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ことばは矢のように、あなたのこころに突き刺さる。 あやふやで不安になることばも その傷が癒えることばも。
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こんな夜中に
雨の音を無音の中で聞くのはいつぶりだろう。
そしてこんな夜はいつだって
手を離してしまった古池のことを思い出す。

バカみたいにこっちをいつか向いてくれると思っていた。
少し途切らせてみたい、と言われてから
その少しがどのくらいか知らずに
私は自分で何も努力もしないで
ただのほほんと 古池を待っているような
いや のほほんと待てていたらまだ良かったかもしれない
自分が生きることに精一杯で
本当はあなたを見失っていたのは私の方が先だったかもしれない。

久しぶりに「あなたを思い出した」とかかってきた電話。
もう二度とならない電話。
私の中であなたは死んでしまったことにすれば
つらくないと思ったけれど
それは大きな間違いだった。

生きているあなたに二度と会えないほうが辛い。

触れない私はあなたにとって存在しないのも同じ。
今はあなたに憎しみだけが残っているのかもしれない。
いや そうでもしてあなたの記憶に残っているならば
そのほうが幸せなのかもしれない。
私のことなど とうに忘れてしまっただろう。
いくつものやさしい日々も全て
きっと無くしてしまったんだろう。

私だけがいつまでも
雨の音が聞こえる度にあなたのことを思い出す。
条件反射のように私のスイッチが
雨の音で押されてしまう。

そして風になりたいと言ったあなたの望みどおりではなく

私の中であなたは

やさしい音色の雨粒になっています

今日もあなたの記憶が屋根を打ち付ける。
ぱらら ぱらら。

もう二度と
会えないんだね。

手を離したのは

どっちだったんだろう。



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佐々木先生の死があまりにも非現実的で
それでいて大きな喪失感がある。

人って突然死んでしまうんだなあ

命とは一体どこから来るのだろう

子供はどこからやってくるのだろう

そして命は生きて

死んでしまったら

一体どこへ行くのだろう。

命はただ、消えてしまうだけのものだろうか。
 

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今日の朝突然
大学時代の恩師が亡くなった、と
火葬と葬儀の連絡が来た。

病気がちだったとか、まったくそんな知らせは無かったので
悪いいたずらじゃないか、いたずらならそうであってほしいと願い
先生と過ごした学生生活を思い出していました
悪い冗談だったら電報なんて送れないので
北先生に連絡して、北先生が大学に問い合わせてくれました。

嘘でも冗談でもなかった。
本当に、本当にちゃむ(先生の愛称)が死んでしまった。
いろいろ聞きたいことがあったのに。
いつまでも元気すぎて、連絡なんていつでも取れるや、と
たかをくくってメール送りそびれていた。
それがこんな事になるなんて。
急性白血病で、あっという間に、たった3日で亡くなってしまった。
ちゃむにその覚悟が出来ていただろうか。
いや、死ぬ気などさらさら無かったに違いない。
それがちゃむだ。

私を実験の世界に導いてくれたのも先生だ。
新入生歓迎会でよく飲んだ。
夏に先生の職員宿舎の庭でバーベキューした。
ハスキーのローラもいた。
ちょっと顔が怖かった。

コーヒーカップを洗わずに次々とコーヒーを注ぐので
カップにコーヒーの年輪が付いてた。
いつも口角に泡をつけてた。
口が悪いけどいい人。
私は生理学がだいすきだった。
皆から信じてもらえなかったし
先生も信じてなかったけど
私はちゃむが大好きだった。

だから卒業してから、
恩返しに実習の講師を無料で引き受けたのだ。

先生にくらった生理学の可、
そのせいでどんだけ苦労したか。
やっと優に変えることが出来たよ。

それを、言いたかったのに。

いつもちゃむは勝手だなあ。
 

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近頃また殺人事件や傷害事件が多いですね
人間の気持ちや行動は、周りの雰囲気にとても流されやすいタイプと
そうではないタイプとあると思うのですが
人の気持ちにも「流行」というものがあるようです

