を常に下げる。
「私は当然余裕で合格した」「もちろん学生のころの私は成績抜群」
「私は生徒会長もやってた、みんなとは違うわ」
「もうこんな大学いや。T大医学部に編入の手続きをする」
自分を上に上げるためにあまりにも嘘が多すぎます。
現役合格しているその学生は、今の段階では2年次すら修了していないわけで
編入要件を満たしていないのです。
なのに「編入の手続きをし始めた」といい始めるのを聞いていると
もはや援助者(この場合医療の)の気分になってきます。
自己愛さんは最初に書いたとおり「他人を落としてまで自分を上げる」ので
周りの友達(友達なのかどうか微妙ですが)を傷つけ
しかし、自分は「見捨てられる」のがいやなので、
全部離れていくとまた不安になり
強烈な手段を講じようとする
かと思えば自分に自信が無い私のような学生も。
私は常に「どうしてここで勉強しているのだろう」という気分がぬぐえない。
だけどやるしかないし、やらないのはそれは私にとって何を意味するか
それも分かっているのです。
私はやっぱり、時間と希望と自由に満ち溢れた現役学生とは違う。
だけどその違いをネガティブに捉えるのか
それとも何かのばねにするのか
それは自分次第なんですよね。
自分の気分次第でどうにでもできる。
苦しかったら苦しいといえる人に聞いてもらえばいい。
そしてそれでまた、前に進めるのならば
弱さを隠して身を削るようなことは
きっとしなくてもいいのだと思う。
そうそう前に私の本当のことは、誰にも相談できないと
思っていたけれども
私には何でも相談可能な人がいました。
過去も今も受け入れて、私を人間として接し続けてくれている
大事な大事な北先生がいました。
お世話になります(笑)
夏休みが終わりに近づいています
このところ専業主婦みたいな生活をしていたため
家にいるのが妙に心地いい人になってしまいました。
もともとそれほどアウトドアな人間でもないんですけどね。
家にいるということは
家事やその他の労働はあるにしろ
自分のペースでできるところが最大の利点です
洗濯の終わりを告げる電子音がたとえピーピーなっても
とりあえずこのコーヒーのみ終わってから取りにいこうとか
そういうことが許されるわけですよ
昼ごはんを2時3時に食べようが
誰にも文句言われないわけですよ
強制されない生活ってやつです
私には幸い法律で縛りのある家族は今のところいませんが
専業主婦っていいなあとか
少し思いました
これで子供がいるかいないかによって大分違うと思いますが
時間を好きに割り振りできるってところに
とても魅力を感じてしまう今日このごろ。
朝の早起きだって
別にあとで昼寝して取り戻せばいいわけだし
眠かったらいつうとうとしても
チョークが飛んでくるようなこともないし
なんだかすっかり
脱 現実
です。
これもあと数日。
そろそろ6時起きの生活に戻さなくちゃ。
今は睡眠をたっぷりとって、ゆっくり休んで
体力気力を回復している時間です
ここで回復した体力も、きっとあと数日で始まる後期で
あっという間に無くなるだろうが。
ああー、休みすぎて大学へ復帰したくない・・・
なんとなく、「この勉強を終えれば夢に近づける!」みたいな
そういうのもまったく無い私にとって
毎日のモチベーション&がんばることが
どんだけ大変か。
大学に楽しい場所があれば、まだいい。
本当のことをぶちまけて話せる人を
大学で求めることは間違っていると思うので
誰も私の本当に置かれた立場を知らない。
だから皆簡単に私に何か言う。
本当は毎日泣きたいくらいなんですよ。
こんなんで大学へよく行かなくならないかと感心する。
毎日私の足を動かすのは
もはや世話になった人へのロイヤリティだけだ。
なんて、こんなことを書いてしまった・・・
夏休み残すところあと3日。
今日は等々力渓谷へ行って来ました。
もう夏休みも終わっちゃうんだなあと思ったけど
世間はとっくの昔に夏やすみなんて終わってますよね
渓谷は奥入瀬渓谷以来だから
結構楽しみにしていました
しかし
連日の雨で遊歩道が土砂崩れ。
・・・・・・・。
でもちょっとだけ歩けましたよ。
なんかこう、コンクリートに囲まれて生きていると
時々息苦しくなってきます
私を自然の中に放ってくれーーー!!
