ことばは矢のように、あなたのこころに突き刺さる。
あやふやで不安になることばも
その傷が癒えることばも。
どうしても今欲しいもの。
有機の優
そしてカメラ。
有機の優が取れるかは、昨日の試験で決まってしまっているけれど
カメラはまだ間に合う。(?)
カメラで写真が撮りたいと思い続ける今日このごろ。
一眼レフで写真が撮りたい。
カメラにはまったのは、小学生のころ。
ちびっこのくせにカメラが好きで仕方なかった。
じいちゃんにカメラをせびって、いわゆる「シャッター押せばそれでおしまい」
というカメラをもらった。
当時はフィルムだったので、どんなふうにとれているかは現像しないとわからない。
そして現像も自分では到底できませんので、お店に出すことになる。
お店で現像してもらって、確認のため店員さんに
「こちらでよろしいでしょうか?」
と言われるときの恥ずかしいこと。
納得いかないような写りをわざわざ確認されるなんて。
今はスピードで35分もあればすぐ写真なんて現像できますけど
当時は3日4日かかったんです。
しかも小学生のくせに現像する写真は夕焼けとか植物の寄りだとか。
そんなんばっかり。
そんな風に小さいころから写真で表現してきた私には
カメラのない生活が考えられない。
高校卒業してすぐに買ったEOS-Kissを皮切りに
カメラが手元から無くなった時間がありません。
一眼レフが手元になくなった時代が私にはなかったのです。
それがついにここ数年、一眼のない生活です。
とりたい写真は、コンパクトデジカメでも十分足りることもあるけれど
やっぱりあの一眼を構えてシャッターを切る、あの時間が
自分だけの時間のような気がしてとても愛おしいのです。
というわけでカメラを買うことに決めました。
最初は私のミクロな手になじむような、オリンパスのE420(ミーハー)に
しようかとずっと思っていたのですが
ここにきて急に上位機のE510が気になる。
しかし重さ100グラムの違いは大きい。420は小型最軽量なのだ。
重たいものが持てない腕力のない私にもってこい。
しかしどうしても手ぶれ補正機能が欲しくなってきた。
夜に写真が撮りたくなったから。
カメラを構えている時間がとても好きだ。
私は一年の間に、だいたい2000枚くらい写真を撮ります。
記録的な「ご飯日記」をはじめ、きれいだな、と思った時も
いつでもシャッターを押したいと思う。
今はコンパクトデジカメ(Lumix)にお世話になっているけれど
一眼レフ買ったら大学にも持って行きそうな気配です
今通っている大学は、自然が豊かで風の流れがとてもキレイなのです。
今のところカメラ好きのシラガ先生や、いつも図鑑を貸してもらう分類学の先生に
カメラを触らせてもらってばかり。
写真を撮ることが好きなくせに
実は自分が写っている写真はとても少ないです。
写真に「撮られる」ことがなんか嫌だったんですよ。
20代の半ばくらいまで。
なんだか生きてる証拠が残る気がしてたんですよね。
今考えると、カメラは生きてることを実感するためのものである反面
自分は全く世界から無い存在でありたかったのかも知れない。
まるで自傷行為みたいな。
そんな時代を過ぎて、今は今しかない自分も含め
今しかない瞬間をカメラに収めています。
そんなこんなで、存在をめぐるまなざしの写真日記を始めました。
「存在日和。」
http://ameblo.jp/moonsheep/
有機の優
そしてカメラ。
有機の優が取れるかは、昨日の試験で決まってしまっているけれど
カメラはまだ間に合う。(?)
カメラで写真が撮りたいと思い続ける今日このごろ。
一眼レフで写真が撮りたい。
カメラにはまったのは、小学生のころ。
ちびっこのくせにカメラが好きで仕方なかった。
じいちゃんにカメラをせびって、いわゆる「シャッター押せばそれでおしまい」
というカメラをもらった。
当時はフィルムだったので、どんなふうにとれているかは現像しないとわからない。
そして現像も自分では到底できませんので、お店に出すことになる。
お店で現像してもらって、確認のため店員さんに
「こちらでよろしいでしょうか?」
と言われるときの恥ずかしいこと。
納得いかないような写りをわざわざ確認されるなんて。
今はスピードで35分もあればすぐ写真なんて現像できますけど
当時は3日4日かかったんです。
しかも小学生のくせに現像する写真は夕焼けとか植物の寄りだとか。
そんなんばっかり。
そんな風に小さいころから写真で表現してきた私には
カメラのない生活が考えられない。
高校卒業してすぐに買ったEOS-Kissを皮切りに
カメラが手元から無くなった時間がありません。
一眼レフが手元になくなった時代が私にはなかったのです。
それがついにここ数年、一眼のない生活です。
とりたい写真は、コンパクトデジカメでも十分足りることもあるけれど
やっぱりあの一眼を構えてシャッターを切る、あの時間が
自分だけの時間のような気がしてとても愛おしいのです。
というわけでカメラを買うことに決めました。
最初は私のミクロな手になじむような、オリンパスのE420(ミーハー)に
しようかとずっと思っていたのですが
ここにきて急に上位機のE510が気になる。
しかし重さ100グラムの違いは大きい。420は小型最軽量なのだ。
重たいものが持てない腕力のない私にもってこい。
しかしどうしても手ぶれ補正機能が欲しくなってきた。
夜に写真が撮りたくなったから。
カメラを構えている時間がとても好きだ。
私は一年の間に、だいたい2000枚くらい写真を撮ります。
記録的な「ご飯日記」をはじめ、きれいだな、と思った時も
いつでもシャッターを押したいと思う。
今はコンパクトデジカメ(Lumix)にお世話になっているけれど
一眼レフ買ったら大学にも持って行きそうな気配です
今通っている大学は、自然が豊かで風の流れがとてもキレイなのです。
今のところカメラ好きのシラガ先生や、いつも図鑑を貸してもらう分類学の先生に
カメラを触らせてもらってばかり。
写真を撮ることが好きなくせに
実は自分が写っている写真はとても少ないです。
写真に「撮られる」ことがなんか嫌だったんですよ。
20代の半ばくらいまで。
なんだか生きてる証拠が残る気がしてたんですよね。
今考えると、カメラは生きてることを実感するためのものである反面
自分は全く世界から無い存在でありたかったのかも知れない。
まるで自傷行為みたいな。
そんな時代を過ぎて、今は今しかない自分も含め
今しかない瞬間をカメラに収めています。
そんなこんなで、存在をめぐるまなざしの写真日記を始めました。
「存在日和。」
http://ameblo.jp/moonsheep/
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本日は有機化学の中間試験。
ちょうど体調に大波が来ていて、眠くてここ一週間ほど講義中も
どんなに前の日寝てもつい気づくと瞬間睡眠に陥っているという状況で
勉強は老体に鞭打ち(そう若くないですからね)何とか睡魔との闘いで
していたのですが、自分的には量的にいまいち不安感を抱いたまま
当日を迎えました。
有機化学は大学で出会った私の一番好きな科目です。
みんな嫌いだ嫌いだというけれど、私は大学生活の中で
有機化学が一番好きなのです。
なんといってもあの美しい理論に惹かれます。
論理的な動きで分子が出来上がっていくなんて。
しかもそれを人間の手で、その美しい理論を使って作り上げることができるなんて。
ああ、なんて美しい学問なんだろう。まるで女神さまのよう。
特に反応機構が好き。
超理論的なあの電子の動きがたまらんです。
(こーなると理系の怪しさ満点ですね)
駄菓子菓子
だがしかし・・・・
有機の女神さまにはなかなか振り向いてもらえず
テストではいつもこっぴどく振られまくっています。
有機Ⅰの時なんか、学生集めて有機の分からないところを
みんなに細かく教えてあげたりして。
教えたみんなは無事軒並み高得点をゲットし
当の私はというと赤点ぎりぎりで 先生にも
「もとむら、もっと取れると思って期待してたのに。」
なんてがっかりされてました。
そりゃそうだよ。私だってなぜこの点数になる答えを
当日導き出したかが自分でも謎。
あまりに納得いかないので、後でもう一回テストを解きなおし
させてもらいました。
そしたらちゃんと高得点をゲット!(意味無いが)
続く有機Ⅱは、一番大好きな科目だったので
後回しにしたのが間違いのもとで
こつこつ積み重ねが大事な有機化学は
一日二日の詰め込み知識じゃいかんのですよ。
しかも最悪なことにスケジュール的に3日前に有機の補講が入り
そこで一気に100ページ近く進むという暴挙。
当日まで結局範囲を網羅できずに試験に臨んでしまい
もちろん女神さまにはこっぴどく振られ
一度も今のところ微笑んでもらったことがないのです。
ふー。
そして今日のテスト。
前の日まで反応機構を何度も繰り返し書いて
過去問をといて、宿題を見直し
今日のテストに臨んだのですが
試験開始10分後、さっき開始前にトイレ行ったばかりなのに
冷え切った机と椅子と教室にやられたのか
トイレに行きたくなり
トイレに行きたい・・・
トイレ・・・・
うー・・・・・・・
我慢できない・・・・・・
どうしよ・・・
トイレに行きたい
トイレ行ったらもう教室帰ってこれないよな・・・
でも今まだ始まって10分しか経ってないよ・・・
しかも全然といてないよ・・・
トイレに行きたい・・・
寒すぎる・・・
と、トイレに行くのを我慢するのに思考回路のほぼ半分以上を
使ってしまい
まともに炭素数やら立体配置なんかを考えている余裕がなかった・・・・・・
というよりも思考を化学に戻せなかった・・・
しかも帰ってきて上司(医師)の一言が
「漏らしてでもいいから試験に集中しろっ。オペ中にトイレに
行きたくなったらどーすんだコラ」
ごもっとも・・・・
ん?!
いやいや!
漏らせませんから!
というか理性が働いてそんなこと出来ない!