最近は少年少女による犯罪が増えてきています。
昔は少年少女による犯罪とは「非行」とよばれて、不良だとかヤンキーだとか
そんなふうに呼ばれていて
犯罪の内容も恐喝やら万引きやらそういうものが定番だったのですが
最近は、ごく普通に学校に行っている、成績もよくて、何の変哲もない
ごくごく「そのへんにいて違和感ない子」「奇抜な格好で注目されない子」
が犯罪を起こしています。

しかも、万引きや恐喝(カツアゲ?・・死語か)
なんてものでなくて、いきなり「殺人」
しかも身近な人を殺すか、もしくは見ず知らずの
「誰でも良かった」という無差別殺人か
どちらかであることが目を引きます。
個人的には「誰でも良かった」なら
自分自身でもいいだろうと思うのですが
死ぬ事に現実感がないから余計に恐怖心を感じるから
自分が死ぬのは何となくいやという・・

最近興味深い事を聞きました。
小学校低学年に、「死んだら人はどうなるか」というアンケートをとったら
25%が「生き返る」と答え、また25%が「生き返る事もある。」と答えたという。
つまり、半分のこどもが「死んでも(殺しても)人は生き返る」と
思っているのです。

これだけ聞くと「まだ小学生だから~」と思うかもしれません。
しかし、中学生に同じことを聞いたところ、結果は同じだったそうです。

つまり 思春期になっても、人が死ぬということが
一体どういうことなのか理解していないのです。
死んでも、殺しても、殺されても、生き返る。
だったら、怒りや興味本位、ストレス発散で
まるでテレビゲームのように人間という「キャラ」を殺したって
再スタートしたらまた初めから生き返って同じような生活が始まる
まったく問題ないわけです
何が悪いか分かるわけありません

そして人生に再スタートボタンがホントはないこと
リセットしたつもりでも、初めからやり直すことはできないこと
生きているものは、死んでしまったらもう二度と会えないこと
その真実は 一体いつ誰が教えてくれるのでしょうか
大切な人がいなくなって
いつまでたっても戻ってこない、その喪失感に苛まれて初めて
知る事ができるのではないだろうか
だから人を殺しても
無差別や誰でもいいなんていった場合
自分のその前後の人生にまったく周囲の人間で
欠けた人がいないため
何も変わらないのです(その本人の中では)
だからこそ逆に誰でもいいのかもしれない。
そして、それは
全く自分のことしか考えていないという
明らかな証拠でもあると思うのです

こうなったのは、一体日本の何が原因なんだろう。
テレビゲーム?親の不在?日本の偏差値教育?

最近私の通っている大学にも
「医学部に受かったけどこの大学に来たの。特待だったから。
でも、学生が頭悪いから一緒にいるのが嫌だから医学部に編入することにしたので
来月の編入試験の願書だしたの。」
と平気で言っている現役入学の学生がいる。

一体どうしてこういった嘘が平気でつけるのか。
現役入学で今2年生の段階では
願書すら受けつけてもらえないのだ。
唯一T海大学だけは、準学士卒・専門士卒
または大学2年次在学以上で62単位以上を取得の場合に
受験資格を与えているが
現役入学で今の時点では、62単位どころか30単位程度しか(1年の分だけ)
まだ取得していないはずなのに。
それなのに「もう願書だした」「来月受験する」などと平気で人に言ってしまう。 
ネットだから、際限なしに自分に鎧や嘘で塗り固めて理想の人物を
つくりあげることが出来るのかもしれない。
でも、そういった嘘を平気でリアルな世界でも悪びれもなく
まるでそれが真実かのように振舞ってしまう。
嘘が本人の中では現実との区別がなくなり
理想として嘘の中を、彼(彼女)は生きているのかもしれません。

