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ことばは矢のように、あなたのこころに突き刺さる。 あやふやで不安になることばも その傷が癒えることばも。
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あんまりだ。
何があんまりだって
精神疾患に対する周りの対応だ。
よってたかって精神疾患を否定しようとする。
認めようとしない。
ただ、治療が遅れるだけではないか。

精神疾患だって、人間の病気の一つ。
治療すれば、治る。
なのによってたかって
「病気じゃない」
「心の問題」
「根性で治る」
「気持ちの持ちよう」
の、連発。

どうして?
不思議でならない。
精神疾患=一生治らないとでも思っているのだろうか。
それとも、精神疾患は性格と同義語でしょうか。
だったら医療に「精神科」なんて存在してない。

電車の中で

「どうしてそんなに彼女を病気にしたいんですか?」
「病気の定義って何ですか?」

というので、摂食障害の定義を話してみた。
すると、

「もとさんが、無理やりそれに当てはめてるだけじゃないですか?」
「彼女は前からああですよ」
「私、学校以外の彼女も知ってますし、もとさんより長く過ごしてます」

だから何だっていうんだ。
病気なのに病気じゃないって思いたい理由がわからない。
治療すれば治るのに、どうして他の科の病気のように
扱えないのだろう。
まるで、精神疾患になることが、悪いことのように。
普通の病気と一緒で、特別なものじゃないと思うのに。
その凝り固まった偏見はなんだ。
病気の人に、きちんと治療を受けさせてあげないでどうする。
目の前で、その病気で苦しんでいるのに
どうして病人として認めてあげないのだろう
どうしてそんなにも、治療に反対するのだろう。
目の前で、その病気で苦しんでいる人がいるというのに。

特に、鑑別診断について
「無理やり当てはめてるだけじゃないですか?」
と言われたことに、カチン!と来た。

病気のどこが悪い?
治療することの何が悪い?
苦しんでいる彼女を
「病気じゃない!」と発破をかけることが
余計に本人を苦しめていることに
どうして気付かないのだろう。
治療して治る、普通の病気と一緒なのに。
どうしてそんなに薬を否定するのだろう。

摂食障害の人に対して
「食べれば元気になる」だとか
「薬なんかよりもカウンセリング」
なんて。

うるさいっ!

素人黙ってろ!!

と、心の中で叫んでしまったわ。

結局、口では否定していてもその人には
精神疾患は不治の病みたいなもので
しかもそれは、頭のおかしい人というレッテルに
なってるんでしょうね。
一番偏見を持っているのは、その人自身だ。

糖尿病や高血圧は
診断を受ける前から
「怪しいんじゃないの?」
「詳しく医師に診てもらったら?」
なんて簡単に言うのに
どうして精神疾患は

「違うよ!精神科じゃないよ!」
「病院なんか行かなくても話すれば治るよ!」

というのだろう・・・・

この偏見っぷりに腹が立つわ。

カウンセリングなんて
簡単に言わないでほしいです。
カウンセリングできるほどの心の体力がなければ
意味がないし
まともなカウンセラーにつかなければ
ただお金と、心がすり減るだけ。
日本にまともなカウンセラーなんて
ほんの少ししか実はいないんです。
臨床心理士だからってまともなカウンセリングできるかといえば
決してそうじゃない
ただ学問や理論に詳しいだけで
現場の患者が本の通りに行かなくて
あたふたしている心理士が、日本に掃いて捨てるほどいるんです。

カウンセリングはただ話をうんうん聞いてるだけじゃない。
それならロボットでいい。
ただ、クライアントに喋らせるだけなら
何の意味もない。
でも、素人はそれが薬よりも効くと勘違いしている。
カウンセリングは精神科治療の印籠みたいなもので
これで何でも治ると思っている。
薬がなくてもカウンセリングで治るとかね。

身体症状のない神経症レベルなら
それでもいいでしょう
薬なんか飲むレベルじゃないなら。
精神病圏の患者に対して
カウンセリングのほうがいいとか
カウンセリングを万能視してませんか。
そしてカウンセリグで話を聞いてあげればいいと
思ってませんか。

