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ことばは矢のように、あなたのこころに突き刺さる。 あやふやで不安になることばも その傷が癒えることばも。
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久しぶりに所長からメールをもらいました。
相談があったら時々顔だしてねと。
所長のキャラそんなんじゃないけど
そう言ってもらえてうれしかったです。
去年の私はいったい何だったんだろう。
去年の私のせいで、いろんな鎧が付いてしまった。

だけど人間
どんな鎧被っていたって中身は変わらないんですよね。
自分で纏った鎧以外にも
他人から着せられたレッテルという名の鎧も
どんなに着込んでいたって、来ている人間の本質は
その人間の気づきによってしか
変わることはないのです。

私もいろんな鎧を被っています。
鎧を外せば、私だって生きていけないかもしれません。
だけどその鎧は上手に使ってこそ鎧。
むやみやたらと他人からの傷つきに
過剰に防衛するためのものではけしてありません。

自分らしく生きるというのは
本当はとてつもなく難しいのです。
じぶん「らしさ」とは
誰かに提示されるものではないので
お手本がないのです
自分らしさとは、ある意味で
存在しない定義なのかもしれません。

でも、私は自分らしさというものを こう考えます。

自分に言い訳をせずに、自分自身が納得して生きること。
自分自身の納得のいく選択をして生きること。

それが、私の考える「自分」らしさだと思うのです。
他人のイメージで作り上げられた「らしさ」ではなくて
自分で考える、自分。
すごく簡単そうでいて、自分をとことん知ることなしには
とても難しいものでもあると思います。

自分の納得する生き方をしていて
所長や鈴先生や北先生にふっと
私の選択や生き方が

「もとむららしいな」

と言ってもらえるのならば、それが私は
一番うれしいと思います。

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昨日で冬休み前の講義が終わり。
クリスマスイブでしたが、大学の先生からはレポートや
実習試験の結果発表というプレゼント。
結果的に全突破していてうれしかったです。(わーい)
勉強した甲斐がありました。

大学が終わった後、映画「Shine a light」を観てきました。
ローリングストーンズのドキュメントみたいなライブムービーなのですが
いやー、やっぱりストーンズはカッコよかった。
頭の中でもやもや考えていたものが、映画を見てる間は吹っ飛んでました。

この時期になるとにわかに私の心が騒がしくなるのです。
それは受験シーズンに入るから。
今年も相も変わらず、後ろの席の方は医学部再受験生たちが
講義そっちのけでひたすら受験勉強です。
私のごく近い友達も、その一人です。
彼女は医学専門予備校で2浪した後、今私のいる大学に来たのですが
また来年受験するというのです。それも金沢医科大学。
彼女は大学ではそれほど成績が良くはありません。
いろんな大事な単位を落としそうになったり落としたりしています。
大学に入ってからが大変な医療系なのですが
入ってから、講義についていけてないように(私には)見えるのです。
生物が得意な彼女なのですが、今回の簡単な免疫学の実習試験も不合格。
私の中で、「医学部を受けるような人間は、こんな試験で不合格にならない」
と思っているのですが・・・

(ここからちょっと性格が悪い子になるかもしれませんので注意。)
自分より明らかに大学生活で勉学についていけてない人が
「やっぱり医学部に行く!」と受験するたびに
私の心の中はチクチクするのです。
だけど私は同じようなことで去年の今頃ちくちくしました。
でもその時、いろんな人に心の内を話して
色んな人の意見を聞いて
結果的に自分で納得した見解があります。
それは

「薬学を途中で投げ出すようなやつは
医学部に行ったって途中で苦しくて投げ出す」
ということ。

どんなに苦しくとも、納得いかなくても
薬学ごときの勉強に付いていけなくて
途中で投げ出して医学部を受験したって
医学部の授業に付いていけないだろう
医学部は少子化もあり、最難関の学部ではもはやない。
だけど大学入って医師になる前の人間としての「根性」の問題だと
師匠の医師が言っていた。

薬学部の勉強ですらあとたった数年の我慢や努力ができないようなやつが
入ってからが死ぬほど大変な医学部の講義に付いていけるわけがないと。
医学部に入学したって、留年するやつ、国試に落ちるやつ、講義についていけずに
単位落とすやつ、大学来なくなるやつ、一杯いる
そういうやつは何が問題なんだ?
単にステータスのある地位が欲しいから医学部目指してるだけだろ。
最初から医師以外考えてないって口では言ってるその友達の女もそうだ。
本当に医師しか考えられなかったわけじゃないだろ。
医学部しか見えてないような人間は、医学部以外受験なんかしてない。
医学部だめな時のために次にステータスのある薬学部受けて、それで
今だにうじうじしてるようなやつは
結局そういうやつなんだよ。
薬学の勉強すら投げ出すようなやつが
これから先に医学部は受かるだろうけど、その後に続かないんだよ。
いいか、受験で燃え尽きちゃダメなんだよ。やっていけないんだよ。
そのあとが問題なんだよ。
と。