有機の女神さまにはいつまで嫌われ続けるのだろうか・・・・。
ちょうど体調に大波が来ていて、眠くてここ一週間ほど講義中も
どんなに前の日寝てもつい気づくと瞬間睡眠に陥っているという状況で
勉強は老体に鞭打ち(そう若くないですからね)何とか睡魔との闘いで
していたのですが、自分的には量的にいまいち不安感を抱いたまま
当日を迎えました。
有機化学は大学で出会った私の一番好きな科目です。
みんな嫌いだ嫌いだというけれど、私は大学生活の中で
有機化学が一番好きなのです。
なんといってもあの美しい理論に惹かれます。
論理的な動きで分子が出来上がっていくなんて。
しかもそれを人間の手で、その美しい理論を使って作り上げることができるなんて。
ああ、なんて美しい学問なんだろう。まるで女神さまのよう。
特に反応機構が好き。
超理論的なあの電子の動きがたまらんです。
(こーなると理系の怪しさ満点ですね)
駄菓子菓子
だがしかし・・・・
有機の女神さまにはなかなか振り向いてもらえず
テストではいつもこっぴどく振られまくっています。
有機Ⅰの時なんか、学生集めて有機の分からないところを
みんなに細かく教えてあげたりして。
教えたみんなは無事軒並み高得点をゲットし
当の私はというと赤点ぎりぎりで 先生にも
「もとむら、もっと取れると思って期待してたのに。」
なんてがっかりされてました。
そりゃそうだよ。私だってなぜこの点数になる答えを
当日導き出したかが自分でも謎。
あまりに納得いかないので、後でもう一回テストを解きなおし
させてもらいました。
そしたらちゃんと高得点をゲット!(意味無いが)
続く有機Ⅱは、一番大好きな科目だったので
後回しにしたのが間違いのもとで
こつこつ積み重ねが大事な有機化学は
一日二日の詰め込み知識じゃいかんのですよ。
しかも最悪なことにスケジュール的に3日前に有機の補講が入り
そこで一気に100ページ近く進むという暴挙。
当日まで結局範囲を網羅できずに試験に臨んでしまい
もちろん女神さまにはこっぴどく振られ
一度も今のところ微笑んでもらったことがないのです。
ふー。
そして今日のテスト。
前の日まで反応機構を何度も繰り返し書いて
過去問をといて、宿題を見直し
今日のテストに臨んだのですが
試験開始10分後、さっき開始前にトイレ行ったばかりなのに
冷え切った机と椅子と教室にやられたのか
トイレに行きたくなり
トイレに行きたい・・・
トイレ・・・・
うー・・・・・・・
我慢できない・・・・・・
どうしよ・・・
トイレに行きたい
トイレ行ったらもう教室帰ってこれないよな・・・
でも今まだ始まって10分しか経ってないよ・・・
しかも全然といてないよ・・・
トイレに行きたい・・・
寒すぎる・・・
と、トイレに行くのを我慢するのに思考回路のほぼ半分以上を
使ってしまい
まともに炭素数やら立体配置なんかを考えている余裕がなかった・・・・・・
というよりも思考を化学に戻せなかった・・・
しかも帰ってきて上司(医師)の一言が
「漏らしてでもいいから試験に集中しろっ。オペ中にトイレに
行きたくなったらどーすんだコラ」
ごもっとも・・・・
ん?!
いやいや!
漏らせませんから!
というか理性が働いてそんなこと出来ない!
有機の女神さまにはいつまで嫌われ続けるのだろうか・・・・。
このところ批評じみたブログになってしまっていたので
今日くらいはのほほんと近況報告でも。
2か月くらい前に、コンタクトを外さずに寝てしまい角膜潰瘍に
なってしまったー!と書いていましたが、今週でついに治療終了しました。
結局白濁が残ったものの、黒眼にかからなかったのでよかったです。
しかし、久しぶりに視力を測ったら、左右とも3段階も度が上がっていました。
近視は器質的なものの要因が強いので、成長期もとっくに過ぎた私などは
もう度なんて進まないと思っていたのですが
油断してました・・・
コンタクトに久しぶりにしてみたら、メガネで縁取っていた自分の顔が
なんだか物足りない(しみったれた?)顔に見えてしまって仕方なくなりました。
・・・・・・顔が地味なんだろうな。
でも、きっちり度のあったコンタクトをしていると
ああ、世の中ってこんなにキレイだったんだなあ、と思います。
木々の葉の一つ一つが、とてもきれいに見えるし
空の青や日の光がとても眩しく感じます。
きっとこれが春なら、桜の花びら一枚一枚がきっちり見えて感動したことでしょう。
今の実習が化学合成の実習なので、保護メガネの下にメガネをするという
「メガネメガネ(Wメガネ?)」からやっと脱却できました。
でも世界って本当に奇麗ですね
普段何気なく過ごしている世界が、本当はとても美しい世界だということ
(たぶん宇宙人が地球に来たら驚くだろう)
何かきっかけがないと、ついつい忘れてしまうかもしれません。
私も忘れかけていました。
そうそう
今日最寄駅に着いたら、青森物産展?がこじんまりと開かれていました。
たまにりんごとかにんにくとか売っているのだけれど
今日は大好きな「あめせん」(南部せんべいの間に水あめがはさんであるというシロモノ)
があるかな~、と思い声をかけ、ついでに「私も青森です~」なんて言ってしまった。
そしたら!!
「りんご食ってけ~」
と、包丁と林檎を渡されました。
とはいっても実は私、小さい頃から林檎が好きではないのです。
どちらかというと嫌いな部類。食べ過ぎておいしさが分からなくなったのか
はたまたもとから味音痴なのかもしれませんが
とにかく積極的に食べようとは思えない果物でした。
けれど久しぶりに食べた林檎はとても美味しく感じて
つい一個食べてしまいました。
たぶん、林檎を一人で一個食べたのは、生まれて初めてではなかったかと思う。
そのぐらい林檎が、どちらかというと嫌いな果物の部類だったのだ。
それを丸ごと食べられるようになったのは、ここ東京にいるからでしょうか。
しかもしばらく店番までしてしまった・・・
生きてることが 辛いなら
いっそ小さく 死ねばいい
恋人と親は悲しむが
三日とたてば 元通り
(森山直太郎 生きてることが辛いならより)
青森を思い返すと なぜかこの歌が頭の中で響いてくる
私は今、「生きてることが辛い」のだろうか。
今日くらいはのほほんと近況報告でも。
2か月くらい前に、コンタクトを外さずに寝てしまい角膜潰瘍に
なってしまったー!と書いていましたが、今週でついに治療終了しました。
結局白濁が残ったものの、黒眼にかからなかったのでよかったです。
しかし、久しぶりに視力を測ったら、左右とも3段階も度が上がっていました。
近視は器質的なものの要因が強いので、成長期もとっくに過ぎた私などは
もう度なんて進まないと思っていたのですが
油断してました・・・
コンタクトに久しぶりにしてみたら、メガネで縁取っていた自分の顔が
なんだか物足りない(しみったれた?)顔に見えてしまって仕方なくなりました。
・・・・・・顔が地味なんだろうな。
でも、きっちり度のあったコンタクトをしていると
ああ、世の中ってこんなにキレイだったんだなあ、と思います。
木々の葉の一つ一つが、とてもきれいに見えるし
空の青や日の光がとても眩しく感じます。
きっとこれが春なら、桜の花びら一枚一枚がきっちり見えて感動したことでしょう。
今の実習が化学合成の実習なので、保護メガネの下にメガネをするという
「メガネメガネ(Wメガネ?)」からやっと脱却できました。
でも世界って本当に奇麗ですね
普段何気なく過ごしている世界が、本当はとても美しい世界だということ
(たぶん宇宙人が地球に来たら驚くだろう)
何かきっかけがないと、ついつい忘れてしまうかもしれません。
私も忘れかけていました。
そうそう
今日最寄駅に着いたら、青森物産展?がこじんまりと開かれていました。
たまにりんごとかにんにくとか売っているのだけれど
今日は大好きな「あめせん」(南部せんべいの間に水あめがはさんであるというシロモノ)
があるかな~、と思い声をかけ、ついでに「私も青森です~」なんて言ってしまった。
そしたら!!
「りんご食ってけ~」
と、包丁と林檎を渡されました。
とはいっても実は私、小さい頃から林檎が好きではないのです。
どちらかというと嫌いな部類。食べ過ぎておいしさが分からなくなったのか
はたまたもとから味音痴なのかもしれませんが
とにかく積極的に食べようとは思えない果物でした。
けれど久しぶりに食べた林檎はとても美味しく感じて
つい一個食べてしまいました。
たぶん、林檎を一人で一個食べたのは、生まれて初めてではなかったかと思う。
そのぐらい林檎が、どちらかというと嫌いな果物の部類だったのだ。
それを丸ごと食べられるようになったのは、ここ東京にいるからでしょうか。
しかもしばらく店番までしてしまった・・・
生きてることが 辛いなら
いっそ小さく 死ねばいい
恋人と親は悲しむが
三日とたてば 元通り
(森山直太郎 生きてることが辛いならより)
青森を思い返すと なぜかこの歌が頭の中で響いてくる
私は今、「生きてることが辛い」のだろうか。
昨日の経済の講義。
今の医療改革はまだ不十分だから、このような不具合が
生まれるのだという話をしていた。
まさに、北先生が指摘していた「壮大な勘違い」。
私もそうじゃないだろ!と突っ込みを入れたくなった。
いじめを例に出して、うまく行かない物には必ず両方に
問題がある。イジメでも、イジメられる方にも原因がある。と。
私はこの意見には昔から真っ向に反対です。
イジメには原因がある?
イジメられるほうにも原因がある?