話聞いてるだけで症状治るなら
精神科医が消滅してるでしょうね。
みんなすごいことになってるでしょうね。
ほんと。

判ったふりをして
親切のふりをして
実は精神疾患の患者に
偏見を持っているのは自分ではないですか
苦しみを共感しているふりをして
実はその苦しみは単に
性格の問題だと受け止めていませんか
そして苦しんでいる人を
治療から遠ざけ
苦しむ期間を延長させていませんか

私が
「素人引っこんでろ!(怒)」と思った、と
私の指導医に話したら笑ってました

日本人は精神疾患を安易に考えすぎる
誰でもなって、簡単に治るような
病気だけど気持ちの問題だとか
病気のカテゴリーに入れてくれていない。
だけど、性格の問題というほうが
精神疾患のレッテルを張るよりどれだけ残酷か
考えたこともないでしょうね
病気だったら治療することで苦しさから
解放される可能性が出てくるのに
性格だ、ということなら
一生付き合っていかなくてはならない。
治る治らないの問題ではなくなってしまう。
明らかにそっちのほうが苦しくないですか。

精神は脳の記憶と体が核融合のように反応して起こる
れっきとした病気なんだと
声を大にして言いたい

カウンセリング安易に勧めず
精神科の薬を安易に敵対視するべからず






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どうしてこんなにも精神疾患に偏見のある世界に
なってしまったのだろう。

どうして精神疾患を内科に回そうとするのだろう。
まったく違う科なのに
体裁が悪いとか、響きが悪いとか
そういうどうでもいい理由で
専門科へ回そうとしないのだろう
そしてどうして
精神疾患を治療する薬に
ここまで否定的に考えるのだろう。

飲んだら一生飲み続けるとか
薬漬けになるとか
薬を飲むことで悪化するとか

そうやって今まできちんとした
薬物療法を行うことをしないで
目の前の症状だけに目を奪われた
一部の医師のしたことが
どうしてこんなにも
日本中に薬物療法に対する偏見を
作ってしまったのだろう。

精神科は、そんなにも恐ろしいところですか。

そんなにも、自分たちとは違う人が
行くところでしょうか。

精神は見えないから
いつ治るかも、原因もはっきりとは
目に見える形で「これです」と
指さすことができない。
だからと言って
それがすべて本人の性格の問題でしょうか?
本人の気持ちの問題でしょうか。
心の持ちようで何とかなるものでしょうか。

日本人に根付いた
精神科=気がおかしい人が行くところ
という偏見が無くならなければ
自殺なんか減りません。
正しい知識がないまま、精神科というものを
恐れてはいませんか。

精神疾患を
こころの病気だと、心だけの問題にして
「だから薬ではどうにもならない」と
決めつけてはいませんか。

精神=心のことだと
勘違いをしていませんか。

そしてわけもわからず
ただ、腫れものに触るように
接していればいいと思っていませんか。

そのどれもが間違いです

精神疾患は病気です
原因があります
きまった病態生理があります
そして一定の経過をたどって治っていきます
普通の病気と、どこが違うというのでしょうか。
専門科に任せない意味が
どこにあるというのでしょうか。

それこそが
苦しんでいる本人を治療から遠ざけ
治癒から遠ざけるような関わりであるということに
周囲が気づかなければ
精神疾患が放置され、悪化するような関わりしか
生まないのではないでしょうか。


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大学の友達の一人が摂食障害になった。
食べることへの葛藤が処理できないので
目の前にある食べ物に対して
食べずにいられない。
そこまでなら何とかなるのだが
摂食障害が摂食障害たるところが

食べたものが汚いもののように感じられて
一刻も早く吐き出したくなる、ということ。

普通ならば、汚いものは食べないですよね。
だけど、汚いものに変わって吐き出す、と
分かっていても食べることがやめられない。
食べずにいられない。
体の中で、たとえそれが汚物になろうとも。

摂食障害特有の、食べ物に関する認知の歪みは
最初からカウンセリグでどうこう、
という話では なくなってくる。
歪んだ認知でいくらカウンセリングしたって
無駄なのだ。