現実世界に失望したら
その失望した現実を受け入れてなお現実を生きるのではなく
作り上げた虚像の世界を求めてそこで生きることを選んでしまう。

自分の考えていることで
何がいけないことなのか
何が本当のことなのか
今の若い世代には 区別が無いのかもしれません。
現実と虚像 リアルとバーチャルの境界は
日々より近づきつつあり
自分を支え 生き続けていくためには
もはやリアルとバーチャルの差をなるべくなくして
自由に行き来できるようにしなければ
自分を守ることが出来ないのかもしれない。

でも、
私は思う。

大人になるのに
生きていくのに
傷つかなくちゃいけないなんて辛い
でも
絶対に

傷つかずに大人になるなんて悲しいことなんだよ。

 

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日本人は昔から香水をつける習慣がなかった、といいますが
実は匂い袋で香水と同じ役目を果たしていたのです

ヨーロッパでは下水道の発達が遅れたため
自分の匂いを消すために香水が発達したと
映画「perfume」でもありましたが

今では日本人でも香水をつけている人はとても沢山います
そう、自分の香り。なんて言って
自分に合う香りを探して女性は一生終わるのかもしれません

この香りというものは、五感の中でも特に記憶と密接しています
脳の中にある記憶を司る「海馬」と密接に関係しているのです
また、脳の中で「香り」とは、さまざまな刺激となって
脳にレスポンスを起こすものであると考えられています
逆に、脳が過敏に反応する状態になると
実際に匂いがしないのににおいがするような
そんなこともあったり、匂いに敏感になったり
そういったことが起こります

たとえば統合失調症の診断で
患者さんが共通の匂いを訴えることが間間あります
その匂いとは、「こげた魚のにおい」
(ちゃんと精神医学の教科書にも載ってます)
きっと匂いを感じ分ける時には脳の受容体が匂いごとに刺激され
それでたとえば

Aの受容体単独で刺激されると いちごの匂い
Bの受容体担体で刺激されると りんごの匂い
AとBが同時に刺激されると しょうゆの匂い

みたいなことが起きているのではないでしょうか
そこで、実際に匂いを発するものが無くても
脳の障害によってその受容体にスイッチが入りっぱなしになり
脳に「匂い」として認識されるのではないでしょうか
五感が敏感になる妊娠中に
食べものの匂いでダメになった、というのもそのせいじゃないかと
私は考えています

まあ、それで話を戻して。

記憶と香りは密接に結びつきやすいもので
同じ香水をつけている人がいれば、その香りだけで
その人を瞬時に思い出すことができるのです
思い出すことが出来る、というより
記憶が勝手に思い出されるのです
引き出しを開けてしまう鍵になるのです

匂いとは不思議なもので
白血球の型(HLA)が離れている人の匂いを
「いいにおい」と感じるという結果もでています
匂いと感じなくても「フェロモン」として何となく惹かれる・・
というのも、実は脳がより強い子孫を残すため
自分とかけ離れた遺伝子を持つ人間の匂いに誘引されるように
できてるんですね

香水ってでも気恥ずかしい感じがして
つけなれていない自分は(医療機関やラボ出身だからか)
なかなか「香水つけよう!」という気にはなれず
最近はアロマディフューザーを部屋の中で使っています

私のお気に入りの匂いは
laundry&clean というもの。
よく、ホテルのシーツとかに付いている柔軟剤の匂いです
ファーファの匂いと皆に言われますが
なんだかリラックスするんですよね

きっとそういうお気に入りの「香り」は
場所が変わっても いつものリラックスできる空間に
自分の意識を一瞬にして運んでくれるものなのかもしれません

みなさんにはお気に入りの香り、ありますか。
 

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おはようございます。
夏の猛暑もひと段落ですね。
短い間だけみたいですが
久しぶりに昨日はクーラーをつけずに眠りました