私は私で、
医学部に行けずに職場から
「だったら薬学部へいけ」という選択を提示され 
それを享受したため偉そうなことは言える立場ではないけれど
回りの師匠や先生がみんな口々に言うのは
「途中で薬学投げた奴が医学部行ったって駄目だ」ということ。
今では私も、悔しいけどそう思っています。

裕福な家庭に生まれて、学費も生活も受験費用も全部
親におんぶにだっこな彼女は、確かにうらやましいと思う。
日本一学費の高い薬学部から、今度は
日本一学費の高い医学部へ行こうとしている。
そしてもし入学したら、子供のために億単位でもぽんと出せる親って
すごいと思う。
私は独立生計を立てている身なので
そんな甘えたことができないし不可能なのだけど
人のお金を際限なく使えるというのは、こういったことを考えずに
生きていけるということなだろうか。

私は薬学を投げださないと決めたんだ。
時々こうして悔しくて揺らぎそうになるけれど
私のように、心に大きな傷を負ってそれを乗り越え
新しい人生を歩んでいる人間がいるということを
今働いているクリニックで恩返しをしたい。
一人でも多くの、私のような人間に
生きていることが素晴らしいことだと
思える手伝いをできるようになりたいから。
そしてそれで薬の専門知識まであったら、最強でしょ?
給料なんか暮らせる分だけあればいい。
私が医師という立場で、クリニックを通して患者さんに恩返し
クリニックに恩返しができるのならば。

だから今は私は目の前にある薬学を一生懸命やると決めたんです。
薬学を途中で投げ出すような人間は、医学だってきっと投げ出すはずだから。
最後まで投げださずに、目指すは夢のダブルライセンス。

そのころは40過ぎちゃうけど、何とかなるよね。
自分の人生に明かりを灯せるのは
自分以外誰でもないのだから。

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「メンタルクリニックで相談業務をしています」
「カウンセリングルームで働いています」
「精神科で働いています」

そんなことを言うと、あたかもその人が人間的にとてもいい人だとか
精神的に安定している人間で悩んだりうつむいたりしないように
訓練されているというように思う人がいます。
そういう人間であってほしいんですよね。
禁煙外来の先生が、禁煙に成功した人物もしくは
煙草を吸わない人であるのが当然、みたいな。
そういった同一化が行われるわけです。

だけど私はカウンセリングをしているからと言って
患者さんの相談をしているからと言って
けして自分自身には悩みや落ち込みが来ないかというと
そうではありません。
むしろ私の場合、普通の人よりどうでもいいことで悩んでしまうタイプです。
生きてる意味について考えたりしてしまうタイプだし
かつての恋人の思いでがフラッシュバックしてどうしようもできないこともあります。
ただ、違うのは
白衣を着て、相談室に入ったからには
そういった私的な感情や感覚が一気に吹き飛ぶということです。
患者さんが目の前で辛さに耐えきれずに切々と泣こうとも
私はもらい泣きをすることは絶対にありませんし
(最初の頃は泣きそうになってましたけど)
椅子を蹴り倒して暴れようとも
恐怖におののいて相談室の自分の椅子から立ち上がるようなことも
決してありません。
ただ、黙って座って患者さんを観察しているだけです。

人の辛い話を聞いて泣くのは、それはプロではないと思います。
それはただの同情で、そこに冷静で客観的な判断が生まれるはずがないと
私は思うし、師匠からもそう言われてきました。
そこで泣いたら、患者さんと同じになってしまう。
患者さんは患者さんのスタンスで辛いし、なくし、暴れたくなるのです。
その気持ちを理解するのはとても大切ですが
同じになったら医療機関に相談に来た意味が無いのです。
話を聞いて泣くのは家族や友達の役目だと思うのです。

だから私は医療者として泣かないし
暴れている患者が暴れやめるまで基本的には
言葉はかけますが手は出しません。

だから余計に私生活でもしっかりしているような人間だと
思われるのかもしれませんが
仕事でやっているのと、自分のことはまた別の話ですからね

この仕事を始めてからしばらくは
このギャップにとても悩んだのです。
相手を冷静に見て、自分の生活も同じように客観視する。
そうすると、自分の生活に「生活感」という実感が湧かなくなってきたのです。
簡単に言うと人生が醒めてしまったような。
生きることは試練だというのであれば
それは泥臭くて面倒でしんどいはずなのです。
なのにそれが、一遍にブルーなトーンで
何のアップダウンもない代わりに心揺さぶられることもない
そんな毎日になりつつあって違和感があったのです。