摂食障害に対する正しい知識がないと
食べた物を吐き出してしまう人を見て

「栄養が取れないから少しでも食べたら」
「吐き気止めあげるから」
「少しずつ食べれば大丈夫じゃない?」
「食べられる物を食べればいいんじゃない?」

などと、どうしても
「食べさせよう」という方向に動こうとする。

しかし、これは大きな間違い。
食べ物が汚物に思えるうちは
食べない方がいいのだ。

汚物に変わる食べ物と考えてみてください。
それでもあなたは

「少しずつ食べろ」
「吐き気止めで吐き気を抑えて食べろ」

と、言えますか。
むしろ、汚物になる食べものならば
「食べるな」というのが普通だろう。
それが正しい認知というものだ。

しかし、摂食障害についての正しい知識がない人は
とにかく「食べさせればいい」と思ってしまう。
食べることへの葛藤や、食べることが本人にとって
どういう結果や認知を生むかを考えることができないのだ。

私の友達の周囲の人間もそうだ。
友達や先生も、どうにかして食べさせようとする。
食べられないのが「心の問題」ではなくて
別のところに問題がある(たとえば、空腹の度を
超えてから食べるからだ、など)と考える。
そうして今日も食べろ、という。
栄養つけないとだめだという。

そして彼女は今日も汚物になると分かりつつも
口に詰め込む。そしてすべてを吐き出す。
周囲が心配して「食べないとだめだよ」などという。
彼女の中では「汚物でも吐かずに飲み込まなきゃだめ」と
言われているのと同じことなのだ。
(そこが意識できているか分からないけど)

そんな中
その友達が今日は特大おにぎり2個を食べようとしていた。
私が「一個にしといた方がいいよ」と言うと

「二つ食べたい」

というので

「吐くんだったら食べないほうがいい」
(つまり、汚物に思えるくらいなら口に入れない方がまし)

と言うと
「えっ、1個にしたほうがいいですか?」と聞き返してくるので

「うん。というかむしろ食べないほうがいい。」と返すと
一斉に周囲から非難ごうごうなまなざしが痛い。

一見、食べられない人にさらに「食べるな」というのは
極悪非道みたいな感じに思えますが
たとえ汚物でも食べるように勧めるのと
汚物ならむしろ食いたくても食うなという方と
いったいどっちが治療的なのか。
いったいどっちが当たり前の認知なのか。
しかし、そんなことは今、
私の目の前にいる先生や友達には
全く理解されない。
私だけが非道なことを言っている人間になってしまっている。


精神疾患の大半は
周囲の手の差し伸べ方が間違っているのです。
ほとんどが、正しい精神疾患に対する知識のなさと
固定観念のせいです。

治療的、という言葉をご存知でしょうか。
たとえ今、目の前にいる本人が苦しくても
目の前の苦しさに目を奪われて手を差し伸べるのではなく
もっとその先にある、「治る」というゴールに向けて
どの方法が一番そのゴールに早く近づけるのかを考えて
手をひっこめたり、差し伸べたり、何かを奪ったり
何かを与えたりするのです。
それが「治療的」というものです。

だから私が、吐き出してしまうその人に向けて言った

「むしろ食うな。 食べなくていい」

という言葉は、ぱっと見とても非道な言葉に聞こえる
かもしれません。

しかし、治療的かどうかといったら
首を縦に振る言葉であることは、間違いないのです。

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頭脳と体が

ばらばらに動いているような。

そんな日々。

いったいどれだけ私は

自分を騙しているのだろうか



頭で考えていることと

動く体。 

私はその二つを持っている

けれど心はいったい

どちらに置いてきたのだろう。



気持と体の動きは別々だ。

いくら辛くても、体はそうは反応しない。



こころはどこへ置いてきたのだろう



記憶の中の青い森か

それとも、こちらにあるのか。



とにかくそんな日々を過ごしている。

何もなかったかのように、本当の私の思いや姿は

平気な仮面の下に隠れてしまう。

そしてそんな自分を罰してしまいたくなる。

中身のない人間だ、と。


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少しずつ
めーさんに会いながら
私は私の心の整理を始めている。
いつもどおり変わらない、めーさんとのスタンス。
だけど私の中では、着実に何かの準備が始まっている。
めーさんを、嫌いになるわけではないし
かといって何かが激変することもないけれど
確実に、何かが変わる前触れのような気がしている。
めーさんと話が出来るようにもなってきた。
やっぱり何かが違うんだ、と意識できている。
だけどバス停でつい見つめちゃうんだよね。
キレイだなー、って。


