航空祭などはもちろんのこと 街中にも英語(アメリカ語)を話す人がいて
さらにおじが空軍の通訳をやっていた事もあり
私にとってEnglishとは とても身近なものとして感じていました
中学生になる少し前に
自分はもう完全なるバイリンガルになるには遅いと指摘されて
それでも、少しでも英語が話せるようになるように
英語を話す人には英語で話しかけたり
その頃は洋楽が大好きでQueenやMadonnaやBonJoviをメインに
聞いていた田舎の変人だったため
英語というものにそれほど抵抗がなくなっていました
英語を話す友達を沢山作ったり
一人で英語を話すところに行ったり。
それが小学生から中学生にかけての私でした。
しかし
習い事は一人一生に一つまでしか面倒を見ない、という家庭の方針から
私は小学校入学と同時に習っていたエレクトーンがあったため
英語や英会話を塾に行って習うことが出来なかったのです
それでもほぼ私は英語圏の人と積極的にかかわる方向で生きていたので
英語の方が得意な表現と、日本語では言えない表現と
頭の中で日本語でどういって言いか分からないことが出来てしまいました
今でもちゃんぽんで話すのが一番らくちんだと思います
社会人になって
ちょうどいい法律が出来ました
雇用保険に一定以上加入していると、教育訓練給付金が支給されて
資格をとる資金を一定金額まで援助してくれるものです
幸い普通の人より2年早く社会人になった私は
教育訓練給付金の受給者資格を満たしており
英会話学校に通う事となりました。
それ以前に、体験で月謝制のグループレッスンに
何ヶ月か通った事はあったのですが
やっぱりマンツーマン!と会社の人に勧められて
マンツーマンに特化した英会話学校ということで
いろいろ探してGABAに通い始めました。
多いときは週2~3回、4時間くらいのレッスンを
2年間で300回くらい受けていたら
最後のほうはベラベラに近くなっていたのですが
大学入学と共に一時中断し
今ではすっかりほぼただの人になりました(苦笑)
でも日本語以外のコミュニケーションツールが使えるというのは
とても便利だと思います
おかげでとあるモータスポーツの大会で通訳をやったり
英語でスピーチもすることが出来ました
顔が日本人というよりモンゴル人らしい私は
よく日本で迷っている外国人に話しかけられます
「君、日本に来て何年?」とか
「留学して何の勉強してるの?」とか・・・
どこからきたの?と駅で聞かれて
「隣の駅だよ!」と言ったこともありました・・
(彼はどこの国から来たのか聞きたかったらしい。)
時々でも
日本語よりも英語が恋しくなるときがあります
日本語で生活していると
文化的に美徳として体にこびり付いた何かが
絶対にはがれないよろいになっている気がするのです
いいたいこと、伝えたい事が
まるでもどかしい足かせのようになって
結局は黙ることしか出来なくなる。
もう一度英語はじめようかなあ。
私には、ああいう風に思いやりのあるはっきりした意見が言える
そんな文化の方が似合ってるのかもしれない。
本当に本当に難しい。
私にとっては。
徹底的なさそり座な私は
いろんなことに徹底的になりすぎるあまり
周りが全て勝手にライバルになっている時がある
そしてそれ以外に
考え方が異常に甘い人を見ると
妙に許せなくなって説教したくなっていたし
実際説教してたけど。
なりたいー
やりたいー
と言う割りには
それに対して必要なことが欠落している人をみていると
なりたくもやりたくもないのに
会社命令で努力を強制されている自分が
なんだか無性に腹立たしくなって
ついつい説教するかこのもやもやを誰かにぶちまけるか
(と言ってもそれが出来る人物というのは
ここに登場するような限られた人たちなのですが)
そういう感じで
ほぼ 身近な人間に自分で振り回されるタイプの私です
マイペースというのは
簡単そうに見えて実は
本当に難しい。
他人を気にせず我に没することが
どれほど邪念の多い私にとって
難しいことか。
だけど
最近ようやらさっと(ようやく、という意味)ですが
自分のペースを手探りできるくらい
少しだけ大人になったのか