何を戦国時代みたいな話をしてるんだ。
今のイジメには理由なんて存在しない。自分にとって
気に入らないから、ただそれだけで十分なのだ。
逆にあらゆることがイジメの理由になりうる。
極端なことを言えば
父親の職業だとか、家族にハゲがいるとか
家で珍しい犬を飼っているとか
携帯メールを1分以内に返さなかったとか
自分が気に入っている男の子と会話したとか
上げていったらキリがない。そんなくだらないどうでも
いいようなことでイジメの理由になるのだ。要はイジメ
る側の「気に入らなさ」にかかっているのだ。
それを
「イジメ等れる側にも原因がある」ですと?
ふざけるんじゃない。時代錯誤も甚だしいとはこのこと。
自分の子供がいじめの原因として、あなたの容姿のこと
をあげられたらどうするつもりなのか?
そういう、本人のどうにも出来ないことを理由にされても
納得すると言うのか。
もし身体障害があって苛められたら、
「障害があるから」と仕方ないと思うのか。
つまり、イジメにはイジメられるほうにも原因があると
言う人間は、理由さえあればイジメを認める人間なのだと
私は思う。だからイジメを否定するのではなく、イジメら
れるほうも悪い、原因があるからイジメられるんだという
大きな勘違いをするのだ。
イジメは理由がたとえ何にせよ有り得ない事なのではないか。
自分の気に入らなさで相手を不快にさせることは
自己中心的で甘ったれた他罰的思考である。
私はイジメという方法でしか自己を肯定できない、そんな
人間の心こそに問題の焦点を当てるべきではないかと 思う。
他人をいたぶることで、その人間の満たそうとしている ことは
一体何なのか。そこに目を向けず、単純な理由づけや
犯人探しで納得し片付けたつもりになることは、日本人の
最も根の深い問題点ではないか。
私は犯罪が起きた後に、犯人が捕まったからといって
その問題が解決したとは 思えない派だ。
何故なら答えはそこにはないからだ。
犯人が捕まり、理由が判ったところで何になると言うのだ。
大切なのは繰り返されないことではないのか。
私たち日本人は、確実に注目すべき点を見逃している。
今の医療改革はまだ不十分だから、このような不具合が
生まれるのだという話をしていた。
まさに、北先生が指摘していた「壮大な勘違い」。
私もそうじゃないだろ!と突っ込みを入れたくなった。
いじめを例に出して、うまく行かない物には必ず両方に
問題がある。イジメでも、イジメられる方にも原因がある。と。
私はこの意見には昔から真っ向に反対です。
イジメには原因がある?
イジメられるほうにも原因がある?
何を戦国時代みたいな話をしてるんだ。
今のイジメには理由なんて存在しない。自分にとって
気に入らないから、ただそれだけで十分なのだ。
逆にあらゆることがイジメの理由になりうる。
極端なことを言えば
父親の職業だとか、家族にハゲがいるとか
家で珍しい犬を飼っているとか
携帯メールを1分以内に返さなかったとか
自分が気に入っている男の子と会話したとか
上げていったらキリがない。そんなくだらないどうでも
いいようなことでイジメの理由になるのだ。要はイジメ
る側の「気に入らなさ」にかかっているのだ。
それを
「イジメ等れる側にも原因がある」ですと?
ふざけるんじゃない。時代錯誤も甚だしいとはこのこと。
自分の子供がいじめの原因として、あなたの容姿のこと
をあげられたらどうするつもりなのか?
そういう、本人のどうにも出来ないことを理由にされても
納得すると言うのか。
もし身体障害があって苛められたら、
「障害があるから」と仕方ないと思うのか。
つまり、イジメにはイジメられるほうにも原因があると
言う人間は、理由さえあればイジメを認める人間なのだと
私は思う。だからイジメを否定するのではなく、イジメら
れるほうも悪い、原因があるからイジメられるんだという
大きな勘違いをするのだ。
イジメは理由がたとえ何にせよ有り得ない事なのではないか。
自分の気に入らなさで相手を不快にさせることは
自己中心的で甘ったれた他罰的思考である。
私はイジメという方法でしか自己を肯定できない、そんな
人間の心こそに問題の焦点を当てるべきではないかと 思う。
他人をいたぶることで、その人間の満たそうとしている ことは
一体何なのか。そこに目を向けず、単純な理由づけや
犯人探しで納得し片付けたつもりになることは、日本人の
最も根の深い問題点ではないか。
私は犯罪が起きた後に、犯人が捕まったからといって
その問題が解決したとは 思えない派だ。
何故なら答えはそこにはないからだ。
犯人が捕まり、理由が判ったところで何になると言うのだ。
大切なのは繰り返されないことではないのか。
私たち日本人は、確実に注目すべき点を見逃している。
雪が降りました。
と言っても今住んでいる所ではなく
遠い北国の話しですが…
雪が降っているときに
空を見上げるのが好きでした。
何億何兆という雪のかけらが
地面目掛けて降り注ぐのを眺めるのが好きでした。
そんな景色はもうここでは見られないけれども
私はここで
私らしく
私なりに
青い森を離れて生きてきた時間が
青い森で過ごした時間を越えようとしている。
けれど私の中でその存在はけして消えることはない。
私という存在が
青い森から消えても
人々の記憶から消えても
このまま会わずにいたら君は
僕を忘れてしまうだろうか
いくつもの優しい日々も全て
無くしてしまうのだろうかと
服部祐民子は歌ったけれど
故郷は遠くにありて想うもの
私の青森は
まだそこにありますか。
と言っても今住んでいる所ではなく
遠い北国の話しですが…
雪が降っているときに
空を見上げるのが好きでした。
何億何兆という雪のかけらが
地面目掛けて降り注ぐのを眺めるのが好きでした。
そんな景色はもうここでは見られないけれども
私はここで
私らしく
私なりに
青い森を離れて生きてきた時間が
青い森で過ごした時間を越えようとしている。
けれど私の中でその存在はけして消えることはない。
私という存在が
青い森から消えても
人々の記憶から消えても
このまま会わずにいたら君は
僕を忘れてしまうだろうか
いくつもの優しい日々も全て
無くしてしまうのだろうかと
服部祐民子は歌ったけれど
故郷は遠くにありて想うもの
私の青森は
まだそこにありますか。
私のいつも使う通学電車には、近所の有名私立小学生が
沢山乗り込んでいます。
そして私のように、大学生も、会社員も乗り込みます。
さらに、朝デイケアに通う障害者の方々もいます。
そんな中で私がいつも見ていて気になること、気分が
悪くなることがあるのです。
それは有名私立小学校の生徒が、障害者の方に対して
「今日もあの変な人いるよー!」
「コワイね~」「気持ち悪い」
「ねー、見に行こうよ」
と言い、そばについてじろじろ見たり、あわよくば
文句の一言でも言いたげな雰囲気で取り巻くのです。
これが毎朝繰り広げられるのです。
見かねた大人たちがたまに、
「見ちゃいけません」
と注意したりするのですが、私はその注意の仕方も
納得いかないわけです。それじゃあいつまで経ったって
正しい知識は身につかないはずです。
障害は、何も目に見える体の障害ばかりではありません。
体の障害については、手を貸しましょうとか、変な目で
見ないだとか、散々教育してるし、24時間テレビなどで
大々的にサポートを訴えています。だからこそ違和感が
無いのです。
けれど精神の障害についてはどうでしょうか。
未だに日本人は見てみないふり、見てはいけないもの
という考えです。
だからまったく精神障害に対する正しい知識が無く、
いつまでもただただ恐怖心を抱くか白い目で見るかでは
ないでしょうか。
日本は精神というものの取り扱いを誤ったと思う。
誰もが持っている精神なのに。
沢山乗り込んでいます。
そして私のように、大学生も、会社員も乗り込みます。
さらに、朝デイケアに通う障害者の方々もいます。
そんな中で私がいつも見ていて気になること、気分が
悪くなることがあるのです。
それは有名私立小学校の生徒が、障害者の方に対して
「今日もあの変な人いるよー!」
「コワイね~」「気持ち悪い」
「ねー、見に行こうよ」
と言い、そばについてじろじろ見たり、あわよくば
文句の一言でも言いたげな雰囲気で取り巻くのです。
これが毎朝繰り広げられるのです。
見かねた大人たちがたまに、
「見ちゃいけません」
と注意したりするのですが、私はその注意の仕方も
納得いかないわけです。それじゃあいつまで経ったって
正しい知識は身につかないはずです。
障害は、何も目に見える体の障害ばかりではありません。
体の障害については、手を貸しましょうとか、変な目で
見ないだとか、散々教育してるし、24時間テレビなどで
大々的にサポートを訴えています。だからこそ違和感が
無いのです。
けれど精神の障害についてはどうでしょうか。
未だに日本人は見てみないふり、見てはいけないもの
という考えです。
だからまったく精神障害に対する正しい知識が無く、
いつまでもただただ恐怖心を抱くか白い目で見るかでは
ないでしょうか。
日本は精神というものの取り扱いを誤ったと思う。
誰もが持っている精神なのに。
素朴な疑問・・・
日本医師会が、自民党と親しくしているのは周知の事実ですが
なぜ医療が、ここまで「改革」という名のもと
自分たちのポリシーのある「医療」ができなくなったのに
なぜ医師会は自民党を擁護し続けるのでしょうか。
自民党の間違った「改革」により、病院はつぶれ
医師は都心に局在化するようになった。
医局の引き上げ、産科の撤退
保険点数の大幅引き下げ
どれもこれも、医師としての「志」が残っているのなら
受け入れられることではないような気がします。
それとも、医師会のトップというものは
現場から離れ、医師としての若かりし頃の志さえ
忘れてしまったのでしょうか。
机上の空論や、何かの保身に走るのでしょうか
それは権力でしょうか、お金でしょうか
地位でしょうか。
医師がいなければ
医療は当然成り立ちません。
でも、医療現場の混乱や苦労を知るのは
今、現場に立つ者だけなのです。
医師は患者を治療することに
最大の努力を払うべきだと、私は思います。
患者を無視した制度や改革に、何の意味があるのでしょうか。
自民党が決めた無意味な制度に
日本医師会は権力や保守のために、患者や現場の声を無視して
屈伏するのでしょうか
それが本来の医師会の姿でしょうか。
医師会が嫌いな医師や人間が存在します。
それは私も知っています。
だけど、小さい頃から「医師会」を身近で感じてきた私は
それほど嫌悪感を抱かずにいました。
それは私が、医療現場に居なかったからです。
現場に立つようになった今 つくづく思います
医師会はその権力を、なぜ日本の医療がより良い方向に向かうことに
全力を注がないのでしょうか。
患者が苦しんでいて、現場の医師が混乱しているのにも関わらず
なぜ無意味な制度の立ち上げにその権力で反論しないのでしょうか。
きっとそこには、患者と現場を無視した世界が
存在しているに違いありません。
私の今いる医院の院長は
医師会に加盟していません。
私もその考えに賛同しています。
なぜなら 私の今いる地区の医師会が
不透明だからです。
レセプトでもそうですが
ここには「神奈川ルール」というものが存在します。
しかし、なぜその点数を切ったのかを
一切公表しないのです。
おかしいと思いませんか。
審査委員は医師会の持ち回りですが
誰が「この治療は不要と判断されるもの」と判定を下したのか
全く公表されません。
つまり、ここの保険診療の点数は
暗闇の中で切り捨てられ、その理由さえも通知しないのです。
この医療は不要と判断し、保険点数を切り捨てるなら
その理由を明確に公開する義務があると 私は思います。
そして、こんな重大なことをする審査委員は
私は投票で決めるべきだと思います。
裁判官のように、どういった請求で、どういう判断を下したのか
明確に表明して、選挙により決めるべきではないでしょうか。
選挙で決めないから、3か月交代で審査委員ごとのあいまいな基準で
切り捨てられたり、通ったりするのです。
そんな制度、明らかにおかしいと思いませんか。
先月通った請求が、今月は「不要」と切り捨てられる。
そんな曖昧な審査があっていいのでしょうか。
主治医でもないのに、病名だけでレセプトの患者の病態を判断し
治療が過剰だとか不要だとか言うこと自体がおかしいのです。
医師がいつもいうでしょう?