そんな感じです。
ひたすら今日は3キロくらいをてくてく、てくてく。
途中でお弁当を食べて、またてくてく。
整形外科の先生に、
「あんまり歩くな!」(注;ただいま股関節脱臼と半月版損傷のリハビリ中)
とは言われたものの、足いたーーー、と思いつつ
てくてく、てくてく。
マイナスイオンが具体的に何イオンのことを指しているか
私には分かりませんが
久しぶりに流れる水の音を聞いてきました。
このまま大学なんて始まらないといいのに。
そんなことをちょっぴり思いました。
でも行かないと行けなんだよな~
定期の更新に行きました
そしたら
「あ、継続ですねー 期間は? 3万〇〇円になりまーす」
!!!
通学証明書、いらないじゃん。
こらーーー!!
本当についてない。
この証明書のために会社をさぼった二日間は一体何だったんだ。
大人は時間を「買う」という。
それはなぜか。
大人は一年過ぎるのがあっという間だと思うからです。
でも、子供は時間を買わない。
子供にとって時間なんて売るほどあるからです。
しかもお金払わなくても手に入る。
時間をかけて何かを経験すること
そのものに価値があるので、それに対価を払うことはしないのです。
だから、子供のうちは、時間の短縮になるからと
特急などに乗らずに、安いほうを選ぶのです。
時間がたっぷりあるから、たっぷり時間をかけて経験できるほうを
選択してもいいからです。
それが経験となって体に息吹いてくれるから。
だけど大人はそうもいきません。
死に向かって生き急ぐ。
時間をお金で買う。
30分早く到着するなら、それに対して5000円払うくらい余裕だ。
お金があるということは
選択肢の幅を広げられるということでもある
大人はそれを持っているから
時間を買う選択もできる。
像の時間ねずみの時間じゃないけれど
きっと私たち大人と、子供たちは
時間の過ぎ方が違うのかもしれません。
そんなことを ここ最近とても思います。
「闇の子供たち」という、人身売買、臓器売買、児童買春など
アジアの子供たちの現状にこういうものがあるんだ、という
問題を提起している梁石日原作「闇の子供たち」の映画化です
これは、けして舞台となっているタイ国を責めている映画ではないと
監督がインタビューで話していました。
そしてただ「かわいそう・・・」と センチメンタルな気分にさせるものでも
ありません。
確実にこの映画は、今の社会に一石を投じるものだと思うのです。
それは真実の物語だからです。
子供の命や、子供の体が大人の欲望のままに欲される。
それはまるで、生きているけれども「物」の扱いです
日本人だって、日本以外の諸外国の大人だって
それに加担していることがこの映画で分かります
生活のために子供たちは自発的に体を売っているわけではありません。
売春宿に親や大人に「生活のため」として
野菜のように売られていくのです
そこで幼児性愛者の相手を強いられ
HIVに感染し、AIDSを発症するとゴミ袋にいれて捨てられる。
臓器移植のために、「いきたまま」臓器をとられ
いろんな国の人に移植され、臓器をとられた子供はまた
ごみのように捨てられる。
アジアの子供は
なぜここまで劣悪な扱いを受けるのか。
貧困層やマフィア、そして警察までが一部加担している
この闇は
なぜアジアだけいつもクローズアップされるのでしょうか。
お金を払えば、何もかもが手に入る時代
それがきっと誰かを深く深く、傷つけることになっていること
そしてお金の価値がどういうものなのか
命の価値とはどういうものなのか
私たちは、目の前のお金が「物」に変わってしまったら
その物の価値を真に考えることが無いのかもしれません。
これはお金で買っていいものなのだろうか
そして これはお金を払って買うべきなのだろうか
この物の価値は、たったこれっぽちの紙で済むものだろうか
お金はとても便利なものです
だけど、お金で買えない価値があるということ
それは一体誰が教えてくれるのでしょうか
お金の流通やマーケットは
経済学が教えてくれます