弱くなったのか
素直になったのか
素朴になったのか
自分の非礼さが認識できたのか
わかりませんが
なんとなく
自分が見えそうな気がしています
私を
希望の星にしてくれてありがとう
青い森は
今日は流星群がきれいに見えているだろうか
私は星の見えないこんなコンクリートジャングルで
時々ほろりと泣きながらも
何時だって北は厳しく
清きものだということを
忘れずに生きています
忘れようとしても
忘れられないなら
忘れないことにしました。
もう二度と会わないだろう人たち
私は一生懸命生きたといえるまで
ただひたすらに 生きますよ
マイペースで、生きる事ができるなら
私はそれこそが
人間の本当の本質への入り口だと思うのです
なんだかテストだー仕事だーとあって
夏休みモードに切り替えられていません
そんなこんなで既に世間はお盆です
地元だったらもうこの区切りで夏が終わりです
夏休み前に夏が終わってしまってます このスケジュール。
毎日テレビはオリンピックで
私は見ていいのか見ないほうがいいのか
毎日そういう下らないことを考えて
結局見てません
興味が全く無いわけではないのですが
見ている自分まで重圧をかけたくないというか
(選手は考えてないだろうけど)
日本人ってどうしてオリンピック=金メダルなんでしょうね
金でも銀でもその全力の結果なら
認めて受け入れるべきだと思うのですが
人間って欲張りで
出るからには金なんですよね
日本柔道の谷亮子選手もそう。
もともと日本選手権で敗れて
そこで代表落ちしたはずなのに
(本人もそこで「ああ、終わった」と思ったそうですが)
日本人の期待ってすごい。
「谷選手に金を取って欲しい」という感情なんですよね
もはや日本人に金メダルを取って欲しい、ではなくて
個人指名されてるんですよ
そうやって無理やり個人指名して
金メダル取れなくて「あーあ」みたいな
そういう劇場が見たいわけではない私は
見ていられないんですよね
谷選手の場合は少し特殊かもしれないけれど
日本人って本人の能力を無視して期待した上に
期待したとおりの結果が出せないと急に手のひらを返すような
そんなことが結構多い気がする
それ以外の人はノーマークっていうところが
落差が激しいというか
日本人らしいというか。
オリンピックってやっぱり金メダルを取りにいく
そんな大会なんでしょうか。
今年から大学側の考慮もあり、学年ごとに分けての発表でした
結果は・・・・・・・
総計18科目のうち、1つ落として残り17個合格していました
でも、たった一つだけ不合格、となると
人間その前にもっと落ちたと予測していても
欲がでてきて
「ああ、もう1個で全部合格だったのに・・・」
なんて思ってしまうものです
一番びっくりしたのが生薬。
全く答えが分からなかったのにもかかわらず合格。
そして生薬よりも簡単だったと皆が言っていた生化学が
殆ど真っ赤(不合格表示)
生薬は意外と大体の学生が合格していて
「ミラクル生薬ー!」ってみんな騒いでいたけれど
そのミラクル起こしたのは自分でも何でもないですって。
ミラクル起こしてくれたのは
みんなが嫌だ嫌だ言ってた
教授が起こして(くれて)るんですって。
私は有機化学が大好きだけれど(ビタ先生のおかげで)
やっぱり有機って女神様みたいな美しい理論で
なかなか私の方を振り向いてくれないんだなー。
でも、好きだからそれほど苦ではないからね。
久しぶりに大学に行ったら
またちょっと無理して疲れちゃった。
昨日は大事な大事なシンポジウムがあり、その開会の挨拶だったんです。
日本の医療制度について考える、というタイトルで、
映画「Sicko」の上映のあと日本や海外の
医療制度、保険制度についての熱い意見を聞いてきました。
アメリカって自由の国、権利の国だというけれど
実は生きる権利や治療を受ける権利は
個人で決められていない現状があることを
ご存知でしょうか。
日本と違ってアメリカは、健康保険会社が保険料を支払ってくれます。
いわば現金給付です。
病気になったと分かったとき、自分の加入している保険会社に
査定をしてもらい、その治療を受けるお金を支払ってもらえるかどうか