そんな時、名越先生がこんなことを言いました。

「人間、生きているからこそ不安定なんだ。生きているからこそ揺れ動くのだ。
それが精神というもの、心というものなんだから」

あー なるほど、と妙に腑に落ちたのです。
不安定とは消してそれがイコール病気ということではないこと
そして精神活動があるからこそ不安定になるということ
そしてそれが生きているということ

生きているということは
自我ができるもっともっと前に決定されていること
そのスイッチは自分自身でオン・オフすることができるものではなかったのです。
生きることは生命そのものの使命でもあるし
使命だからこそ、本能だと思うのです。

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ここ数日私の記憶の片隅にひっそりと置いておいたものが
夢をきっかけに突然私の目の前にぼん、と置かれて
後から後から あふれ出る後悔とどうしようもない私の存在が痛くて
ちょっと辛い日々を過ごしていました。
だけどちょっとずつまた復活しています。
どうにもならないことは数日すればまた
どうにもできないことだと心の隅に
諦めることができるので。
結局私の人生はその繰り返し。
前に出てきては諦めて、心の隅に追いやる。
そんな日々がいつか
諦めでなく納得として 私の心の中で昇華できるといいのに。

私は人生の中で
大きな穴を開けたと思う。
それはきっと何をもってしても埋まることはない。
永遠に埋まらないパズルのピースのように
私の私である理由も
永遠に完成することはない。
そんな未完成で不完全な私は
精神科で働くということを通して
完全になろうとしているのかもしれません。
埋まらない何かを求めて。
私は日々忙殺されているのかも知れません。


「 私は私で自由に空を飛ぶから

あなたは あなたで 自由に空を飛んで

いつか同じ空で 出会えたらいいね 」

そんなことを言いながら、二人で過ごした日々。
それは大切な思い出で消して私の中で消えることはありません。
だけど思い出すことはとても辛く
弱虫な私は 青い森に帰ることができないのです。

いつか同じ空で出会えたらいいね。

私は私の空を飛んでいるよ。
古池の空は どうですか。

辛くても、私はただ泣くか耐えるかしかできない。
まだまだ、会いにはいけないのです。
私はここでやることがきっとあるから。

前を、向かなきゃ。

実習が終わって少し
ストレスがずっしり来ているのかもしれません

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このところ疲れているからなのか
何かが満たされていないのか 自分でもよくわからないけれど
何となく周囲の存在と足並みを合わせることができないでいる。
職場の新しい社長の小泉内閣ばりの構造改革や
大学の学生たちに
自分を今まで通りに合わせられないでいる。
それがいいことか悪いことかという二択を迫られれば
悪いことだとも、いいことだとも私は言えないだろう。

私の置かれている立場や存在と、周囲の温度差を感じるのだ。

学部の特殊性から、みな真剣に国家資格へ向けて努力する
そんな学部であろうと思っていた。
私と同じように、背景は何であれ大学に入りなおしたのだから
もっと貪欲に真剣なのだろうと勘違いしていた。
だけどなんとなく違うのだ。
自分は違うといいつつ、ほとんど何も違わないのだ。
全員が全員ではないが
まじめそうに見える友達の子供っぽさに
イライラしてしまうこともある。
まだ若いのだから、いくらでもやり直しがきくではないか。
ここに根を張らずに、やり直したらいいではないかと
私は思う。それはビタ先生が私に言った
「お前は薬学を途中で投げ出すのか?」というような
そんな種類とは違うと思う。
だらだらとここにただ存在するのは、薬学に対して失礼だ。

なんて少し悶々と考えている日々が続いていたら
昨日うたた寝の間に久しぶりに古池の夢を見た。
内容があまりにリアルで
だけど夢の中でも古池に対面した私は固まり
ただただ見つめることしかできなくて
だけど一目で私はそれが古池だと判って
古池一生懸命何かを伝えようとするけれど
結局言いたいことが言い出せないまま
私は泣きながら服部祐民子に訴えるのだ。

目を覚ました瞬間に涙が止まらなかった。
古池の今の現実を、夢の中で見たような気がしたからだ。
古池も服部も、どんどん今を生きて未来へ進んでいっているのに
私だけが取り残されているような
私だけが前に進んでないような
そんな思いで一杯だった。

古池に、遠目でもいいから会いたいなあと思う反面
絶対に触れないものになってしまったその存在が
私の中でとても重くて ただ立ちすくむか
あの頃の私に戻って泣いてしまうだけなのか
私の中で何かが壊れてしまいそうな
そんな不安がある
だからきっと私は青森に帰れないのだ
古池の呪縛にとらわれて
もう二度と帰らないのかもしれないなあ。

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どうしても今欲しいもの。
有機の優
そしてカメラ。

有機の優が取れるかは、昨日の試験で決まってしまっているけれど
カメラはまだ間に合う。(?)