私を登記簿からはずす手続きが
着々と進み始めたようです
昨日は税理士さんと打ち合わせ。
私は参加しなかったけれど
大学にいたら「税理士さんはもとの味方だよ」と
メールが来ました。
なんで味方してくれるんだろ。

よく考えたら
私の知っている私は
性格もあまりよくなく
人に自慢できることも無いくせに
ただ、負けず嫌いで
誰にも共感されず
人との関わりがひどく苦手で
大丈夫な人は危うい糸で大丈夫なのだけど
心を閉ざしたらとことん閉ざし
私のこころに触らないでほしくなる。

そんな人間なのに
友達がいること(勝手に友達だと思っているだけかも)
話しができる、鈴先生や所長がいること
離れていても、絶大な信頼を寄せる北先生や
そして何も知らない振りして実はたぶん
少しは気にしてくれているめーさん
味方になってくれる税理士さん
慕ってくれる後輩や
私を星だと言ってくれる故郷の友人
沢山の人に、支えてもらっている。

私は一人では立てない人間なのかもしれない。

ソロ・テントを張り
雪山で遭難しそうになっている私を
必ず誰かが見つけてくれる。
見つけてくれなくても
旗を立てれば、その旗を
誰かが見つけてくれる。

実は、一人ぼっちで悲しくて
どうしようもなくダメ人間の私でも
SOSだけは、いっぱしに発しているのかもしれない。
いくら笑っていようとも
どんなに平気な顔していようとも
きっと私の体には、自分には見えない血が
だらだらと流れているのかもしれない。

判り合える、なんてきれいごとだ
判り合わなくたって
判りたいと思う、その気持ちがあればいいんだ

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一体何を怯える必要があるのだろうか


まるで何も無かったかのように
まるで何もかもが初めてかのように
ただ、黙ってそこで笑っていれば
それで済む話ではないか


人間は残酷だ。
自分の記憶から失われたとしても
他人に残した記憶は海溝のように深く鋭く心を抉る。
傷痕を背負って生きるのが辛いのではなく
傷痕を忘れてしまうことが怖いのだ

その存在の意味を
失ってしまうのが。

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私は完璧な人間ではないし
完璧な人間になれるわけもないと思う
だけどどうしてか
いろんなことを完璧にしたいと思うし
完璧で無敵でありたいと
ありえないことを思ってしまうし
そこに向けて努力してしまう

それは不毛な努力のこともあるし
自分の無力感や無能感だけが
心に突き刺さることもある
というより
そのことばかりが多いのかもしれない。
完璧に向けて努力したって
誰が褒めてくれるわけでも
認めてくれるわけでもないのに。

薬理の試験なんかもそう。
大きな減点をするくらいであれば
それなりの理由があったと思う。
大きな勘違いとか、書き間違い、思い違い。
自分は完璧な人間ではないから
そういうところでミスをする可能性だって
いくらでもある。

だけど悔しいのよ
悔しくて仕方ない。
そんな自分が。

その悔しさを私は
最初は外に向けようとする
だけど本当はわかってるんだよ
自分に、原因があるってこと


めーさんのところに
助手が配属されたそう。
ああ、どうしよう
これ以上人が増えたら
人に合わせようとがんばる私が
手に負えないほどの人数の関わりになってしまう
私が私であるために
私は本当は
そこから立ち去ったりする勇気が必要なのに
めーさんが大好きで
そこから立ち去ることが今の私にはできない。
自分を蝕むことで
めーさんのそばにいても
めーさんに嫌な自分を見せてしまうだけだと
判っているのに
ただ、見ていたい
見ていられるところに居たい。
胸が痛くても。


居たいけど痛い
その痛みは私をこの先
どれだけ蝕んでいくのだろうか

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私は
私の過去や今までの人生において
起こった出来事について
それに対して
「こういうことがあった私だから」と
何か、こう

優しくしてほしいとか
気にかけていてほしいとか
何か声をかけてほしいとか
助けてほしいとか
救ってほしいとか

そういった何かを求める時代は
もう終わったのだと思う。
今はそんなことは求めていない。
そういった分かりやすい援助を求める時代は
私の中ではとっくにもう終わっている。