申請するのです。
日本でいう、生命保険に近いですね。自動車の事故の時とか。
ああいうのと同じ考えです。
しかし、アメリカの現状は
会社が経営しているだけあって、いかに加入者に保険のお金を
支払わないかにかかっています
つまり、癌で治療を申請しても
「この年でこの癌になるはずがない。却下」
とか
「この治療はあなたに効くかどうか分かりませんので却下します」
という状態で、お金が下りないのです。
お金が下りないと、アメリカの医療費というのは莫大で
指の切断の修復だったりすると
中指が6万2000ドル、薬指は1万2000ドルですが、
どうしますか?くっつけますか?と
そういう尋ね方を医師に聞かれるわけです
命の値踏みをされると言ってもいいと思います。
そんなアメリカで、その保険の査定をするのは、保険会社に所属する
医師のしごとなのですが
患者からの申請を却下すればするほど、「会社の利益に貢献した」として
ボーナスが入る仕組みなんだそうです
つまり
医療保険のはずなのに、初めから払わないつもりなんです
そんな医療どこにあるんでしょうか
医師が患者を目の前にして、命を救うことをお金に換算する。
医師が、保険会社が
患者の治りたい意思や、生きる権利を無視し
命を査定するのです
しかし、実はこういった保険に入ることの出来るアメリカ国民は
それでも全体の4分の1しかいません。
たったの25%ですよ
それなのに、入れても結局は却下されてしまう
日本の医療は今 崩壊しようとしているということで
医療費の引き上げや、制度をアメリカのようにすることを
何人かの政治化が謳っていますが
私は医療がシステムとして崩壊しているのは
日本が目指そうとしている アメリカの方ではないかと思います
今のアメリカの医療システムこそが
日本が今、足を踏み入れようとしている
「現物給付」医療(目に見えない、治療という技術を提供する)方向から
「現金給付」医療政策なのです
まずは、治療に対するお金を渡す。
それが現金給付です
そうすれば、医療費が節約できると
日本の政治家は信じているのです。
一部の政治家は。
けれども日本の国庫金は
医療費のうちたった25%です
それに地方自治体が加わっても
30%ちょっとにしかなりません
残りの70%はどこから出ているのか?
それは私達国民が支払っているのです
それなのに、
「国のお金が破綻しそうだから、国民負担を増やそう」
と言う考え方は、余りにもおかしいと思いませんか。
もともと相当私達に負担させておいて
更に負担を増やそうっていうのは
まず先にどうでもいいことに税金を何兆円も使ったり
横領したり賄賂したりするお金を無くしてから考えて欲しいと思います
国民は法律で決めれば黙ってお金払ってくれる奴隷だと
思っていませんか?政治家の皆様。
何でもアメリカの模倣をすれば言い訳ができるわけではありません
医療費が完全無料の国があります
それも一つ二つではありません
カナダ・キューバ・フランスetc
医療費が無料です
だけどもその国の人たちが無料だからといって
無駄に通院しているかといえば
答えはノーです
しかし いつでも必要な医療を必要なだけ受けられるので
お金がないので治療拒否、ということや
お金がない患者を道路に捨てたり(アメリカでやってます)
そういう自由と平等と権利の国だったはずのアメリカがやっているような
むごいことは無いのです
日本の医療費は
高齢化社会だからこれから増える、と言っていますが
果たしてそうでしょうか
年寄りになれば病気して医療費がかかるのが当たり前だと
そう思っていませんか
医療より予防に力を入れるべきではないでしょうか
そしてなにより
日本の老人で無駄に病院にかかっている人たちは
なぜ病院に行くのでしょうか
寄り合いと一緒だからです
喋りたいのです
つまり 核家族化が深刻化していることで
病院という「コミュニティ」に集まって
ついでに血圧でも測ってもらうか、みたいなイメージなんですよ
まさに
「今日、角の〇〇さん来てないけど、どっか具合でも悪いんだべか」
と病院の待合で弁当広げながら喋ったりしてる状況です
病院が学校化しているんです
日本は本気で