カメラで写真が撮りたいと思い続ける今日このごろ。
一眼レフで写真が撮りたい。
カメラにはまったのは、小学生のころ。
ちびっこのくせにカメラが好きで仕方なかった。
じいちゃんにカメラをせびって、いわゆる「シャッター押せばそれでおしまい」
というカメラをもらった。
当時はフィルムだったので、どんなふうにとれているかは現像しないとわからない。
そして現像も自分では到底できませんので、お店に出すことになる。
お店で現像してもらって、確認のため店員さんに

「こちらでよろしいでしょうか?」

と言われるときの恥ずかしいこと。
納得いかないような写りをわざわざ確認されるなんて。
今はスピードで35分もあればすぐ写真なんて現像できますけど
当時は3日4日かかったんです。
しかも小学生のくせに現像する写真は夕焼けとか植物の寄りだとか。
そんなんばっかり。

そんな風に小さいころから写真で表現してきた私には
カメラのない生活が考えられない。
高校卒業してすぐに買ったEOS-Kissを皮切りに
カメラが手元から無くなった時間がありません。
一眼レフが手元になくなった時代が私にはなかったのです。

それがついにここ数年、一眼のない生活です。
とりたい写真は、コンパクトデジカメでも十分足りることもあるけれど
やっぱりあの一眼を構えてシャッターを切る、あの時間が
自分だけの時間のような気がしてとても愛おしいのです。

というわけでカメラを買うことに決めました。
最初は私のミクロな手になじむような、オリンパスのE420(ミーハー)に
しようかとずっと思っていたのですが
ここにきて急に上位機のE510が気になる。
しかし重さ100グラムの違いは大きい。420は小型最軽量なのだ。
重たいものが持てない腕力のない私にもってこい。
しかしどうしても手ぶれ補正機能が欲しくなってきた。
夜に写真が撮りたくなったから。

カメラを構えている時間がとても好きだ。

私は一年の間に、だいたい2000枚くらい写真を撮ります。
記録的な「ご飯日記」をはじめ、きれいだな、と思った時も
いつでもシャッターを押したいと思う。
今はコンパクトデジカメ(Lumix)にお世話になっているけれど
一眼レフ買ったら大学にも持って行きそうな気配です
今通っている大学は、自然が豊かで風の流れがとてもキレイなのです。
今のところカメラ好きのシラガ先生や、いつも図鑑を貸してもらう分類学の先生に
カメラを触らせてもらってばかり。

写真を撮ることが好きなくせに
実は自分が写っている写真はとても少ないです。
写真に「撮られる」ことがなんか嫌だったんですよ。
20代の半ばくらいまで。
なんだか生きてる証拠が残る気がしてたんですよね。
今考えると、カメラは生きてることを実感するためのものである反面
自分は全く世界から無い存在でありたかったのかも知れない。
まるで自傷行為みたいな。

そんな時代を過ぎて、今は今しかない自分も含め
今しかない瞬間をカメラに収めています。
そんなこんなで、存在をめぐるまなざしの写真日記を始めました。


「存在日和。」
http://ameblo.jp/moonsheep/

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素朴な疑問・・・

日本医師会が、自民党と親しくしているのは周知の事実ですが
なぜ医療が、ここまで「改革」という名のもと
自分たちのポリシーのある「医療」ができなくなったのに
なぜ医師会は自民党を擁護し続けるのでしょうか。
自民党の間違った「改革」により、病院はつぶれ
医師は都心に局在化するようになった。
医局の引き上げ、産科の撤退
保険点数の大幅引き下げ
どれもこれも、医師としての「志」が残っているのなら
受け入れられることではないような気がします。

それとも、医師会のトップというものは
現場から離れ、医師としての若かりし頃の志さえ
忘れてしまったのでしょうか。
机上の空論や、何かの保身に走るのでしょうか
それは権力でしょうか、お金でしょうか
地位でしょうか。

医師がいなければ
医療は当然成り立ちません。
でも、医療現場の混乱や苦労を知るのは
今、現場に立つ者だけなのです。
医師は患者を治療することに
最大の努力を払うべきだと、私は思います。
患者を無視した制度や改革に、何の意味があるのでしょうか。
自民党が決めた無意味な制度に
日本医師会は権力や保守のために、患者や現場の声を無視して
屈伏するのでしょうか
それが本来の医師会の姿でしょうか。