「本人見てないから何とも言えない」 って。
それなのに、レセプトの文字だけで、症状や病態を判断するのでしょうか。
自民党とつながっている、と言われているのは
医師会の中でもトップの、ごく一部だと思いますが
だからこそ、その権力は医師としての使命に使うべきだと思うのです。
医師会の権力は、とても大きいです。
日本の医療は、医師なしではありえないからです。
しかし、その医師の有志の集まりである「医師会」が
本当に患者のためを思って政治家とつながっているのではなくて
ごく一部の人間の保身や利益のために
存在しているような、そんな気がするのです。
私は地元で医師になりたいと思っていました。
今でも、そう願っています。
だけど私がこの先もし医師免許を取ったとしても
日本の医療制度は医療を崩壊しようとしている。
自分のプライドと、ポリシーで医療を続けられるような
そんな基盤が今の日本にはないし
ましてや本州最北端の地には
届かないような気がします。
そうすると、たとえ医師になっても
青い森に帰ることは、難しいなあと考えるのです。
日本医師会が、自民党と親しくしているのは周知の事実ですが
なぜ医療が、ここまで「改革」という名のもと
自分たちのポリシーのある「医療」ができなくなったのに
なぜ医師会は自民党を擁護し続けるのでしょうか。
自民党の間違った「改革」により、病院はつぶれ
医師は都心に局在化するようになった。
医局の引き上げ、産科の撤退
保険点数の大幅引き下げ
どれもこれも、医師としての「志」が残っているのなら
受け入れられることではないような気がします。
それとも、医師会のトップというものは
現場から離れ、医師としての若かりし頃の志さえ
忘れてしまったのでしょうか。
机上の空論や、何かの保身に走るのでしょうか
それは権力でしょうか、お金でしょうか
地位でしょうか。
医師がいなければ
医療は当然成り立ちません。
でも、医療現場の混乱や苦労を知るのは
今、現場に立つ者だけなのです。
医師は患者を治療することに
最大の努力を払うべきだと、私は思います。
患者を無視した制度や改革に、何の意味があるのでしょうか。
自民党が決めた無意味な制度に
日本医師会は権力や保守のために、患者や現場の声を無視して
屈伏するのでしょうか
それが本来の医師会の姿でしょうか。
医師会が嫌いな医師や人間が存在します。
それは私も知っています。
だけど、小さい頃から「医師会」を身近で感じてきた私は
それほど嫌悪感を抱かずにいました。
それは私が、医療現場に居なかったからです。
現場に立つようになった今 つくづく思います
医師会はその権力を、なぜ日本の医療がより良い方向に向かうことに
全力を注がないのでしょうか。
患者が苦しんでいて、現場の医師が混乱しているのにも関わらず
なぜ無意味な制度の立ち上げにその権力で反論しないのでしょうか。
きっとそこには、患者と現場を無視した世界が
存在しているに違いありません。
私の今いる医院の院長は
医師会に加盟していません。
私もその考えに賛同しています。
なぜなら 私の今いる地区の医師会が
不透明だからです。
レセプトでもそうですが
ここには「神奈川ルール」というものが存在します。
しかし、なぜその点数を切ったのかを
一切公表しないのです。
おかしいと思いませんか。
審査委員は医師会の持ち回りですが
誰が「この治療は不要と判断されるもの」と判定を下したのか
全く公表されません。
つまり、ここの保険診療の点数は
暗闇の中で切り捨てられ、その理由さえも通知しないのです。
この医療は不要と判断し、保険点数を切り捨てるなら
その理由を明確に公開する義務があると 私は思います。
そして、こんな重大なことをする審査委員は
私は投票で決めるべきだと思います。
裁判官のように、どういった請求で、どういう判断を下したのか
明確に表明して、選挙により決めるべきではないでしょうか。
選挙で決めないから、3か月交代で審査委員ごとのあいまいな基準で
切り捨てられたり、通ったりするのです。
そんな制度、明らかにおかしいと思いませんか。
先月通った請求が、今月は「不要」と切り捨てられる。
そんな曖昧な審査があっていいのでしょうか。
主治医でもないのに、病名だけでレセプトの患者の病態を判断し
治療が過剰だとか不要だとか言うこと自体がおかしいのです。
医師がいつもいうでしょう?
「本人見てないから何とも言えない」 って。
それなのに、レセプトの文字だけで、症状や病態を判断するのでしょうか。
自民党とつながっている、と言われているのは
医師会の中でもトップの、ごく一部だと思いますが
だからこそ、その権力は医師としての使命に使うべきだと思うのです。
医師会の権力は、とても大きいです。
日本の医療は、医師なしではありえないからです。
しかし、その医師の有志の集まりである「医師会」が
本当に患者のためを思って政治家とつながっているのではなくて
ごく一部の人間の保身や利益のために
存在しているような、そんな気がするのです。
私は地元で医師になりたいと思っていました。
今でも、そう願っています。
だけど私がこの先もし医師免許を取ったとしても
日本の医療制度は医療を崩壊しようとしている。
自分のプライドと、ポリシーで医療を続けられるような
そんな基盤が今の日本にはないし
ましてや本州最北端の地には
届かないような気がします。
そうすると、たとえ医師になっても
青い森に帰ることは、難しいなあと考えるのです。
今日、久しぶりに加藤諦三の本を買いました。
「大人になりきれない人の心理」(PHP出版)です。
この本を読んで、なるほどなーと思う事が沢山あり
妙に自分自身と他人に納得してしまいました。
今、生きることが辛い大人が沢山存在しています。
それはどうしてだろうかと考えた時に、加藤氏は
「心が5歳のままだから」と言い切ったのです。
一瞬のうちに納得してしまいました。
5歳というのは、人格形成においてもっとも重要な分岐点だと
私は思います。それは、自我が形成されるぎりぎりのラインだからです。
多重人格(DID)になるには、少なくとも4歳までに死の恐怖を味わう経験を
しているといわれています。(注:今は自我形成があやふやで、すぐに解離して
逃避する「なんちゃってDID」も多量に発生していますが)
5歳になると、やりたくないこと、自分の好きなもの、そういったことが
少しずつ確立していくのです。
まさに、「自分」が「自分である」という存在を、自らが感じる時が
私は5歳だと思うのです。
そんな小さな5歳の時に、自分のやりたいことをのびのびとやれなかった子供
そして、そんな時に親から、社会から、環境から、抑えられて育った子供は
「やりきった」という経験を持たないまま、体だけ社会的に大人になってしまうと
いうのです。
やりきった経験がない、というのは、自分はこれだけ我慢したのに
という負の感情になっていくと、加藤氏は書いています。
私もそう思います。
ちゃらちゃらして我慢できないやつ、我慢しないで他人から簡単にそれを奪うやつ
そういうのがやたらと許せないのです。
そりゃそうですよね。自分が自分を殺してまでやらされていたことなのに
それをあっさりと奪っていかれたら
不真面目なやつを許せなくなるのが当然です。
しかし、反撃したい心をぐっとこらえて、もくもくとそれに従っていれば
世間的にも、親的にも「根気のある子」「我慢強い子」と
言われてしまうのです。
加藤氏はこんな例をあげています。
「鉛筆を無理やり削らされていた子供は、鉛筆を削ってこなかった子供にけして鉛筆を貸さない」
そりゃそうですよね。
それに対して私はもっともな子供の反撃だと思います。
そんな子供の思いを、大人になってもずっとずっと持っているというのです。
相手を許すことが出来ない。
心は5歳のままなら、それはできなくて当然だと思います。
でも、社会ではたとえば30歳なら30歳の責任を負わされる。
社会的な「30歳」を押し付けられるのです。
それは想像しただけで辛いと思います。5歳児には心理的負担が大きすぎる。
それなのに世間は社会年齢だけを基準にして
いろんなことを押し付ける。
そりゃ鬱にもなるし、自殺もしたくなるわ。
本人が悪いわけじゃない。
だけど、愛されて育った、心も体も同じように年齢を重ねることができた子供は
そのような人が理解できません。
いつまでたっても理解できず、理解できないどころか
精神的にダメな人とまで色眼鏡をかけることもある。
だけど精神的にダメなのではなく
「大人になりきれない人の心理」(PHP出版)です。
この本を読んで、なるほどなーと思う事が沢山あり
妙に自分自身と他人に納得してしまいました。
今、生きることが辛い大人が沢山存在しています。
それはどうしてだろうかと考えた時に、加藤氏は
「心が5歳のままだから」と言い切ったのです。
一瞬のうちに納得してしまいました。