アメリカのように「保険会社」を医療保険に導入しようとしています
医療費の一部を国が負担しなくていいように
今のような3割負担ではなく、10割負担になるからです
自分で掛け金をかけて、医療が必要になったらまず医者ではなく
保険会社に相談。
査定で却下されたら、具合が悪くても病院に行くお金がもらえない。
医者は、重症の患者を前にして、「断る」という選択をしなくてはならない。
命を救うはずの医師が、命を選択しなくてはならない。
それも、「お金持ちの命」だけを救う。
こんな医療を、日本は目指すべきなんでしょうか
日本の国民皆保険なんて
実は嘘です
国保金が払えない、無保険の人が意外に沢山いるのです
時間の流れが止まったみたいです
今 夏なのかどうかも解らないような
そんな日々をつい先日まで過ごしていました
気づかないうちに夏が 私の両手をすり抜けて
あっというまに流れ落ちたようです
故郷の青い森では
ねぶたが始まりました
一度も見たことがないけれど
もう二度と 見ることも無いでしょう
ねぶたまつりで はねとが通った跡に
銀色の鈴が いくつか落ちています
浴衣に縫い付けた鈴がちぎれ落ちるくらい
激しくはねるのですが
その鈴は 一つに付き一つのお願いを
叶えてくれると言われています
私もむかしむかし
弘前に住んでいる友達に拾ってきてもらったことがあります
2つの鈴を拾ってきてもらって
ひとつは 受験がうまくいきますように
もう一つは 好きな人とうまくいきますように
と、子供ながらにお願いしたものでした
(結果は二つとも無事適いましたよ)
あれから20年くらい時は経ち
今ではそのねぶたの鈴さえ
見かけることが無くなりました
あの時の二つの鈴は
一体今頃どこに行ってしまったのだろう
私が家を出た後
実家では私のものをすべて焼き払ったと言っていたけれど
あの鈴も 一緒に炎に投じられてしまったのだろうか
夏の一瞬を通り過ぎるだけの
鈴の音は
耳の中で 心の中で
遠く遠くから 聞こえてくる
いつだって 私の中で鳴り止まない。
鈴が一度 しゃりん、と鳴る度私は
コイケに会いたいと思ってしまう
もう二度と会えないところに 行ってしまったというのに
しゃりん。
しゃりん。
鳴り止まない鈴の音
あの時に私も
一緒に樹になってしまえば良かった。
昨日手元に再提出のために戻ってきた、
実習のレポート。
どこが間違っているか、どこを書き直せとか
書いてあるんですが、そのコメントがひどい。
「学年中この結果を導く表を書いてないのはあなただけですよ!!
どういうことですか?もっと注意深くまじめにレポート書いてください!!」
(原文ママ:しかし修正液で消してあったが)
「単位が全然違います!大間違いです!」(提出したグラフへのコメント)
私は決してレポートを甘くみて、適当に書いたわけではない。
仕事の合間に、終わった後に、何時間もかけ
それこそ睡眠時間を削って
毎日夜中の12時1時まで書いてたんですよ
表だって、わざと書かなかったわけではないのに
それなのに、このコメントって
まるで私が手抜きして適当に書いたことに
キレたコメントみたになってるじゃないの。
そしてもっとも怒りを覚えたのがグラフ。
実習の最後に、助手のおねーさんに必ずチェックをもらい
間違っているところがあれば指摘されて
直してからでないと帰れないんです
もちろん私も何度も色々直されて、最後に
「うん、OK!お疲れ様」
って言われてチェックもらってます。
それなのに
「単位が違います。大間違いですよ!!」
っつうコメントは何だ。
単位が違ってるかどうかこっちは解らんっつうの。
OKもらっちゃってるんだから。
しっかり先生が指導した助手の人だから大丈夫なのではなかったわけ?
その人が「OK」くれたんだから、そのグラフの書き方で正しいと
こっちは思っちゃったじゃないの
だから実習試験でもそう信じて書いたのに
今更
「単位が全然違います、大間違いですよ!!」
って・・・・??!!
その単位でいいって言って、OKした助手の方
どういうことですか?と言いたい。
「実験経験はないけど私がちゃんと教えてます」って
先生言いましたよね・・・・?