医師会が嫌いな医師や人間が存在します。
それは私も知っています。
だけど、小さい頃から「医師会」を身近で感じてきた私は
それほど嫌悪感を抱かずにいました。
それは私が、医療現場に居なかったからです。
現場に立つようになった今 つくづく思います
医師会はその権力を、なぜ日本の医療がより良い方向に向かうことに
全力を注がないのでしょうか。
患者が苦しんでいて、現場の医師が混乱しているのにも関わらず
なぜ無意味な制度の立ち上げにその権力で反論しないのでしょうか。
きっとそこには、患者と現場を無視した世界が
存在しているに違いありません。

私の今いる医院の院長は
医師会に加盟していません。
私もその考えに賛同しています。
なぜなら 私の今いる地区の医師会が
不透明だからです。

レセプトでもそうですが
ここには「神奈川ルール」というものが存在します。
しかし、なぜその点数を切ったのかを
一切公表しないのです。
おかしいと思いませんか。
審査委員は医師会の持ち回りですが
誰が「この治療は不要と判断されるもの」と判定を下したのか
全く公表されません。
つまり、ここの保険診療の点数は
暗闇の中で切り捨てられ、その理由さえも通知しないのです。
この医療は不要と判断し、保険点数を切り捨てるなら
その理由を明確に公開する義務があると 私は思います。
そして、こんな重大なことをする審査委員は
私は投票で決めるべきだと思います。
裁判官のように、どういった請求で、どういう判断を下したのか
明確に表明して、選挙により決めるべきではないでしょうか。
選挙で決めないから、3か月交代で審査委員ごとのあいまいな基準で
切り捨てられたり、通ったりするのです。

そんな制度、明らかにおかしいと思いませんか。
先月通った請求が、今月は「不要」と切り捨てられる。
そんな曖昧な審査があっていいのでしょうか。
主治医でもないのに、病名だけでレセプトの患者の病態を判断し
治療が過剰だとか不要だとか言うこと自体がおかしいのです。
医師がいつもいうでしょう?

「本人見てないから何とも言えない」 って。

それなのに、レセプトの文字だけで、症状や病態を判断するのでしょうか。

自民党とつながっている、と言われているのは
医師会の中でもトップの、ごく一部だと思いますが
だからこそ、その権力は医師としての使命に使うべきだと思うのです。

医師会の権力は、とても大きいです。
日本の医療は、医師なしではありえないからです。
しかし、その医師の有志の集まりである「医師会」が
本当に患者のためを思って政治家とつながっているのではなくて
ごく一部の人間の保身や利益のために
存在しているような、そんな気がするのです。

私は地元で医師になりたいと思っていました。
今でも、そう願っています。
だけど私がこの先もし医師免許を取ったとしても
日本の医療制度は医療を崩壊しようとしている。
自分のプライドと、ポリシーで医療を続けられるような
そんな基盤が今の日本にはないし
ましてや本州最北端の地には
届かないような気がします。
そうすると、たとえ医師になっても
青い森に帰ることは、難しいなあと考えるのです。

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今日、久しぶりに加藤諦三の本を買いました。
「大人になりきれない人の心理」(PHP出版)です。

この本を読んで、なるほどなーと思う事が沢山あり
妙に自分自身と他人に納得してしまいました。

今、生きることが辛い大人が沢山存在しています。
それはどうしてだろうかと考えた時に、加藤氏は
「心が5歳のままだから」と言い切ったのです。
一瞬のうちに納得してしまいました。

5歳というのは、人格形成においてもっとも重要な分岐点だと
私は思います。それは、自我が形成されるぎりぎりのラインだからです。
多重人格(DID)になるには、少なくとも4歳までに死の恐怖を味わう経験を
しているといわれています。(注:今は自我形成があやふやで、すぐに解離して
逃避する「なんちゃってDID」も多量に発生していますが)
5歳になると、やりたくないこと、自分の好きなもの、そういったことが
少しずつ確立していくのです。
まさに、「自分」が「自分である」という存在を、自らが感じる時が
私は5歳だと思うのです。

そんな小さな5歳の時に、自分のやりたいことをのびのびとやれなかった子供
そして、そんな時に親から、社会から、環境から、抑えられて育った子供は
「やりきった」という経験を持たないまま、体だけ社会的に大人になってしまうと
いうのです。

やりきった経験がない、というのは、自分はこれだけ我慢したのに
という負の感情になっていくと、加藤氏は書いています。
私もそう思います。
ちゃらちゃらして我慢できないやつ、我慢しないで他人から簡単にそれを奪うやつ
そういうのがやたらと許せないのです。
そりゃそうですよね。自分が自分を殺してまでやらされていたことなのに
それをあっさりと奪っていかれたら
不真面目なやつを許せなくなるのが当然です。
しかし、反撃したい心をぐっとこらえて、もくもくとそれに従っていれば
世間的にも、親的にも「根気のある子」「我慢強い子」と
言われてしまうのです。