ただ、自分の好きな人には
知っていてもらいたいなとは思う。
でもたったそれだけのことが
十分すぎるほどの要求と傲慢さで
それ以上何を相手に望めるというのか。

話さないことと
隠していることは違う。
隠していることと
嘘を付いていることは違う。

だけど
過去を知った時に
嘘を付いていたとか 
黙っていたとか
汚らわしいとか
そういった偏見や誤解を持たれるくらいなら
そうやって今の私を見てはくれないのなら
私は過去を知ってから今の私を
見てほしいと思う

無かったことにはできない。

今日という日は
突然登場したのではなく
生まれた時から少しずつの積み重ねで
今日という日を作っている
だけど私は過去だけが
今の私を作っているとは思いたくない。

過去はあってもそのせいで私の根っこは
きっと腐ってはいない。

私は自分の過去も、今も未来も
大事にできるような人間になりたい。
そして今私の周りにいる
私に関わっている人たちを
大事にできる人間になりたい。
そうしたらいつかめーさんの言うように
「自分の家族が大事」と素直に思えるようになるだろう。


自分が自分を知るということは今でも難しい


それでも私は今は
命のスイッチが切れるまで生き続ける義務があるし
私は私の知らない私を知り続けて行かなくてはならない。
そこですごく辛いことがあったとしても
今まで死なずに生きてこれたのだから
生きて、生きて、生きまくらないといけないのだ。


過去ゆえに弱いところは確かにあるかもしれない。

だけど過去ゆえに強く生きるところもあると思うのだ。

それをめーさんに、判ってもらいたかった。

全てを知ってもらう必要などないし
全てを知って欲しいとも思わない。
全部知ることなど、きっと何の意味も無い。
ただ単に傲慢なだけだ。

だからどうしたらいいかな
どうしたら伝わりますか

つまずいた石の色を

裏切った胸のつかえを

忘れられない言葉を

忘れたい長い夜を

やりきれない思いを

飲み込めない悲しみを

それでも生きてく力を

越えられる可能性を


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あとどのくらい泣いたら
私の涙は涸れるのでしょうか

言葉よりも先に
涙を覚えた心は
悲しむより先に
生きること、明日に立ち向かうことを知る

あとどのくらい泣いたら
私は大人になれるのでしょうか
そして心は
あとどのくらいで
私の体に追い付くのだろう

あとどのくらい泣けば
涙は涸れてしまうのですか。

あとどのくらい
私は大人にならなくてはならないのでしょうか
空白の日々を埋めることが
こんなにも辛いことだとは思わなかった

どれだけ歩いたら 私は
よく歩いたと認めてもらえるのだろうか

あとどのくらい

あとどのくらい泣いたら

もう、泣かずにいられるのだろうか

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この気持ちが
嘘であって欲しい

あなたを好きな気持ちが
嘘であってほしい
ほんの一瞬だけで
この気持ちはすぐに
消えてしまうと信じたい。

どうして人を好きになってしまうんだろう
ただただ、今辛くなるだけなのに
明日など、来るはずもないのに。


大きな手

大好きな手。


全部全部
嘘であって欲しいのに。
傍にいるだけで

悲しくなる。

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言葉が出ないときは
無理に出さないので
ごめんなさいね
言葉は生きていて
私に水がない時は
生きた言葉が生まれてきても
そう長くは私の中で
生きていないのです

ごめんなさいね

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医療事務チームミーティングで
保険請求の報告もあるのですが
今月どうしても納得できなかった査定があります

時々納得いかない査定があるのですが
大体が原因がわかるので改善のしようがあるのですが
どう考えても今回のはひどい。

その内容は
初診でかかった患者さんなのですが
傷病名に抑うつ状態と神経症をつけました
当然うちは精神科ですし、精神保健指定医が初診しています
この指定医の初診だと初診で「通院精神療法Ⅰ指定医による診察」
の算定が取れるのです。
これとは別にもちろん普通の初診料も算定します。
ここまで普通ですよね。
普通です。