5歳というのは、人格形成においてもっとも重要な分岐点だと
私は思います。それは、自我が形成されるぎりぎりのラインだからです。
多重人格(DID)になるには、少なくとも4歳までに死の恐怖を味わう経験を
しているといわれています。(注:今は自我形成があやふやで、すぐに解離して
逃避する「なんちゃってDID」も多量に発生していますが)
5歳になると、やりたくないこと、自分の好きなもの、そういったことが
少しずつ確立していくのです。
まさに、「自分」が「自分である」という存在を、自らが感じる時が
私は5歳だと思うのです。
そんな小さな5歳の時に、自分のやりたいことをのびのびとやれなかった子供
そして、そんな時に親から、社会から、環境から、抑えられて育った子供は
「やりきった」という経験を持たないまま、体だけ社会的に大人になってしまうと
いうのです。
やりきった経験がない、というのは、自分はこれだけ我慢したのに
という負の感情になっていくと、加藤氏は書いています。
私もそう思います。
ちゃらちゃらして我慢できないやつ、我慢しないで他人から簡単にそれを奪うやつ
そういうのがやたらと許せないのです。
そりゃそうですよね。自分が自分を殺してまでやらされていたことなのに
それをあっさりと奪っていかれたら
不真面目なやつを許せなくなるのが当然です。
しかし、反撃したい心をぐっとこらえて、もくもくとそれに従っていれば
世間的にも、親的にも「根気のある子」「我慢強い子」と
言われてしまうのです。
加藤氏はこんな例をあげています。
「鉛筆を無理やり削らされていた子供は、鉛筆を削ってこなかった子供にけして鉛筆を貸さない」
そりゃそうですよね。
それに対して私はもっともな子供の反撃だと思います。
そんな子供の思いを、大人になってもずっとずっと持っているというのです。
相手を許すことが出来ない。
心は5歳のままなら、それはできなくて当然だと思います。
でも、社会ではたとえば30歳なら30歳の責任を負わされる。
社会的な「30歳」を押し付けられるのです。
それは想像しただけで辛いと思います。5歳児には心理的負担が大きすぎる。
それなのに世間は社会年齢だけを基準にして
いろんなことを押し付ける。
そりゃ鬱にもなるし、自殺もしたくなるわ。
本人が悪いわけじゃない。
だけど、愛されて育った、心も体も同じように年齢を重ねることができた子供は
そのような人が理解できません。
いつまでたっても理解できず、理解できないどころか
精神的にダメな人とまで色眼鏡をかけることもある。
だけど精神的にダメなのではなく
誰かに分かってもらうことは必要なことだろうか?
自己満足に溺れずにいるためには
誰かに分かってもらいたいと思う
けれどもそれは何と傲慢で身勝手な思いだろうか。
すべてを打ち明けたら 言った本人は楽になれるかもしれない。
だけどその重さは打ち明けた相手に移動する。
そう
分かってもらいたい人と受け止められる人間というのは違うのだ。
時に人間というものは大きな間違いを犯す
分かってもらいたい人が受け止めてもらえる人だと
勘違いすることだ
だけどそれは違う きっと違う。
その思いはイコールであれば幸せなことだが
そうではない場合が多いのではないだろうか
それでも人間は 分かってほしい人に受容されたいと願い
叶えられずに失望する。
なんて傲慢なんだろう。
理解してほしいという欲求は古典的な人間の欲求であると同時に
最も傲慢なことではないのか。
理解を求める、といろいろな所で「受容」を強制されそうになる現代
私たちが本当に受容しなければいけないことはなんだろう
本当に理解し、受容しなくてはならないのは
アンビバレントな自分自身ではないだろうか
相手に自分を受け止めてもらいたくて
まるで映画のパンフレットのように
自分自身の説明を付け加えたくなる
だけどそれはきっと
上記のように傲慢で身勝手なものなのだ。
私も時々やりそうになる。
だけどそんな事を 繰り返し 繰り返し
理解を求めるという行為を
ただの押し付けではなく 願いでもなく
分かり合えるという形を取ることができたら
きっとそれは政治の世界でも 私たち個人個人の小さなつながりでも
価値のあることではないでしょうか
自己満足に溺れずにいるためには
誰かに分かってもらいたいと思う
けれどもそれは何と傲慢で身勝手な思いだろうか。
すべてを打ち明けたら 言った本人は楽になれるかもしれない。
だけどその重さは打ち明けた相手に移動する。
そう
分かってもらいたい人と受け止められる人間というのは違うのだ。
時に人間というものは大きな間違いを犯す
分かってもらいたい人が受け止めてもらえる人だと
勘違いすることだ
だけどそれは違う きっと違う。
その思いはイコールであれば幸せなことだが
そうではない場合が多いのではないだろうか
それでも人間は 分かってほしい人に受容されたいと願い
叶えられずに失望する。
なんて傲慢なんだろう。
理解してほしいという欲求は古典的な人間の欲求であると同時に
最も傲慢なことではないのか。
理解を求める、といろいろな所で「受容」を強制されそうになる現代
私たちが本当に受容しなければいけないことはなんだろう
本当に理解し、受容しなくてはならないのは
アンビバレントな自分自身ではないだろうか
相手に自分を受け止めてもらいたくて
まるで映画のパンフレットのように
自分自身の説明を付け加えたくなる
だけどそれはきっと
上記のように傲慢で身勝手なものなのだ。
私も時々やりそうになる。
だけどそんな事を 繰り返し 繰り返し
理解を求めるという行為を
ただの押し付けではなく 願いでもなく
分かり合えるという形を取ることができたら
きっとそれは政治の世界でも 私たち個人個人の小さなつながりでも
価値のあることではないでしょうか
今日も経済の時間に、小泉改革により医療現場がどうなったか、を
DVDで見ていました。
小泉改革は、増えゆく医療費を抑えるために、長期入院の保険点数を
ばっさりと切り下げた。
日本は諸外国と比較し、在院日数が長いのだそうだ。
ゆえに、長期入院させると医療費がさらにかかるので
さっさと退院させて医療費を抑えましょうという方式にしました。
しかし、病院だって経営がかかっています
病院側が取った対応は、「保険点数が高いうちに他の病院に転院させる」
これを次々と繰り返していけば、常に病院は高い点数でたらい回せる。
そうやって病院は「生き延びる」しかないシステムになってしまいました。
だけど、一番大切な患者さんの存在は、もののように無視する存在になり
肝心の保険点数は、低くなりそうなら転院させるという裏ワザを生んだおかげで
ちっとも(その点だけに関しては)抑制にはなりません。
まさか、患者がたらい回されるとは、小泉さんも予想しなかっただろう。
甘い。甘すぎる。
安易な保険制度の改正は
生き延びるための裏ワザを生んで、患者に負担を強いるだけの仕組みに
なってしまうだけではないでしょうか
私は、痛みをたとえ伴ったものだとしても
それが「よい方向へ」私たちが目に見えるような改革の成果が得られていれば
必要な痛みだったと思えるのではないでしょうか
だけど今の日本の改革は 小手先の利益だけ追求し
何年先にどうなるかを 本当に考えられていないような気がしてならないのです。
医療費が毎年1兆円ずつ増えているといいます。
だけど、それはそんなに悪でしょうか。
確かに、目先だけ見れば日本にとって大きな支出でしょう。
だけど、その支出のおかげで世界に誇れる長寿大国になってはいませんか。
高度医療技術を駆使し、世界に誇れる日本の医療技術をもっていませんか。
そういった評価を得るためには、医療費という痛みが伴うのは
当然の結果とは考えないのでしょうか。
そして 人間の生活にかかわる直接的な所の国費を削ることは
大きな勘違いではないでしょうか。
今、麻生政権では
たった数万円をあげるから、消費税値上げを許してね、みたいな
子供だましのテクニックを私たちに行おうとしています。
たった1万円程度のばらまきで 消費が拡大するわけない。
だって1万円を「生活費」に回さなければならないほど私たちの生活は
困窮しているのだ。
その1万円を「医療費」に回さなければいけないような
そんな状況なのだ。
それをまったくわかってない。今、何の不自由もなく暮らしている
麻生さんだからこそ、
「1万円もらったー!ラッキー!なんか買おう!」
という発想になるだけであって
税金で毎年何万円も負担増になっている私(たち)にとって
1万円なんて、去年もってかれた税金の回収にもならない額なんですよ。
それなのに、小銭ばら撒いて税金無駄に使ってるとしか思えない。
そんなはした金いらないから
消費税率上昇を見送るとか
2兆円の予算を他に分配するとか
もっとましなことに使いましょうよ。
その1兆円だって、麻生さんのお金じゃないんですから。
もともと私たちの給与から天引いたお金でしょう?