加藤氏はこんな例をあげています。

「鉛筆を無理やり削らされていた子供は、鉛筆を削ってこなかった子供にけして鉛筆を貸さない」

そりゃそうですよね。
それに対して私はもっともな子供の反撃だと思います。

そんな子供の思いを、大人になってもずっとずっと持っているというのです。

相手を許すことが出来ない。

心は5歳のままなら、それはできなくて当然だと思います。
でも、社会ではたとえば30歳なら30歳の責任を負わされる。
社会的な「30歳」を押し付けられるのです。
それは想像しただけで辛いと思います。5歳児には心理的負担が大きすぎる。
それなのに世間は社会年齢だけを基準にして
いろんなことを押し付ける。
そりゃ鬱にもなるし、自殺もしたくなるわ。
本人が悪いわけじゃない。

だけど、愛されて育った、心も体も同じように年齢を重ねることができた子供は
そのような人が理解できません。
いつまでたっても理解できず、理解できないどころか
精神的にダメな人とまで色眼鏡をかけることもある。

だけど精神的にダメなのではなく


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誰かに分かってもらうことは必要なことだろうか?
自己満足に溺れずにいるためには
誰かに分かってもらいたいと思う
けれどもそれは何と傲慢で身勝手な思いだろうか。

すべてを打ち明けたら 言った本人は楽になれるかもしれない。
だけどその重さは打ち明けた相手に移動する。

そう 
分かってもらいたい人と受け止められる人間というのは違うのだ。
時に人間というものは大きな間違いを犯す
分かってもらいたい人が受け止めてもらえる人だと
勘違いすることだ
だけどそれは違う きっと違う。
その思いはイコールであれば幸せなことだが
そうではない場合が多いのではないだろうか
それでも人間は 分かってほしい人に受容されたいと願い
叶えられずに失望する。
なんて傲慢なんだろう。
理解してほしいという欲求は古典的な人間の欲求であると同時に
最も傲慢なことではないのか。

理解を求める、といろいろな所で「受容」を強制されそうになる現代
私たちが本当に受容しなければいけないことはなんだろう
本当に理解し、受容しなくてはならないのは
アンビバレントな自分自身ではないだろうか

相手に自分を受け止めてもらいたくて
まるで映画のパンフレットのように
自分自身の説明を付け加えたくなる
だけどそれはきっと
上記のように傲慢で身勝手なものなのだ。
私も時々やりそうになる。

だけどそんな事を 繰り返し 繰り返し
理解を求めるという行為を
ただの押し付けではなく 願いでもなく
分かり合えるという形を取ることができたら
きっとそれは政治の世界でも 私たち個人個人の小さなつながりでも
価値のあることではないでしょうか

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誕生日が今年もやってきました。
この一年間、何も変わらず、だけど確実に自分の中で
きっと何かが変わっていったのだと思う。

沢山の人達にお世話になって
沢山の人達に迷惑をかけました。
そして私は、沢山の人達に支えられながら
今日もこうして生きています。

今日で32歳になりました。
もう、出会ったころの古池よりもずっとずっと年をとった。
私は本当にこうして 色んなものを犠牲にして32歳になった。
この32歳は、どんな一年になるだろう。
私にとって、忘れられない32歳でありますように。

そして
強く、優しく
一生懸命、風のように生きていきたい。

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今日の大学の講義は、選択科目の「医療と経済」。
迫力とメリハリのある講義をする教官なので、毎回楽しく講義を
聞いています。(教科書盗まれた・・医療系大学で窃盗ってどうなんでしょう)

医療と経済、という科目は、今の医療システムを経済面から検証し
問題点や今後の課題などを考えていく科目です。
講義の中で、「経済学者は医師が嫌い」という話をよくします。
日本の医療は診療点数という、国が決めた診療報酬で定められています。
つまり、競争の原理のない、社会主義だというのです。
確かに、私が今働いている精神科でもそうです。
どんなによい治療を提供する医師も、テキトーに1分で診察終わらせて

「あ、かわりないね?じゃ薬同じのだしとくから。じゃ2週間後ね」

なんて風に患者をさばいて、空いた時間のんびり海外旅行している医師だって
結局同じ給料が国から支払われるわけです。(あくまで開業医の場合)

確かに、医療関係者として、学生として、一国民として
この部分だけを見ると納得がいかない。
患者一人一人に時間をかけて診察し
結果的に一日の患者数が少ない医師の給与は低くなり
テキトーに患者の目も見ずに「かわりないね?」なんていって
一日何十人、百人単位でさばく医師の報酬はどーんと跳ね上がる。
確かにおかしい。何かがおかしい。