昨日ハンズに行く用事があったので
店内をうろうろ見ていたら、あちこちに「エコ・グッズ」なるものが
氾濫していました

でも本当のエコってなんだろう?
エコって一体何ぞや!?と考えたことがあるでしょうか。
私は趣味で太陽とか電池とかそういうことをやってますが
それがエコに直結するとは、考えた事は無いし
エコカーだとも思っていません。

ペットボトルを使い捨てしないとか
ペットボトル飲料自体を買わず、マイボトルをもつとか
割り箸を使わずにマイ箸をもつとか
エコバックを持つとか
まだ乗れる車なのに燃費のいい車に「エコがえ」しようという
そういうことまで出ています

でも
本当のエコってそういうことでしょうか
使わない事、捨てないことだけがエコでしょうか
割り箸は日本人が、樹が大きく伸びるように余計な枝を切り落としたその枝で
作られているリサイクル商品だということを知っている人が
割り箸を持ち歩いている人に何人いるでしょうか
リサイクルが成立するには、リサイクル商品を買ったり使ったりと
回転させる必要があります
でも、割りばしを使わない人達は
割り箸のせいで森が減っていると勘違いしている人達なのです

ペットボトルのリサイクルもそう
リサイクルはお金がかかってもやるべきだと私は考えています
それは余計な燃料を使うリサイクルという意味ではなく
余計な燃料を使わずにリサイクルする事にお金がかかっても
それは無駄なお金でなはなくて
資源を守るための投資なのです

エコがえ、という発想もよしあしだと思います
まだ使えるのをとことん使い倒してこそエコ
わざわざ金属のボトルかって使わなくたっていいわけです
その度にアルミは地中から掘り起こされるのです
エコライフのために、資源が使われる
別にペットボトル洗って使ったらいいじゃないの。
とかいう私もつい買ってますけど。

日本人はエコでも使いにくければ見向きもしない。
面倒さを伴うエコなら浸透しない。
そこが問題だと思うのです

エコは楽じゃないんです
エコには努力と器量が必要なんです



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オリンピックのレスリングの伊調姉妹(実は彼女達が中学生のころから中総体で強くて
いつも新聞に載っていたのを覚えている私)
の姉が表彰台に乗っている時のアナウンサーの一言
いいコメントだったなあと思います

「銀メダルが輝いて金に見えます」

昔から姉妹で強かったもんね。

 

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私の実家は空軍基地の近くで(と言っても車で1時間くらいかかりますが)
航空祭などはもちろんのこと 街中にも英語(アメリカ語)を話す人がいて
さらにおじが空軍の通訳をやっていた事もあり
私にとってEnglishとは とても身近なものとして感じていました

中学生になる少し前に
自分はもう完全なるバイリンガルになるには遅いと指摘されて
それでも、少しでも英語が話せるようになるように
英語を話す人には英語で話しかけたり
その頃は洋楽が大好きでQueenやMadonnaやBonJoviをメインに
聞いていた田舎の変人だったため
英語というものにそれほど抵抗がなくなっていました
英語を話す友達を沢山作ったり
一人で英語を話すところに行ったり。
それが小学生から中学生にかけての私でした。


しかし
習い事は一人一生に一つまでしか面倒を見ない、という家庭の方針から
私は小学校入学と同時に習っていたエレクトーンがあったため
英語や英会話を塾に行って習うことが出来なかったのです
それでもほぼ私は英語圏の人と積極的にかかわる方向で生きていたので
英語の方が得意な表現と、日本語では言えない表現と
頭の中で日本語でどういって言いか分からないことが出来てしまいました
今でもちゃんぽんで話すのが一番らくちんだと思います