どうしていつもいつも政治というのは国民を無視しているのだろう。
医療も教育も福祉も 日本は何一つ「お金持ちしか受けられない」制度
になってしまっているじゃないか。
現場の声を聞いたら けしてそんな決断はしないはずです。
日本の政治家は
何かを私たちから 奪い間違え
何かを私たちに 与え間違えている。
生活は どこへいったのでしょうか。
DVDで見ていました。
小泉改革は、増えゆく医療費を抑えるために、長期入院の保険点数を
ばっさりと切り下げた。
日本は諸外国と比較し、在院日数が長いのだそうだ。
ゆえに、長期入院させると医療費がさらにかかるので
さっさと退院させて医療費を抑えましょうという方式にしました。
しかし、病院だって経営がかかっています
病院側が取った対応は、「保険点数が高いうちに他の病院に転院させる」
これを次々と繰り返していけば、常に病院は高い点数でたらい回せる。
そうやって病院は「生き延びる」しかないシステムになってしまいました。
だけど、一番大切な患者さんの存在は、もののように無視する存在になり
肝心の保険点数は、低くなりそうなら転院させるという裏ワザを生んだおかげで
ちっとも(その点だけに関しては)抑制にはなりません。
まさか、患者がたらい回されるとは、小泉さんも予想しなかっただろう。
甘い。甘すぎる。
安易な保険制度の改正は
生き延びるための裏ワザを生んで、患者に負担を強いるだけの仕組みに
なってしまうだけではないでしょうか
私は、痛みをたとえ伴ったものだとしても
それが「よい方向へ」私たちが目に見えるような改革の成果が得られていれば
必要な痛みだったと思えるのではないでしょうか
だけど今の日本の改革は 小手先の利益だけ追求し
何年先にどうなるかを 本当に考えられていないような気がしてならないのです。
医療費が毎年1兆円ずつ増えているといいます。
だけど、それはそんなに悪でしょうか。
確かに、目先だけ見れば日本にとって大きな支出でしょう。
だけど、その支出のおかげで世界に誇れる長寿大国になってはいませんか。
高度医療技術を駆使し、世界に誇れる日本の医療技術をもっていませんか。
そういった評価を得るためには、医療費という痛みが伴うのは
当然の結果とは考えないのでしょうか。
そして 人間の生活にかかわる直接的な所の国費を削ることは
大きな勘違いではないでしょうか。
今、麻生政権では
たった数万円をあげるから、消費税値上げを許してね、みたいな
子供だましのテクニックを私たちに行おうとしています。
たった1万円程度のばらまきで 消費が拡大するわけない。
だって1万円を「生活費」に回さなければならないほど私たちの生活は
困窮しているのだ。
その1万円を「医療費」に回さなければいけないような
そんな状況なのだ。
それをまったくわかってない。今、何の不自由もなく暮らしている
麻生さんだからこそ、
「1万円もらったー!ラッキー!なんか買おう!」
という発想になるだけであって
税金で毎年何万円も負担増になっている私(たち)にとって
1万円なんて、去年もってかれた税金の回収にもならない額なんですよ。
それなのに、小銭ばら撒いて税金無駄に使ってるとしか思えない。
そんなはした金いらないから
消費税率上昇を見送るとか
2兆円の予算を他に分配するとか
もっとましなことに使いましょうよ。
その1兆円だって、麻生さんのお金じゃないんですから。
もともと私たちの給与から天引いたお金でしょう?
どうしていつもいつも政治というのは国民を無視しているのだろう。
医療も教育も福祉も 日本は何一つ「お金持ちしか受けられない」制度
になってしまっているじゃないか。
現場の声を聞いたら けしてそんな決断はしないはずです。
日本の政治家は
何かを私たちから 奪い間違え
何かを私たちに 与え間違えている。
生活は どこへいったのでしょうか。
先日ブログで書いた、医療と経済について。
私は一番北先生とこの話をしたかったので、北先生からの反論メールが
届いてうれしく思いました。(なかなか会う機会がないので)
この前は医療も自由競争を!という主張の先生の講義を受けた、という話を
書いたのですが、それに対する私なりの不安がある、ということを付け加えました。
自由化していいものと、悪いものがある。
私もそう思います。
研修医が自由に研修先を選べるようになりました。
これは、「自由」ですよね。
だけど、その自由は、局地に集中してしまった。
地方は自由選択の枠組みに入っていない地域、いわゆる「選択の眼中にない」地域と
化してしまいました。
それは研修先の病院だけではありません。
昔はストレート研修といって、目的の科に研修医として働き、専門的な知識を
早い段階から積み上げることが可能でした。
しかし、今はスーパーローテーション※が義務化されました。
中途半端に全科ローテする時間があったら、少しでも早く、専門的な知識を学びたいと
思う学生もいるだろう。
確かに一通りの知識は必要だが、今の医療は細分化・専門化が進み
分からない時は専門の先生にどんどん回していくではないか。
まわった先でその先のプロが診断してくれるのだ。
研修医が「毎日5時に帰れて、週休二日の科はどこですか?」と平気で医長に聞くように
なった今の時代。
自由化という大義名分で、人間の生活に必要な最低限の権利が
無くなっていくように思えて仕方がない。
つまり、私は「全国民に生活のすべてのことについて自由を行使させる」ことは
無理だと思うのです。
日本の国民が当たり前に保障されるべきもの、生活を守るもの、命を守るものについては
私も北先生の言うとおり、自由競争の原理を適用すべきではないと考えます。
医師を自由に選べる権利を、患者側に与えるのならば
医師は逆に、その「選べる権利」を守る側に立たなければならない。
教育もそう。自由競争で犠牲になるのは受ける側です。
平等とは、あらゆる「受ける側」への平等であり
与える側の自由と平等は、同じ視点て考えることはできないのではないでしょうか。
そこをごちゃまぜにしたことによって日本は
手が付けられないほど、修正がきかない制度が増えたのではないでしょうか。
税金が足りないから、国民負担を増やせばいいと
単純に考えるのかもしれません。
だけど、税金は毎年いくら無駄につかっているのでしょうか。
国民一人一人が血税を払い
日々の生活で節約を意識し、努力したって
国が億単位で無駄使いしたら、そんな努力は一気に水の泡なんですよ。
要するに
税金をいくら値上げしたところで、日本は根本的な無駄使いなどを必要経費とする
風潮があるためにいくら国民から税金を徴収したところで支出が増えるだけ。
家計簿の付け方知ってるか?と言いたい。
まあ、それはうちの大学にも言えるんですが
ちまちま研究室の電気を半分しか点灯しないとか、図書館の電気は6階以上は
点灯させないことにしたとか、無駄なんですよ。
そんなんで節約していくらになるというのだ。
そんな犠牲を払っても、上が何百万とか持ってったらあっという間に無駄。
私たちは無駄なお金を使わせるために節約を手伝っているわけではないのだ。
国家予算が何兆もあるために、一千万単位の支出は何とも思わない金額に
なってしまっているんじゃないだろうか。
その一千万は、いったいどうやって手に入れたお金なのか
全く考えたことがないように思えてなりません。
木を見て森を見ずとはまさにこのこと。
うちの大学の経済の先生はとても面白い講義をするのですが
時々納得いかない理論を展開することがあります。
たとえば
薬学部生の就職先で一番エリートは製薬会社の研究職!
一番給料がいい!
と、言っていたのですが
私が昔働いていた製薬会社では
土日も休みなく実験し、正月もない、しかも結果が出るまで残業(納期みたいなものありますからね)
そんな生活で給料も超大手ではなかったためにそれほど「超高給」ではなかったので
研究所やめて病院薬剤師になったり、薬局のパートになって
定期的な休みが取れる生活に転職した人いっぱいいます。
それに何より、今やっている実験が本当に薬になるのか分からない仕事
それが研究職なんですよ
抗がん剤の動物実験までやったら全滅したとか
フェーズ2までいって頓挫したとか
そういうことだってあるわけですよ(実際あった)
そしたら今までの自分の残業とか実験とか水の泡な気がするのは
きっと私だけじゃなくいろんな研究所員が思っていたことだろう。
それに研究費の分配もあるので、不毛な研究やってる研究員に
「いつまでパッチやってんだよ!もう諦めろ!」 とか
「また早産したの!? 薬きいてないじゃん!200万がパーだ」とか
そういうこと思う場面が多発するわけです。
自分のしたことが眼の前で実際に見ることができる仕事がしたい。
そう思う人が転職という道を選ぶのです。
間接的にではなく、直接患者さんとかかわりたい。
そういう思いは、医療関係者が根本的にもつものではないでしょうか。
それを一概に「みんなのあこがれは研究所!」みたいなくくられ方は
私はいかがなものかと。
かくいう私だって、飼育管理という根本的な雑用が嫌いで
研究職から逃げましたから。
学生からは
「えーーっ なんでぇえええ」
なんて言われますが、仕事なんて実際やってみないとその苦労なんてわかりません。
私はメーカーの研究所に勤務するのが夢だったので、最初に研究所配属が決まった時は
マイナーな研究所でもとてもうれしかったのですが
はっきりいって、やってみないと分かりません。
あこがれや夢だけじゃやっていけない現実がありますから。
話がそれまくりましたが
経済政策だってそう。理論だけじゃ分からない現実がある。
だけど、経済政策・医療政策という「政策」は
だめだったからすぐ止める、方向転換するということが
なかなか難しいようです。
その中には多大な国民の犠牲を払います。
やってみなきゃ分からない、といって小泉改革は始まりましたが
その改革の結果 貧富の差は増し 患者はタライ回しにされ
結局は新たな改革のために再び国民に犠牲を強いることになった。
いつまで国民は、政策の犠牲になればよいのでしょうか。
医療はビジネスだと考える人もいると思いますが
私は人の命を扱い仕事はビジネスでは割り切れないと思うのです。
いや、むしろ
ビジネス的な観点ばかりから改革したら
私たちの医療は守られないとさえ思うのです。
自由競争の波の中で、患者の命の足元をみるような