だけどその流れるものの価値や大切さは
一体どこで誰が教えてくれるのでしょうか。
小さいころから
何かを手に入れるためにはお金「だけ」があればいいと
そういう世界で育ったらきっと
お金さえあれば何でもできるような
そういう観念になってしまうかもしれません。
お金で買えないもの
お金で買ってはいけないもの
値段のつかないもの
かけがえの無いもの
代わりがないもの。
それを教えることができるのは
私たち大人だと思うのです。
子供は何も知らない。
でも、何も知らないということは
何でもインプットされるということと同じだと思うのです
まっさらな心でも
傷つくのには十分です
彼らは知識で傷つくのではありません。
本能で傷つくのです
何も知らないうちから
本能の悲しさを与えてはいけないと
思うのです
それは本能の怒りとなり
闇となりまた次の世代へと
ただ、ぐるぐる回ってしまうだけなのですから。



http://www.yami-kodomo.jp/
追試組の乗るバスにのってこの間T鉄道に書類をはねられたため
その書類取りに行こうと思ったのだけど。
思ったのだけど。
思ったのだけど・・・・。
結局今こうして家にいて洗濯をしています
このごろついてない私は
今日(土曜日)大学に行っても「あ、今日は受付できないよ~」と
言われかねないと思ったからです。
この間定期券の更新に行ったら
「学生証出して下さい」
と言われたので、学生証を出し
「これじゃあ大学の住所しか分かりませんねえ・・・。」
「自宅の住所が分かるものありますか?」
というので、免許証を提示。
そしたら
「学生証と免許証じゃあ・・・ダメなんですよねええええぇ」
・・・・・・・・・オイ。
最初からダメなら免許証と学生証出させるなっつの。
個人情報なのに、提示させといて
「ダメなんですよぉ」
じゃあ何のために提示させたの、アナタ。
ココ最近の私はついてない。
というか、「ツイてる!」なんて思う瞬間のほうが少ないけれど。
だから今日は大学に行くのは中止。
ビタ先生にも会いたくないしね。
実は煙研に行かなくなって早半年
私のマグカップも奥へ追いやられてしまいました。
だからもう、マグカップも引き上げてこようと思ったのだけど
ビタ先生にも会いたくないなーと思ったり。
科学者が保守的になったら
保守的になった時点でもうきっと天才でも何でもない
ただのつまんない科学者になっちゃうんだろうなあ
いや、科学者じゃなくなっちゃうのかもしれないなあ
私は科学者に対して何かこう、これぞ科学者、っていう
イメージがあるのだろうなあ
思い入れがあるのかもしれないなあ
周期表マグカップを引き上げてこなくちゃ。
それはビタ先生への見切りをつけるということでも
あるだろうなあ
この人の下ではきっと
私の思い描くようなサイエンスはもうきっと
得られないような気がするから。
私は学生にならなければよかった。
どこかの研究所で働いて
下克上を狙っていればよかったのかもしれない
こんな世界になんて。
やったぁー できたぁーと
思っていたのもつかの間
昨日夜見直していたら
5員環を全部6員環で書いていた(しかも、六角形がきれいに書ける定規つかって)
ことに気づいた。
がーーーーーん。
やっぱり、やり方を覚え、理解して解くのではなく
問題と回答について丸暗記したほうがいいのだと
そんな気分になってしまった。
勉強というものに対するリターンが
勉強することは無駄である、というような感じになってしまっている。
勉強とは答えを暗記することで
問題を解く、ということではなくて
暗記した回答を「書く」ことが重要なことなんだ。今は。
勉強ではなくて、理解を伴わない暗記。
それがもし大学生をやる上で絶対に必要なことであるのなら
やっぱり私は大学は向いていないような気がする。
理解を伴わない暗記ができない。
私の重大な欠陥だ。
夜中にそんなことに気づいて
泣きつきたい人も、理解してほしい人もいない。
大学の先生の中で一人くらい
自分のことを理解してくれるような人間がほしい気がした。