社会人になって
ちょうどいい法律が出来ました
雇用保険に一定以上加入していると、教育訓練給付金が支給されて
資格をとる資金を一定金額まで援助してくれるものです
幸い普通の人より2年早く社会人になった私は
教育訓練給付金の受給者資格を満たしており
英会話学校に通う事となりました。
それ以前に、体験で月謝制のグループレッスンに
何ヶ月か通った事はあったのですが
やっぱりマンツーマン!と会社の人に勧められて
マンツーマンに特化した英会話学校ということで
いろいろ探してGABAに通い始めました。
多いときは週2~3回、4時間くらいのレッスンを
2年間で300回くらい受けていたら
最後のほうはベラベラに近くなっていたのですが
大学入学と共に一時中断し
今ではすっかりほぼただの人になりました(苦笑)

でも日本語以外のコミュニケーションツールが使えるというのは
とても便利だと思います
おかげでとあるモータスポーツの大会で通訳をやったり
英語でスピーチもすることが出来ました

顔が日本人というよりモンゴル人らしい私は
よく日本で迷っている外国人に話しかけられます
「君、日本に来て何年?」とか
「留学して何の勉強してるの?」とか・・・

どこからきたの?と駅で聞かれて

「隣の駅だよ!」と言ったこともありました・・
(彼はどこの国から来たのか聞きたかったらしい。)


時々でも
日本語よりも英語が恋しくなるときがあります
日本語で生活していると
文化的に美徳として体にこびり付いた何かが
絶対にはがれないよろいになっている気がするのです
いいたいこと、伝えたい事が
まるでもどかしい足かせのようになって
結局は黙ることしか出来なくなる。

もう一度英語はじめようかなあ。
私には、ああいう風に思いやりのあるはっきりした意見が言える
そんな文化の方が似合ってるのかもしれない。
 

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田舎から帰ってきて
時間の流れが止まったみたいです
今 夏なのかどうかも解らないような
そんな日々をつい先日まで過ごしていました
気づかないうちに夏が 私の両手をすり抜けて
あっというまに流れ落ちたようです

故郷の青い森では
ねぶたが始まりました
一度も見たことがないけれど
もう二度と 見ることも無いでしょう
ねぶたまつりで はねとが通った跡に
銀色の鈴が いくつか落ちています
浴衣に縫い付けた鈴がちぎれ落ちるくらい
激しくはねるのですが
その鈴は 一つに付き一つのお願いを
叶えてくれると言われています
私もむかしむかし
弘前に住んでいる友達に拾ってきてもらったことがあります
2つの鈴を拾ってきてもらって

ひとつは 受験がうまくいきますように

もう一つは 好きな人とうまくいきますように

と、子供ながらにお願いしたものでした
(結果は二つとも無事適いましたよ)

あれから20年くらい時は経ち
今ではそのねぶたの鈴さえ 
見かけることが無くなりました
あの時の二つの鈴は
一体今頃どこに行ってしまったのだろう
私が家を出た後
実家では私のものをすべて焼き払ったと言っていたけれど
あの鈴も 一緒に炎に投じられてしまったのだろうか

夏の一瞬を通り過ぎるだけの
鈴の音は
耳の中で 心の中で
遠く遠くから 聞こえてくる
いつだって 私の中で鳴り止まない。

鈴が一度 しゃりん、と鳴る度私は
コイケに会いたいと思ってしまう
もう二度と会えないところに 行ってしまったというのに

しゃりん。

しゃりん。

鳴り止まない鈴の音

あの時に私も
一緒に樹になってしまえば良かった。

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今日で試験がクランクアップしました
そして再試験の結果も今日発表。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

また落ちた・・・・・・・・・。


化学と計算できない私の本領発揮してきた気配です。

でも私は
どうしてだめだったか原因を探ることはするけれど
それを絶対に言い訳にはしたくない
私は人生はすべてが自分の実力で
自分の決断で
そしてそれに ほんの少しだけの
見えない力があるだけで
何かのせいで自分の本来の力が発揮できなかったとか
そういうことは言いたくないのです
それが私が
自分に責任を持って生きる、ということだと
思うからです