そんなアメリカのようになってはいけないと思うのです。
やってみたけどだめだった、というのが許されない分野というもの
が、世の中には存在していると思うのです。
日本はアメリカに倣え、という方式ですが
そのアメリカがはたして世界で一番幸せな国でしょうか
日本はアメリカに憧れすぎて
失敗を教訓に出来ないでいるのではないだろうか
もはやアメリカの失敗を失敗として認識できないほど
日本の政治家の病理は進行してしまっているのかもしれない。
日本国民は
どういうことが現実化されれば 豊かな国だと、過ごしやすい国だと
思うのでしょうか
税金が高くても、医療・福祉・国民の生活 そういったものがきっちり守られていれば
国民が納得できるお金の使い方をしていさえすれば文句は言わないはず。
だけど今の日本は違います
何も守られることなく、いやむしろ脅かされながら
それでもなお改革という名のもとに さらに税金負担を強いる
小泉元首相は言いました。
「改革には痛みを伴う」と。
だけど
こんなに痛みを伴うのに、何も変わらず、むしろ悪い方へ行っているのは
その政策が暗に 間違いだったと示唆しているのではないでしょうか
改革が足りないのではなく、それが間違ったことだったと
なぜ認められないのでしょうか。
自由競争のなかで神の見えざる手が働くというけれど
今のアメリカに、神の手はどこへ行ったのでしょうか
自由という名の下に競争を激化して
神様も怒ってしまったのでしょうか
そして私は 医療・福祉については 神さまの登場は望むべきではないと
そう考えます。
※スーパーローテ―ション(スーパーローテ):すべての科を数か月単位で回り、それから
自分の専門科へ研修へ行く制度。このスーパーローテを2年受けなければ保険診療ができない
私は一番北先生とこの話をしたかったので、北先生からの反論メールが
届いてうれしく思いました。(なかなか会う機会がないので)
この前は医療も自由競争を!という主張の先生の講義を受けた、という話を
書いたのですが、それに対する私なりの不安がある、ということを付け加えました。
自由化していいものと、悪いものがある。
私もそう思います。
研修医が自由に研修先を選べるようになりました。
これは、「自由」ですよね。
だけど、その自由は、局地に集中してしまった。
地方は自由選択の枠組みに入っていない地域、いわゆる「選択の眼中にない」地域と
化してしまいました。
それは研修先の病院だけではありません。
昔はストレート研修といって、目的の科に研修医として働き、専門的な知識を
早い段階から積み上げることが可能でした。
しかし、今はスーパーローテーション※が義務化されました。
中途半端に全科ローテする時間があったら、少しでも早く、専門的な知識を学びたいと
思う学生もいるだろう。
確かに一通りの知識は必要だが、今の医療は細分化・専門化が進み
分からない時は専門の先生にどんどん回していくではないか。
まわった先でその先のプロが診断してくれるのだ。
研修医が「毎日5時に帰れて、週休二日の科はどこですか?」と平気で医長に聞くように
なった今の時代。
自由化という大義名分で、人間の生活に必要な最低限の権利が
無くなっていくように思えて仕方がない。
つまり、私は「全国民に生活のすべてのことについて自由を行使させる」ことは
無理だと思うのです。
日本の国民が当たり前に保障されるべきもの、生活を守るもの、命を守るものについては
私も北先生の言うとおり、自由競争の原理を適用すべきではないと考えます。
医師を自由に選べる権利を、患者側に与えるのならば
医師は逆に、その「選べる権利」を守る側に立たなければならない。
教育もそう。自由競争で犠牲になるのは受ける側です。
平等とは、あらゆる「受ける側」への平等であり
与える側の自由と平等は、同じ視点て考えることはできないのではないでしょうか。
そこをごちゃまぜにしたことによって日本は
手が付けられないほど、修正がきかない制度が増えたのではないでしょうか。
税金が足りないから、国民負担を増やせばいいと
単純に考えるのかもしれません。
だけど、税金は毎年いくら無駄につかっているのでしょうか。
国民一人一人が血税を払い
日々の生活で節約を意識し、努力したって
国が億単位で無駄使いしたら、そんな努力は一気に水の泡なんですよ。
要するに
税金をいくら値上げしたところで、日本は根本的な無駄使いなどを必要経費とする
風潮があるためにいくら国民から税金を徴収したところで支出が増えるだけ。
家計簿の付け方知ってるか?と言いたい。
まあ、それはうちの大学にも言えるんですが
ちまちま研究室の電気を半分しか点灯しないとか、図書館の電気は6階以上は
点灯させないことにしたとか、無駄なんですよ。
そんなんで節約していくらになるというのだ。
そんな犠牲を払っても、上が何百万とか持ってったらあっという間に無駄。
私たちは無駄なお金を使わせるために節約を手伝っているわけではないのだ。
国家予算が何兆もあるために、一千万単位の支出は何とも思わない金額に
なってしまっているんじゃないだろうか。
その一千万は、いったいどうやって手に入れたお金なのか
全く考えたことがないように思えてなりません。
木を見て森を見ずとはまさにこのこと。
うちの大学の経済の先生はとても面白い講義をするのですが
時々納得いかない理論を展開することがあります。
たとえば
薬学部生の就職先で一番エリートは製薬会社の研究職!
一番給料がいい!
と、言っていたのですが
私が昔働いていた製薬会社では
土日も休みなく実験し、正月もない、しかも結果が出るまで残業(納期みたいなものありますからね)
そんな生活で給料も超大手ではなかったためにそれほど「超高給」ではなかったので
研究所やめて病院薬剤師になったり、薬局のパートになって
定期的な休みが取れる生活に転職した人いっぱいいます。
それに何より、今やっている実験が本当に薬になるのか分からない仕事
それが研究職なんですよ
抗がん剤の動物実験までやったら全滅したとか
フェーズ2までいって頓挫したとか
そういうことだってあるわけですよ(実際あった)
そしたら今までの自分の残業とか実験とか水の泡な気がするのは
きっと私だけじゃなくいろんな研究所員が思っていたことだろう。
それに研究費の分配もあるので、不毛な研究やってる研究員に
「いつまでパッチやってんだよ!もう諦めろ!」 とか
「また早産したの!? 薬きいてないじゃん!200万がパーだ」とか
そういうこと思う場面が多発するわけです。
自分のしたことが眼の前で実際に見ることができる仕事がしたい。
そう思う人が転職という道を選ぶのです。
間接的にではなく、直接患者さんとかかわりたい。
そういう思いは、医療関係者が根本的にもつものではないでしょうか。
それを一概に「みんなのあこがれは研究所!」みたいなくくられ方は
私はいかがなものかと。
かくいう私だって、飼育管理という根本的な雑用が嫌いで
研究職から逃げましたから。
学生からは
「えーーっ なんでぇえええ」
なんて言われますが、仕事なんて実際やってみないとその苦労なんてわかりません。
私はメーカーの研究所に勤務するのが夢だったので、最初に研究所配属が決まった時は
マイナーな研究所でもとてもうれしかったのですが
はっきりいって、やってみないと分かりません。
あこがれや夢だけじゃやっていけない現実がありますから。
話がそれまくりましたが
経済政策だってそう。理論だけじゃ分からない現実がある。
だけど、経済政策・医療政策という「政策」は
だめだったからすぐ止める、方向転換するということが
なかなか難しいようです。
その中には多大な国民の犠牲を払います。
やってみなきゃ分からない、といって小泉改革は始まりましたが
その改革の結果 貧富の差は増し 患者はタライ回しにされ
結局は新たな改革のために再び国民に犠牲を強いることになった。
いつまで国民は、政策の犠牲になればよいのでしょうか。
医療はビジネスだと考える人もいると思いますが
私は人の命を扱い仕事はビジネスでは割り切れないと思うのです。
いや、むしろ
ビジネス的な観点ばかりから改革したら
私たちの医療は守られないとさえ思うのです。
自由競争の波の中で、患者の命の足元をみるような
そんなアメリカのようになってはいけないと思うのです。
やってみたけどだめだった、というのが許されない分野というもの
が、世の中には存在していると思うのです。
日本はアメリカに倣え、という方式ですが
そのアメリカがはたして世界で一番幸せな国でしょうか
日本はアメリカに憧れすぎて
失敗を教訓に出来ないでいるのではないだろうか
もはやアメリカの失敗を失敗として認識できないほど
日本の政治家の病理は進行してしまっているのかもしれない。
日本国民は
どういうことが現実化されれば 豊かな国だと、過ごしやすい国だと
思うのでしょうか
税金が高くても、医療・福祉・国民の生活 そういったものがきっちり守られていれば
国民が納得できるお金の使い方をしていさえすれば文句は言わないはず。
だけど今の日本は違います
何も守られることなく、いやむしろ脅かされながら
それでもなお改革という名のもとに さらに税金負担を強いる
小泉元首相は言いました。
「改革には痛みを伴う」と。
だけど
こんなに痛みを伴うのに、何も変わらず、むしろ悪い方へ行っているのは
その政策が暗に 間違いだったと示唆しているのではないでしょうか
改革が足りないのではなく、それが間違ったことだったと
なぜ認められないのでしょうか。
自由競争のなかで神の見えざる手が働くというけれど
今のアメリカに、神の手はどこへ行ったのでしょうか
自由という名の下に競争を激化して
神様も怒ってしまったのでしょうか
そして私は 医療・福祉については 神さまの登場は望むべきではないと
そう考えます。
※スーパーローテ―ション(スーパーローテ):すべての科を数か月単位で回り、それから
自分の専門科へ研修へ行く制度。このスーパーローテを2年受けなければ保険診療ができない
今日の大学の講義は、選択科目の「医療と経済」。
迫力とメリハリのある講義をする教官なので、毎回楽しく講義を
聞いています。(教科書盗まれた・・医療系大学で窃盗ってどうなんでしょう)
医療と経済、という科目は、今の医療システムを経済面から検証し
問題点や今後の課題などを考えていく科目です。
講義の中で、「経済学者は医師が嫌い」という話をよくします。