・・・・・・・・・・・・・だがしかし

その初診料と指定医の診察について

「C:不要と認められるもの」

として保険請求が却下されていました。

どういうこと!?
初診が不要、指定医の診察も不要と認められるって
紙の上で病名にあった診察や治療が行われているかを
審査しているのに、その初診すら不要ってどういうことなんでしょう
どういう査定なんでしょうか・・・
これが神奈川ルール?
そんなわけないです 
明らかに審査委員のミスです
というか少し嫌がらせが入っているかもしれないです(あり得る)
保険請求点の高い医療機関は時々
こういった牽制が実際あるのです。
鬱なのに「この人にこんなに薬出す必要ない」と
保険が認められる範囲内での請求でさえ
医療知識のない一部の審査委員や
その患者を実際に見たこともない人に病名だけで
薬が多いだの少ないだの
この検査は必要ないだの
実際に患者を見てもいない人に言われるのです。
その分は有無を言わさず請求した7割の保険料は入ってきません。
再審査請求をしなければならなくなるのです。

処方した薬と適応病名がかみ合ってないことで
請求が切られるのならまだ納得いきますが
患者の症状も知らない人に

「この患者さんにこの治療は不要」「過剰」

と判断されるのはいかがなものか
これこそ、医師の裁量権の侵害だと思うのです。

それにしても
初診に対して「不要と認められる」ってどういうことよ?
その患者知ってるのかよ!!と突っ込みたい
というより
不要が必要かは診察(初診)しないと分かんないでしょうに。
なのにその初診料さえ保険請求却下されてしまうなんて。

医師は診察して病気だったら初めて保険請求していいという
そういうことなのだろうか
いやいや

有り得ない。

簡単に却下だとか不要だとか過剰だとか
紙の上の文字を見て判断されますが
その理由を一切公開しない保険審査は
裏でものすごい黒いものが動いている気がします。
審査した委員のいる医療機関は査定を甘くしてくれるとか
そう言ったことがまことしやかに言われるのも
仕方ないのではないでしょうか。

保険請求の実態をきちんと国が把握しなければ
医療費の削減なんて夢のまた夢です。
コンビニ受診が横行していますが
保険点数をさげて受診しても医療費の国庫負担を少なくする
その発想は医師にどれだけ負担を強いるものなのか
同じ条件で給料を下げてるのと一緒
医師の苦労や過酷さに対して、ダウン査定してるのと同じです。
医師不足もそう
一人30秒で診察終わらせた方が儲かる科を増やすことで
最近の考えのぬるい一部の若者はそっちに流れていくでしょうに。

もっと根本的な何かを
考え方と変えていかないといけないと思います
理想だけでは変えることはできません
現実は違うのです

コンビニ受診で医療費がかさむなら
受診以前で食い止める防波堤が必要でしょう。
保険点数の引き下げはそれこそ

C:不要と認められるもの

なのだと思います。



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新しい命と手をつなごう
まだ小さい手
まだ新しい手
握り返す手は何を掴もうとしてるのだろう

命と命をつないで生まれる
新しい命

その小さな命の後ろには
沢山の命のリレーがある。


産科不足が深刻化している昨今
命は誰に委ね、誰に取り上げられるだろうか


命と手をつなごう

まだ小さく頼りない命だけど

その命は
脈々と絶えることなく受け継がれた
小さな握手の先頭なんだ。


まだ小さな手


おめでとう。

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今日は久しぶりの休みの日曜日。
診療所もカウンセリングもお休みなので本当のお休みです。
携帯電話やメッセンジャーに連絡がくることもなく
のんびりとすごし・・・てはいけないのですが
穏やかな一日を過ごすことができました。

いよいよもうすぐ試験が迫ってきました。
これさえ突破すればついに3年生です。
大学生活の半分になります。

今の大学に通うことになって
本当にたくさんの出来事があり
沢山の人に出会ったり、再会したりしました。
そしてその一人一人を、こっそり勝手に心の支えにして
大学生をやってきました。
きっとこれから先にある大学生活もそうやって
こっそりと心の支えにしてやっていくつもりです。

私に大学生というカテゴリーが合わないのか
私が今の大学生に合わせることができないのか
それがどうもわかりませんが
とにかく今の大学生活は、勉強的に辛くはないのですが
雰囲気的に辛いことが多いです
所長からも、雰囲気的に辛いことが多いと思うけど
やると決めたら師になった自分を想像して頑張れ、と
言ってもらいました。

やると決めたからには
私は辛くても目の前の試練でも試験でもなんでも
とにかく片っぱしからこなしていくしかないけれど
やっぱりそれにだけ集中するのには疲れてしまいます
私が弱いからすぐ疲れるのかも知れませんが
弱くても弱いなりに次々と突破していくしかないんだと
最近悟ってきました。
いろいろと浮き沈みする私の心に
いつも支えとしてこっそり寄り添ってもらっているのは
この大学に私が独りぽつんと投げ込まれて
心細いことが多いからです