色んなことが人生で起こっても
それが何かのせいだとか
たまたまやらないところが試験に出たとか
予想外の展開だとか
そういうことが事実として起きたとしても
それはいいわけにはならないし
理由でも何でもないと思うのです
いや、理由かも知れないけれど
私はそれを
理由にはしたくないのです

それが私のポリシーなのかも知れない。
私は私の人生に言い訳をしたくないし
そのことこそが
自分の生きるその生き方に、瞬間瞬間で
責任を持つということだと
思うのです

ただやるのみ
ただ、やればいいだけ。

頑張る必要なんてない
頑張るのではなくて
精一杯
よくやったと思うまで
ひたすらやればいいと 思うんだよね



ダウンレギュレーション回復傾向。

新月の夜

そして 日食ですね

みなさん何かお願いしことしましたか

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早起きをしました。
というかここ数日自転車操業のおかげで毎朝4時くらいに
起きているんですが
今日は昨日夜 数日間の寝不足がたたってしまい
明日のテスト(というか今日ね)は本職の心理学だから
もう勉強せずに 今までの職で身に着けた知識で対応しようと
早々と店じまいして寝たのです。

今日は心理学だけなのだけど
心理学の講義をずっと半期聞いていて思う
どうして心理学はただの学問になってしまったのだろう
精神医学は悪だとか
精神医学そのものが間違いだとか
精神医学を批判するホームページも存在する昨今
心理学とはどうしてああも人を魅了しているのでしょうか
カウンセリングブームもそう。
占いよりも、もっと科学的な、学問的な「雰囲気」がするからでしょうか

私は精神医学とも、心理学とも、近代科学とも関わってきました。
だからこそ、精神医学の限界も心理学の限界も
近代科学の限界も(なんとなくですが)分かる気がするのです

精神とは
現代の医学では「見えない心」をさしているのではありません。
そこを勘違いすることによって
精神医学なんて本当は無いんだ、とか
精神は医学では治す事はできないんだ という
大きな誤解を生むと思うのです

人間の精神活動は
けして二次元的なものではありません
精神医学の真髄は
きっと人間の脳が生み出す科学的なものなのに
常にその姿を変える人間にあると思うのです
心は波動方程式で解ける、と
きょーじゅが言っていましたが
きっと心の揺らぎ幅や心の動揺した後の
脳の現象は
そういって後付できるのかもしれません。
何故なら科学(サイエンス)は
現象を解明する手段でしかないからです。

常にその形を変える上に
いまだ解明されてない働きをする脳だからこそ
つかみどころのないような
実態などないような
そんな気になるだけだと思うのです。

心理学は私は科学ではないと思っています
それは歴史や経験と同じようなもので
サイエンスの範疇ではないと思うのです
だからこそ心理学部は文系や文学部に属しているんです

解釈の違いは相当あるし
精神医学とはかけ離れていることが多いです

だけど心は見えない抽象的なものではなく
精神とは脳の活動のことなのです
本当はもっともっと
歩み寄らなければならない学問だと思うのです

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この間 久しぶりにビタ先生にメールして
その後試験だったのだけど
試験監督として来たビタ先生が
私の脇を通ったときに
お互いに久しぶりだったので

「・・・・・・・・」

と 1秒くらい見てしまった。
多分、ビタ先生も頭の中で私のメールの内容が
0.5秒くらいは過ぎったに違いない。

その後しばらく試験で全く顔を見なかったけど
今日の試験時間割大パニックで
お昼を食べる場所を見失った私は
久しぶりに煙研に行ってみた。
そしたらみなさんコーヒーの時間だったみたいで
みーんな勢ぞろいして座ってました。
ビタ先生もいたけど
なんかそこで目があって笑ってくれたので
なんとなく 嬉しかったような。
でも無理してるのが
解っただろうなあ。