日本の医療は診療点数という、国が決めた診療報酬で定められています。
つまり、競争の原理のない、社会主義だというのです。
確かに、私が今働いている精神科でもそうです。
どんなによい治療を提供する医師も、テキトーに1分で診察終わらせて
「あ、かわりないね?じゃ薬同じのだしとくから。じゃ2週間後ね」
なんて風に患者をさばいて、空いた時間のんびり海外旅行している医師だって
結局同じ給料が国から支払われるわけです。(あくまで開業医の場合)
確かに、医療関係者として、学生として、一国民として
この部分だけを見ると納得がいかない。
患者一人一人に時間をかけて診察し
結果的に一日の患者数が少ない医師の給与は低くなり
テキトーに患者の目も見ずに「かわりないね?」なんていって
一日何十人、百人単位でさばく医師の報酬はどーんと跳ね上がる。
確かにおかしい。何かがおかしい。
医師には患者として、誰もが「丁寧に、時間をかけた診療」をしてほしいはず。
だけど、日本の保険点数制度がそれを許していない。
そんな気がするのです。
患者に時間をかけなければかけないほど、収入が入るなら
医療ミスも増えるだろうし(じっくり見なければ分からないことに気付かない)
テキトーに流し診察が増えるのも事実だろう。
「真面目にやっている人間が馬鹿を見る社会は、経済の観点からみたらありえない」
と言います。私もそう思います。
だけどもし、これが経済学者がいうように
競争の原理を導入したらどうなるのだろうという不安は
かならず付きまとうのではないかと思います
今まで私たちは、あたり前のように診療報酬を支払い
どこに行っても、どんなえらいお医者さんでも、同じ料金で治療が受けられること
それを限りなく「いい方へ」と解釈してきた
だけど今そんな医療制度は崩壊しようとしている。
医師を釣るのは「診療報酬」しかない、と経済の先生は言う。
何かをやってもらうためには、診療報酬を加算するしか
日本では方法がないのだそうだ。
医師は花形職業で
今までは倫理感や使命感に燃える、「お医者さま」が多かったように思う。
だけど時代は移り代わって、その子供、さらに子供、と
まるで世襲制のようになってきているふしも見受けられる。
自分の経験や能力に関係なく、ベテラン医師と同じ扱いが、点数上では受けられる。
それにつられて、ただ単に地位と名誉とお金ほしさに医学部を目指すものや
ただ単に、高度経済成長のなごりで
花形職業=医師 勉強ができる=医学部
というようにレールを敷かれる人もいるだろう。
話がそれましたが
医師ははっきり言って、真面目にやったらとてつもない重労働で、責任と、重圧
そして医師という使命感がなければ勤まらない仕事だと思うのです(真面目にやればだが)
そしてその医師のひよこの研修医たちは、報酬と待遇だけで研修先を選ぶようになってきた。
いくら地方で金を積んだって 地方というだけで嫌煙される。
私の地元の病院でも、「うに御飯が毎日食べられます」だとか
そういうどうでもいいようなことで医師を釣っているけれど
根本的な問題はそこじゃないだろうと言いたい。
私は医療改革は失敗だったと思う。
いや、はじめから日本の医療制度は間違った方向目指して進んできたのかもしれない。
マイナー科に対するいじめや、メジャー科に対する手厚い報酬制度もそう。
レセプトだって、どんなに理不尽に切られたって、意義申し立てもできやしない。
(全部が全部そうではないですが、たいていは無駄です)
なぜ医療は崩壊したのでしょうか。
どうして絶対につぶれない三種の神器の一つのような
病院が経営破たんするのでしょうか
それはやはり、私は診療報酬の点数制度だと思います
とにかく患者をベルトコンベア式にさばかないと成り立たない
そして医療関係者の給料高すぎ。
このところどーもうちのクリニックで医師募集出しても
この間国試受かったばかりのぴよぴよなのに
「月90万」とかぬかすんですよ。(マジで)
お前経験ないのにそんなに偉いのかよ!みたいな・・・
薬や症状や対処なら、うちのスタッフの方が医師免許なくとも知ってるわ、って
本気でそう思うこともあります
あとは精神科医募集って言ってるのに、産科のうつを勉強したいからと言って
応募してくる勘違い他科医。
どーせそのうちいなくなる、というような、精神科医でも何でもない医師に
PTSDの患者が長丁場でこの先生に心を開こう!と思うわけがないのに・・・
日本の医療費が高いというけれど
別に高くたっていいじゃないの
高い=高度医療 っていう仕組みにしたのは国です
今更高度医療を行って「医療費高い」って言うのはおかしいと思うのですよ
だって自分が決めた値段でしょう?と言いたい。
それに、ちまちま患者一人一人が受診控えたり、安いジェネリックにしたりしたって
難病の患者が一人大手術なんかしたら、その分水の泡なんですよ。
意味がない。
日本の方向性って
誰がいつ「間違いだ!」って高らかに宣言して
修正してくれるんでしょうね
税金だってちっとも安くなんかないのに。
迫力とメリハリのある講義をする教官なので、毎回楽しく講義を
聞いています。(教科書盗まれた・・医療系大学で窃盗ってどうなんでしょう)
医療と経済、という科目は、今の医療システムを経済面から検証し
問題点や今後の課題などを考えていく科目です。
講義の中で、「経済学者は医師が嫌い」という話をよくします。
日本の医療は診療点数という、国が決めた診療報酬で定められています。
つまり、競争の原理のない、社会主義だというのです。
確かに、私が今働いている精神科でもそうです。
どんなによい治療を提供する医師も、テキトーに1分で診察終わらせて
「あ、かわりないね?じゃ薬同じのだしとくから。じゃ2週間後ね」
なんて風に患者をさばいて、空いた時間のんびり海外旅行している医師だって
結局同じ給料が国から支払われるわけです。(あくまで開業医の場合)
確かに、医療関係者として、学生として、一国民として
この部分だけを見ると納得がいかない。
患者一人一人に時間をかけて診察し
結果的に一日の患者数が少ない医師の給与は低くなり
テキトーに患者の目も見ずに「かわりないね?」なんていって
一日何十人、百人単位でさばく医師の報酬はどーんと跳ね上がる。
確かにおかしい。何かがおかしい。
医師には患者として、誰もが「丁寧に、時間をかけた診療」をしてほしいはず。
だけど、日本の保険点数制度がそれを許していない。
そんな気がするのです。
患者に時間をかけなければかけないほど、収入が入るなら
医療ミスも増えるだろうし(じっくり見なければ分からないことに気付かない)
テキトーに流し診察が増えるのも事実だろう。
「真面目にやっている人間が馬鹿を見る社会は、経済の観点からみたらありえない」
と言います。私もそう思います。
だけどもし、これが経済学者がいうように
競争の原理を導入したらどうなるのだろうという不安は
かならず付きまとうのではないかと思います
今まで私たちは、あたり前のように診療報酬を支払い
どこに行っても、どんなえらいお医者さんでも、同じ料金で治療が受けられること
それを限りなく「いい方へ」と解釈してきた
だけど今そんな医療制度は崩壊しようとしている。
医師を釣るのは「診療報酬」しかない、と経済の先生は言う。
何かをやってもらうためには、診療報酬を加算するしか
日本では方法がないのだそうだ。
医師は花形職業で
今までは倫理感や使命感に燃える、「お医者さま」が多かったように思う。
だけど時代は移り代わって、その子供、さらに子供、と
まるで世襲制のようになってきているふしも見受けられる。
自分の経験や能力に関係なく、ベテラン医師と同じ扱いが、点数上では受けられる。
それにつられて、ただ単に地位と名誉とお金ほしさに医学部を目指すものや
ただ単に、高度経済成長のなごりで
花形職業=医師 勉強ができる=医学部
というようにレールを敷かれる人もいるだろう。
話がそれましたが
医師ははっきり言って、真面目にやったらとてつもない重労働で、責任と、重圧
そして医師という使命感がなければ勤まらない仕事だと思うのです(真面目にやればだが)
そしてその医師のひよこの研修医たちは、報酬と待遇だけで研修先を選ぶようになってきた。
いくら地方で金を積んだって 地方というだけで嫌煙される。
私の地元の病院でも、「うに御飯が毎日食べられます」だとか
そういうどうでもいいようなことで医師を釣っているけれど
根本的な問題はそこじゃないだろうと言いたい。
私は医療改革は失敗だったと思う。
いや、はじめから日本の医療制度は間違った方向目指して進んできたのかもしれない。
マイナー科に対するいじめや、メジャー科に対する手厚い報酬制度もそう。
レセプトだって、どんなに理不尽に切られたって、意義申し立てもできやしない。
(全部が全部そうではないですが、たいていは無駄です)
なぜ医療は崩壊したのでしょうか。
どうして絶対につぶれない三種の神器の一つのような
病院が経営破たんするのでしょうか
それはやはり、私は診療報酬の点数制度だと思います
とにかく患者をベルトコンベア式にさばかないと成り立たない
そして医療関係者の給料高すぎ。
このところどーもうちのクリニックで医師募集出しても
この間国試受かったばかりのぴよぴよなのに
「月90万」とかぬかすんですよ。(マジで)
お前経験ないのにそんなに偉いのかよ!みたいな・・・
薬や症状や対処なら、うちのスタッフの方が医師免許なくとも知ってるわ、って
本気でそう思うこともあります
あとは精神科医募集って言ってるのに、産科のうつを勉強したいからと言って
応募してくる勘違い他科医。
どーせそのうちいなくなる、というような、精神科医でも何でもない医師に
PTSDの患者が長丁場でこの先生に心を開こう!と思うわけがないのに・・・
日本の医療費が高いというけれど
別に高くたっていいじゃないの
高い=高度医療 っていう仕組みにしたのは国です
今更高度医療を行って「医療費高い」って言うのはおかしいと思うのですよ
だって自分が決めた値段でしょう?と言いたい。
それに、ちまちま患者一人一人が受診控えたり、安いジェネリックにしたりしたって
難病の患者が一人大手術なんかしたら、その分水の泡なんですよ。
意味がない。
日本の方向性って
誰がいつ「間違いだ!」って高らかに宣言して
修正してくれるんでしょうね
税金だってちっとも安くなんかないのに。