指導する側に立つならそれなりの知識と責任が
伴うのが当然だと思います
それなのに間違った後に
「助手の方も人間だから、間違ってても大人の心で許してあげて」
っていうセリフはあんまりじゃないでしょうか。
少し、無理解すぎるような気がするのは
私だけなんでしょうか。
私の被害妄想なんでしょうか。
学生だって一生懸命やってるんですよ
私の友人も
「これは学生実験です。解らないことを前提にやっているので
そういう風に書いてください。そう言ったはずです!」
って書いてあった。
一人で何百枚もレポート見てるから大変だと思うけど
それは仕事でしょ。
途中でキレたコメント書くっていうのもどうなんだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
夜中に「死にたい」とメールや電話を出来る人は
ある意味私は幸せだと思う
それを言って 受け止めてくれるひとがいるのだから。
ある研究室にいた頃
研究室の先生が自死しました
その先生も 誰にも死にたいといいませんでした
(入院はしていたけれど)
自死したあと
その先生の旦那さん(同じ研究室の教授)が
「もとはうちの純子(奥さん)に似てる」と言っていました
きっと私もそうだと思う
私も似ている気がする
私はただ 生きるけど
でも 純子先生には 似ているかもしれないな
新月の夜に そんなことを考えるのは
もうすぐお盆で
純子先生が帰ってくるからでしょうか
私のお姉ちゃんと共に
私に何かを 伝えようとしてくれているのでしょうか
そして再試験の結果も今日発表。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
また落ちた・・・・・・・・・。
化学と計算できない私の本領発揮してきた気配です。
でも私は
どうしてだめだったか原因を探ることはするけれど
それを絶対に言い訳にはしたくない
私は人生はすべてが自分の実力で
自分の決断で
そしてそれに ほんの少しだけの
見えない力があるだけで
何かのせいで自分の本来の力が発揮できなかったとか
そういうことは言いたくないのです
それが私が
自分に責任を持って生きる、ということだと
思うからです
色んなことが人生で起こっても
それが何かのせいだとか
たまたまやらないところが試験に出たとか
予想外の展開だとか
そういうことが事実として起きたとしても
それはいいわけにはならないし
理由でも何でもないと思うのです
いや、理由かも知れないけれど
私はそれを
理由にはしたくないのです
それが私のポリシーなのかも知れない。
私は私の人生に言い訳をしたくないし
そのことこそが
自分の生きるその生き方に、瞬間瞬間で
責任を持つということだと
思うのです
ただやるのみ
ただ、やればいいだけ。
頑張る必要なんてない
頑張るのではなくて
精一杯
よくやったと思うまで
ひたすらやればいいと 思うんだよね
ダウンレギュレーション回復傾向。
新月の夜
そして 日食ですね
みなさん何かお願いしことしましたか
試験から帰ってきました。
ああ、こんな一日なんて久しぶり。
久しぶりに早く帰ってこられました。
今日は木曜日なので、駅でいつものL25とR25をゲットし
同じ北国出身の豊島ミホの「やさぐれるにはまだ早い」を
読みながら帰ってきました。
この文章のゆるさ加減がたまらない。
豊島ミホとは本当は官能小説家としてデビューした(ハズ)
なのだが、こういったエッセーを書かせたらゆるさで
天下一品だと思っている。
こういうエッセーを読めるようになったのも
私の中で程よくテキトーさ加減が板に付いてきたからだ。
今日の心理の試験で「A型器質」について説明しなさい、とあったけど
私はつい数ヶ月前まで、何でもかんでも完璧にこなしたいと
そう思う人間の一人だった。
もともと結構なテキトー人間で、血液型はA型なのに
かなりの割合で「もとさんBでしょ?」と言われていた。
し、失礼な。
と、B型だといわれて失礼だと思ってしまう人もまた
私は相当失礼だと思うが。
言われるたびに
「私ってそんなに楽天家に見られているのだろうか」と
なんか不思議に思っていた。
多分他人にとってはテキトーに振舞えるし
テキトーな対処を提示できるのだろう。