孤高の人間になったら
そんなこと何も考えなくて済むんだろうか
私はつい周囲の人間とかかわろうとしてしまう。
集団へ参加すること
私にとっていったい何の意味があるというのだろうか
一人でも孤独でもいいじゃないの。
人は人間とのかかわりを本能的に求める生き物だ、と
名越先生に言われたことがあるけれど
そういう本能的なものを断ち切れば
強い心と折れない自分が手に入るのだろうか。
いや、そういう心がないと、断ち切ることができない
弱い存在なんですよ
人間っていうのは
うちのボスに常々言われていること
「能力があれば友達なんていらない。」
マジですか。
あったおかげで演習する事ができました。
演習しないで試験に臨むのと、たった1日演習して受けるのとでは
こんなに違うのかと改めて思います。1日の差は大きいです。
みんなが今回の追試験を突破して薬剤師をゴールにしているのかな、と
時々ふっと考えてしまいます。
私の目指すゴールは、さらにその先にあるもので
薬剤師の勉強はご褒美(何のだろ?笑)に神様がくれた
おいしいおまけみたいな ものだけど
私の目指すものは、もっともっと先にあるもの。
そのゴールと今はつながっている。
いつか必ず、そこにたどり着くための今日。
それが未来に繋がる道
つまり
生きてるってことなんだろうねきっと。
雨の音を無音の中で聞くのはいつぶりだろう。
そしてこんな夜はいつだって
手を離してしまった古池のことを思い出す。
バカみたいにこっちをいつか向いてくれると思っていた。
少し途切らせてみたい、と言われてから
その少しがどのくらいか知らずに
私は自分で何も努力もしないで
ただのほほんと 古池を待っているような
いや のほほんと待てていたらまだ良かったかもしれない
自分が生きることに精一杯で
本当はあなたを見失っていたのは私の方が先だったかもしれない。
久しぶりに「あなたを思い出した」とかかってきた電話。
もう二度とならない電話。
私の中であなたは死んでしまったことにすれば
つらくないと思ったけれど
それは大きな間違いだった。
生きているあなたに二度と会えないほうが辛い。
触れない私はあなたにとって存在しないのも同じ。
今はあなたに憎しみだけが残っているのかもしれない。
いや そうでもしてあなたの記憶に残っているならば
そのほうが幸せなのかもしれない。
私のことなど とうに忘れてしまっただろう。
いくつものやさしい日々も全て
きっと無くしてしまったんだろう。
私だけがいつまでも
雨の音が聞こえる度にあなたのことを思い出す。
条件反射のように私のスイッチが
雨の音で押されてしまう。
そして風になりたいと言ったあなたの望みどおりではなく
私の中であなたは
やさしい音色の雨粒になっています
今日もあなたの記憶が屋根を打ち付ける。
ぱらら ぱらら。
もう二度と
会えないんだね。
手を離したのは
どっちだったんだろう。
落としても追試があるからいいや~ なんて思っていたけど
「後がない試験」ってこんなにプレッシャーがあるものだったかと
いまさら思ってます
でもこういう切羽詰った時に限って逃避したくなって
夕飯をしっかり作ったりとか
掃除したりとか
ベランダのゴーヤに水上げたりだとか
一生懸命お仕事こなしたり するわけなんですね
逃避ってある意味だめだったときに理屈になるようなことを
あえてしているように思えてならない。
友人の結婚式が中止になった。
私はそれでいいと思う。
体裁やソトヅラを考えて 豪華な結婚式を無理に行ううよりも
私は彼女のお父さんのそばにいてあげるのが優先だと思う。
旦那さんはオエライさんのご子息なので
すっごく豪華な結婚式を執り行う予定だったみたいだけど
そんなこと無理にするより
今はそばにいてあげることが
何よりの親孝行になるんだと私は思うよ。
あとほんの少ししか
一緒にいられないんだから。
今からしっかり「さよなら」の儀式を行うこと
それがグリーフワークなのです
結婚式なんか
小さい身内だけのでいいんだよ