というようなことが今日あったのだった。

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鬱と戦う○○のブログ、とか
鬱と戦っています、などというタイトルを
たまに見かけるのですが
私個人的な考えとしては
鬱は戦って勝つ負けるの相手ではないように
思っています
その方は戦っていると思いますが、自分自身ならば
きっと戦ったりはしないと思います。

鬱は
外からやってきた敵でもなく
自分の中から湧き上がってきた病魔でもなく
まして 自分の心が弱いからでも何でもないと思うのです
(内因性の鬱の場合)
何かに悩みまくると鬱になる、などと
学生や若者の間では 教育者が間違えた理解を伝えるため
誤解や偏見がまかり通っている
そのため 鬱病には何か悩みが付き物なんだと
勝手に解釈して誤解を生むことになると思う

鬱が広げるその人の内面がある。
今まで気づかなかった些細なことが
病気のために思考回路が障害されているのだ
そして
悩みが特に無いのにも関わらず
そういった誤解や偏見から

「悩みなんか誰だってあるよ」

「鬱になる前に相談してくれればいいのに」

などと言われても
もともと悩んで鬱になったわけではないので
非常に困るわけです

5月病が病気だと言い放った心理学の教授。
ありえません。
どこの医学書に「五月病(症候群)」という記載があるのか。
そもそも症候群という捉え方がまちがっとる。

心理と精神医療のつなぎ目は
非常にあいまいで
精神と心理は別のものだと私は思っています
その境をどういうシステムで結びつけるか
どういう仕組みでシステムづいて結びついているのか
そこを考えるのが肝だと思うのです

だから私は鬱病になっても戦いません
鬱病は敵ではないし
憎むべきものでもなく 愛すべきものでもないからです

鬱病は複雑骨折です。
治療するものです
風邪のように皆よく起こるものではけしてありません
内因性の鬱病の発症率は0.5%です
だけどメディアのお気楽な鬱対策の啓蒙のおかげで
まるで風邪のようにひいてはすぐ治るものだと
誤解している気がするのです
もし そんなのだとしたら 
それは鬱病ではなく抑鬱状態だときちんと枠を決めるべきです
そうしないと 本当の抑鬱が鬱にされることで
鬱の偏見の狭間で
抑鬱状態が回復した後にも「この人は大丈夫なんだろうか」と
いらぬ心配をされた上に 偏見をもたれてしまうのです

と なんだか朝からそういうことを書いたのは
昨日 久しぶりにビタ先生からメールが来て
なんとなく ずれてる感じがしたからです

頑張るのは
誰のためでもありません
そして私は
頑張ると言う言葉が自分を縛り付けていることに
なんとなく 気がついてきたのです

できることを、できる範囲で、できるだけ。
そういうスタンスで臨みたいと思います。

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本当の私、というのは
存在しないというけれど
私の本質、というのは
気づかないながらも
きっとちゃんと存在するものなんだろうね

今日の私も
明日の私も
本当の私には違いないけど
もしかしたら
私の本質には
近づいたり 遠ざかったり
するものなのかも知れないね

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今日は生化学実習の実習試験(追試)で
すごく大きな教室教室に、今まで実習でお世話になった
先生方がずらり、ずらり。
担任の先生まで居て

「もとむらも落ちたの!?こらぁ~」

と言われる始末。
そろそろ私の能力では
太刀打ちできない領域なんですよ学習内容が。
そうそう 鈴先生はめがねが変わっていて
今日は所長が髪をさっぱり切っていた。
私はというと 2週間前にバッサリ15センチ切って
ショートにしてからというもの
40代以上のおじさんに髪型が人気です。
あくまで 髪型がですが・・・
でもなんとなく
まだまだ自分ではしっくり来てないです
驚くほど 切れた髪の毛には何の未練もないのだけど。