でも自分となるとまた別。
がっちがちのがんじがらめに
いつの間にか自分を追い込んだりしてしまう。
そんな私もここ最近は程よくテキトーです。
テストもまだ終わっていないのに
なぜそんなにテキトーでいられるかというと
既に単位を落としていそうな科目が出たからです・・・
どんなに頑張っても、無理なものがあると悟った。
そして、全部を頑張りすぎたら、それこそ壊れてしまうと
悟った。無理は禁物なのだ。
できる範囲でちょっと無理するくらいなら良いけど
私の完ぺき主義がそこで出ると
とことんやらないと気がすまなくなり
自分を追い込むことで
なんだかもう生きることが辛くなってくるのだ。
ほどよくテキトー。
そもそも適当って悪い意味じゃなくて
いい塩梅ってことなんでしょうね。
あ、しまった 早く梅干干さなくちゃ。
明日は所長でクランクアップ。
ありがとね、所長。
というかここ数日自転車操業のおかげで毎朝4時くらいに
起きているんですが
今日は昨日夜 数日間の寝不足がたたってしまい
明日のテスト(というか今日ね)は本職の心理学だから
もう勉強せずに 今までの職で身に着けた知識で対応しようと
早々と店じまいして寝たのです。
今日は心理学だけなのだけど
心理学の講義をずっと半期聞いていて思う
どうして心理学はただの学問になってしまったのだろう
精神医学は悪だとか
精神医学そのものが間違いだとか
精神医学を批判するホームページも存在する昨今
心理学とはどうしてああも人を魅了しているのでしょうか
カウンセリングブームもそう。
占いよりも、もっと科学的な、学問的な「雰囲気」がするからでしょうか
私は精神医学とも、心理学とも、近代科学とも関わってきました。
だからこそ、精神医学の限界も心理学の限界も
近代科学の限界も(なんとなくですが)分かる気がするのです
精神とは
現代の医学では「見えない心」をさしているのではありません。
そこを勘違いすることによって
精神医学なんて本当は無いんだ、とか
精神は医学では治す事はできないんだ という
大きな誤解を生むと思うのです
人間の精神活動は
けして二次元的なものではありません
精神医学の真髄は
きっと人間の脳が生み出す科学的なものなのに
常にその姿を変える人間にあると思うのです
心は波動方程式で解ける、と
きょーじゅが言っていましたが
きっと心の揺らぎ幅や心の動揺した後の
脳の現象は
そういって後付できるのかもしれません。
何故なら科学(サイエンス)は
現象を解明する手段でしかないからです。
常にその形を変える上に
いまだ解明されてない働きをする脳だからこそ
つかみどころのないような
実態などないような
そんな気になるだけだと思うのです。
心理学は私は科学ではないと思っています
それは歴史や経験と同じようなもので
サイエンスの範疇ではないと思うのです
だからこそ心理学部は文系や文学部に属しているんです
解釈の違いは相当あるし
精神医学とはかけ離れていることが多いです
だけど心は見えない抽象的なものではなく
精神とは脳の活動のことなのです
本当はもっともっと
歩み寄らなければならない学問だと思うのです
科目数が多いので息切れしてきました。
現在、試験6日目、科目数で11科目終了。
それでもまだ3科目。
最後は所長の試験でしめるんです。ご褒美のような、そうでもないような。
あまりに科目数が多いと、準備も手を抜く奴と
抜かないやつが出てきて、途中からかなり自転車操業的に
なっています。
今日は朝4時に起きて復習したあと、8時半から仮眠をとろうと
ベッドに横になったのですが・・・
はっ!
10時でした。
あぶない・・・・
今回はついに追試をお金払って受けることに
なりそうです。うう。
ホント、しんどい。
撃沈した科目が数科目あるので
奇跡を願いつつ、あーもうやだとか 自暴自棄になりつつ。
それでもまだまだ試験は終わらないわけです。
この試験が終わるとまた
学校はしんと静まり返ってしまうんだろうな
静かな静かな、まるで時間が止まったような夏休み。
大学の校舎に夏休みが来るようです
今日はだいぶ涼しくて
暑さの苦手な私にとっても過ごしやすい一日でした
そうそう もうひぐらしが鳴いていますね
私の一番好きな昆虫の鳴き声です
私の夏休みは、もう少し先になりそうです。