強く生きていこうと思っても
やっぱり私はここでは独りで助けがない。
そして独りをあまりに意識しすぎると
私はここで身動きが取れなくなる。

外を向けば
北先生がいて
大学には、所長も鈴先生もいる。
ビタ先生の弟子になりたいなんて
何をうぬぼれたことを言っていたんだろう。
目の前のことをこなすこともできずにもがいている私に
そんな資格などないのに。
北先生や鈴先生に頼っているような自分が
ビタ先生の近くに独りで立つことが出来るわけがない。
そこに立っても自分の無力さに圧倒されるだけ。

患者さんの目の前に立ち
何を私はやっていたのだろう。
患者さんには、そんな私はどう映ったのだろうか。
もがき苦しんでいないとでも、思っただろうか。
それとも自分と同じように
もがき苦しみ溺れる途中なのだと
気付かれていただろうか。


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年が明けて大学が始まりました。
あっという間に期末試験1月前です。

しかしクラスの一部は期末試験どころではなく
センター試験の子たちが結構います
私立医大専願なのになぜかセンター受験すると言って

「社会が分かんないの! 社会が! もう世界史謎!」

なんて言っている人がいます・・・しかも近所に・・・

お前は何のためにセンター試験を受けるのか。
私はその方が謎です。
センターは普通の2次対策とは違うし
大体私立専願だったらセンター試験を利用しないではないの。
なのに私立の勉強そっちのけでセンター試験の勉強をしている
意味が分からないんですよ
たぶんそういう状態だから毎年落ちるんだろうが・・・
(作戦が間違ってる)

「センター試験なんて時間とお金の無駄。
そんな暇があったら行きたい大学の過去問やったら?」と言ったら
却下されましたけど。
まあ いいです・・・

つい最近知ったのですが
私立の医学部や医大で、ストレートに6年まで上がっても
そのまま6年で卒業出来るのは入学時の4割から5割なんだそうです。
一緒に入学しても、そのうち半分の学友は一緒に卒業して国家試験を
受験することができないのだそうです。
医学部は助成金の問題がものすごく大きいので
受かりそうもない学生を卒業させて、国家試験を受けさせるわけには
行かないのだそうです
そのため、100人いた入学者のうち、国家試験を受験できるのは
学年に約半分いるかいないかになってしまう
ストレートに上がっても、です。
ストレートに上がれない学生も、何人もいるのです
それが私立医大の現状なんだそうです
医学部に入りさえすれば医者になれる時代は、
もうとっくに終わっているのかもしれません
いや、そういう学生の質になっているのかもしれませんが。

医師不足が囁かれていますが
かといって医師国家試験のハードルを下げるわけにはいきません。
医師になるには、最低限の知識と技術は
もっていなければならないからですよね
それは誰でもわかります
でも、そのような状況で、医学部の定員だけ増やしても
意味がないのではないでしょうか
意味がないというのは言いすぎかもしれませんが
医師増員の決定打にはなり得ないと思うのです。

東京都では、メディカルスクール構想が持ち上がっていましたが
それ以前から、歯科医師に数年間のカリキュラムをくっつけて
医師国家試験を受験できるようにしよう、という話がもちあがっていたそうです
たしかに ほとんど医師と同じようなことが出来て
学んできた内容も 解剖以外はほぼ被ってますからね
そうやって 高卒→医学部だけが医師国家試験受験資格を得る、という
構造を打開する必要があるのだろうと思います
アメリカはじめ海外では、大学を卒業してからでないと
弁護士などの法律家や医師にはなれません
しかしその人数と言ったら日本よりずっとずっと多いのです。
国家試験だってもしかしたら日本より難しいかもしれません
なのに、日本より足りているのです。

日本は何かにこだわりすぎているのではないでしょうか
政治の改革にしても、教育にしても、医療にしても、です。
制度や既存のものにこだわりすぎて
柔軟な改革や発想が出来なくなってきてしまったように思います

そしてこだわるあまり
本来の目的を、大きく見失っているような
そんな気がします。



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木蓮
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山へ行けばわかるよ
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