医師には患者として、誰もが「丁寧に、時間をかけた診療」をしてほしいはず。
だけど、日本の保険点数制度がそれを許していない。
そんな気がするのです。
患者に時間をかけなければかけないほど、収入が入るなら
医療ミスも増えるだろうし(じっくり見なければ分からないことに気付かない)
テキトーに流し診察が増えるのも事実だろう。
「真面目にやっている人間が馬鹿を見る社会は、経済の観点からみたらありえない」
と言います。私もそう思います。

だけどもし、これが経済学者がいうように
競争の原理を導入したらどうなるのだろうという不安は
かならず付きまとうのではないかと思います
今まで私たちは、あたり前のように診療報酬を支払い
どこに行っても、どんなえらいお医者さんでも、同じ料金で治療が受けられること
それを限りなく「いい方へ」と解釈してきた
だけど今そんな医療制度は崩壊しようとしている。
医師を釣るのは「診療報酬」しかない、と経済の先生は言う。
何かをやってもらうためには、診療報酬を加算するしか
日本では方法がないのだそうだ。

医師は花形職業で
今までは倫理感や使命感に燃える、「お医者さま」が多かったように思う。
だけど時代は移り代わって、その子供、さらに子供、と
まるで世襲制のようになってきているふしも見受けられる。
自分の経験や能力に関係なく、ベテラン医師と同じ扱いが、点数上では受けられる。
それにつられて、ただ単に地位と名誉とお金ほしさに医学部を目指すものや
ただ単に、高度経済成長のなごりで
花形職業=医師 勉強ができる=医学部
というようにレールを敷かれる人もいるだろう。

話がそれましたが
医師ははっきり言って、真面目にやったらとてつもない重労働で、責任と、重圧
そして医師という使命感がなければ勤まらない仕事だと思うのです(真面目にやればだが)
そしてその医師のひよこの研修医たちは、報酬と待遇だけで研修先を選ぶようになってきた。
いくら地方で金を積んだって 地方というだけで嫌煙される。
私の地元の病院でも、「うに御飯が毎日食べられます」だとか
そういうどうでもいいようなことで医師を釣っているけれど
根本的な問題はそこじゃないだろうと言いたい。

私は医療改革は失敗だったと思う。
いや、はじめから日本の医療制度は間違った方向目指して進んできたのかもしれない。
マイナー科に対するいじめや、メジャー科に対する手厚い報酬制度もそう。
レセプトだって、どんなに理不尽に切られたって、意義申し立てもできやしない。
(全部が全部そうではないですが、たいていは無駄です)

なぜ医療は崩壊したのでしょうか。
どうして絶対につぶれない三種の神器の一つのような
病院が経営破たんするのでしょうか
それはやはり、私は診療報酬の点数制度だと思います
とにかく患者をベルトコンベア式にさばかないと成り立たない
そして医療関係者の給料高すぎ。
このところどーもうちのクリニックで医師募集出しても
この間国試受かったばかりのぴよぴよなのに
「月90万」とかぬかすんですよ。(マジで)
お前経験ないのにそんなに偉いのかよ!みたいな・・・
薬や症状や対処なら、うちのスタッフの方が医師免許なくとも知ってるわ、って
本気でそう思うこともあります
あとは精神科医募集って言ってるのに、産科のうつを勉強したいからと言って
応募してくる勘違い他科医。
どーせそのうちいなくなる、というような、精神科医でも何でもない医師に
PTSDの患者が長丁場でこの先生に心を開こう!と思うわけがないのに・・・

日本の医療費が高いというけれど
別に高くたっていいじゃないの
高い=高度医療 っていう仕組みにしたのは国です
今更高度医療を行って「医療費高い」って言うのはおかしいと思うのですよ
だって自分が決めた値段でしょう?と言いたい。
それに、ちまちま患者一人一人が受診控えたり、安いジェネリックにしたりしたって
難病の患者が一人大手術なんかしたら、その分水の泡なんですよ。
意味がない。

日本の方向性って
誰がいつ「間違いだ!」って高らかに宣言して
修正してくれるんでしょうね
税金だってちっとも安くなんかないのに。






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精神科と心療内科と、いったいどこが違うのでしょうか
実は今年は医療法の改正があった年で
新たに標榜科名の前に、対象者を記載することが認められたのです。
この「標榜科」とは、内科とか、外科とか、厚生労働省が定めた診療科のことで
医師免許さえあれば、その中のどれでも看板に掲げてよいことになっています。
ただし、あくまでも厚生労働省が定めた診療科のうちから選ばなければなりません。
勝手に「ストレス科」とか、「頭痛科」などという看板をあげてはいけないのです。
これは、医療法として定められている「広告」にあたるものだからです。
病院の看板も、もちろん「広告」です。