男の人はひげで
女の人は髪に 思いを込めるって言いますよね
願掛けで伸ばすのもそう
男の人はひげが多いですよね
伸びるには時間がかかる分
思いもつめられると言うか
念を込められるというか。
念を込めるのに、すくすく成長されると
そんなに難しくないような
なんと言うか 軽々しいような感じで
ありがたみがないからなんでしょうね

だから日本のおまじないや言い伝えは
妙に時間がかかるものが多い

つまり、それだけ長い間
思っていられるのだったら
その思いが言霊のように
嘘がまことになるような
念ずれば花開くというか
長く信念をもっていれば
いつか その少しずつの積み重ねが
大きな結果に結びつくという
日本人のこつこつとしたまじめな生き方というか
昔からの気質なんでしょうね

今日という日は、今日が突然登場したのではなく
生まれた時からの少しずつ 少しずつの積み重ねが
今日という日を 作っているのだと。

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死刑が執行されましたね
死刑は人権を無視しているとか、死刑は結局行われないなら
廃止するべきだとか
いやいや 死刑が犯罪の抑止力になっているだとか
色んな意見があると思います

私はずっとずっと昔
まだまだ駆け出しだったアナウンサーの一人に
こう聞かれたことがあります

「あなたは、死刑をどう思う?」

私はその時、「死刑があることで人間は罪を犯すことを躊躇するなら
死刑は存在するべきだ」と答えた。
でも、彼はこう言った。

「死刑は犯罪の抑止力にはなってないよ」

このことはあれからもう何十年と月日が経っても
死刑判決が出るたびに私は思い出す。
そう、彼の言うとおり
死刑という恐怖をちらつかせることが
何の犯罪抑止力にもなってないように思う。
凶悪犯罪は減らない。
むしろこの問いを投げかけられた頃よりも
より残虐で より凶悪になっている気さえする

死刑を執行しないなら
私はある必要の無い刑なように思う
でも執行するのであれば
それに値するほどの凶悪犯罪であるかを
何をもってして判断するのか私には分かりませんが
執行するつもりがあるのなら
その可能性があるのなら
残しておいてもいいのではないかと思います
犯罪者にも人権はあると思うけれど
でももしその人が殺人を犯していたとしたら
殺された人の人権はどうなってしまうのでしょうか
死刑反対をただ死刑囚だけの人権に注目して訴えている人は
被害にあった人の人権に目を向けていないような気がするのです

死んでしまった人は 
なぜ人権を無視され 殺されなければならなかったのでしょう
そして自分が死んでしまったのに
殺されてしまったのに
どうして殺した人間は人権を守られて
死ぬことを回避してもらえるのでしょう
私は今残っている死刑と言う制度は
相手に与えた極限の恐怖を
己にも味わわせなければ
そこまでしなければ 
人間の心を理解できない人間に対して執行する 
唯一残る ハムラビ法典みたいなものではないかと
解釈しています

犯罪者の更生をよく訴えられますが
私は更生というのは
反省とは別の類のことだと思います
反省だけならサルでもできる。というCMありましたよね
あれと同じです
反省したそぶりでも見分けが付かないから
再犯を繰り返したり
その場しのぎの反省を見せたりするわけです

更生とは
その罪を犯したときに
被害者が感じた気持ちにいかに共感できるようになったか
そこだと思います
共感力が無いやつは何度反省しても
別のカテゴリーで繰り返すだけな気がするのです
でも今 他人に共感する力なんて
生きるうえで当たり前のことのように
無視される存在になってきました
共感することが自己犠牲だと思っている子供もいるくらいです
子供と言っても私が指すのは
大人になりきれてない20代も含む、です

共感する体験を積み重ねずに育った子供は
薄っぺらい感情しかもてず
でもその薄っぺらい世界が全てになってしまう

こころはどこに行くんだろう。

日本人のこころの教育は
どこへ向かおうとしているのだろう。

私には、終焉を迎えようとしているように思えてなりません。

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木蓮
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山へ行けばわかるよ
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