標榜科名の前に対象者をつける、というのは「小児歯科」などのように、対象(専門とする)
患者さんの大まかなものをくっつけた標榜をしてよい、ということです。


今私の勤めているクリニックでは、この外看板をどうするかでちょっともめています。
私と院長の考えは、

「いつ無くなるかもわからない心療内科という、内科の看板はあえて掲げず、
思春期・児童と女性を対象としたクリニックであることを推し進めたい。
児童思春期精神科・女性精神科でいきたい」

というものです。

しかし、カウンセリング会社の社長(系列会社ね)は
「精神科だとイメージ悪くて客が来ない。心療内科というソフトなイメージを残し、
患者を増やすために心療内科は出し続けるべきだ」

というのです。

いるんですよね、こういう勘違いというか、偏見をお持ちでいらっしゃる方。
心療内科医は内科ですよ。内科医って書いてあるでしょ。

だけど、どうしてここまで出来上がっちゃったんでしょうか。
こころのことは、心療内科医、みたいなことが。

昔、いまほど神経症、ヒステリー(何度も言いますがキャーとかキーとかいう
やつじゃないからね)がメジャーな疾患ではなく、というより疾患だと認識されずに
ただの心の弱さだの気がふれただとか、そういった差別的に「気のせい」として
取り扱われていたころ
精神科のメジャーは精神病でした。今でも本気の精神科医は精神疾患を治したい
精神病を治したい、と思っているかもしれません。
精神病とは、統合失調症(昔の精神分裂病です。何を分裂させたか不明なネーミングだが)
や躁鬱病なので、見た目にも「この人の中で何かが起こっている」的なものを
感じさせる疾患を対象としていました。

今でいうPTSD、神経症、リストカッターはどうしていたかというと
神経症は必ず身体症状がでるので
内科に行っていたわけです
頭痛がする、お腹が痛くなる、食欲がない などなど
当然そういった人たちはとりあえず体の具合が悪いので内科に行きますよね
内科の先生はもちろん、どこか器質的に悪いのかと思い治療します
胃が悪いのかな?それとも頭に何かできているのかな?
でも何度調べても何も出てきません。
だけど症状は止まりません。お薬はどんどん増えていきます。
患者さんは診察で身の上話が主で症状について辛いという話をあまり
してくれません。
症状が出ているときだけ、器質的な変化が認められるのです。
それ以外は普通の人です。

とある内科の先生は、これが心の問題ではなかと思いはじめました
でも、当時の精神科は精神病圏の患者をみることがステータスで
神経症圏の患者を診る精神科医の先生は邪道だったのです。

これがいわゆる「心身症」のはじまり、心療内科の始まりだと思うのです。
心身症を治す。これが心療内科のターゲットなのです。
心身症とは心が原因で体に症状が出ることだといわれますが
ぜんそくや過敏性腸症候群などが「心身症」に相当するものです

そう、今の心療内科は
専門外の患者に追われているうちに
自分の専門さえも忘れて にわか精神科医としての
活動をせざるを得なくなった
そしてそのうち 自分たちこそが そういった疾患を見る科であるような
錯覚を起こしているのではないだろうか。

精神科医のやるべきことを、内科医がやる。
そしてだんだん詳しくなって、心療内科医と名乗る。
心療内科の研修なんて、ポリクリでなかったのに。
見よう見まねで大きくなってきたような、そんな印象があるのです。

だけど
こんなにも曖昧な科ってあるでしょうか。
心を治療する内科。心療内科。内科は外科手術をしない、
内蔵の病気を診る科。矛盾してます。
心は精神とイコールであるなら、精神内科はどうして無いのでしょうか。

それは日本人がこびりつけてきた「精神」という言葉のイメージが
悪すぎるからです。
精神論、という言葉もありますが、精神とは軍隊を連想させる
日本独自の根性文化に根付いているような気がするのです
それが精神というイメージ。
心が弱い。精神科行く人=心が弱い
精神科=おかしい人
そうじゃない。

完全にそうじゃない。
精神とはこころ。心をつかさどる脳の働き。
脳の動きや記憶に関係するもの。
人間には記憶がある。その記憶が体を無意識に支配することがある。
それこそが精神病以外の、精神科の真骨頂だと思うのだ。

心療内科は
けして心をみているわけではないと思うのです。



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妙な夢で目が覚めた。

夢は叶えられない願望や、記憶のつじつまを合わせる為に
人間の脳が行う倉庫整理みたいなものだという。

私はどうしてこんな夢を見るんだろうか?
古池から電話がかかってくるけれど
私は話したいことがあるのに電波が途中で途切れてしまう。
かけ直そうにも非通知でかけられない。
ただ、私が生きてここにいることだけ伝わっただけ。
たったそれだけの通話。

もっと話したいことがあったのに。

謝りたいことも、感謝したいことも山ほどあったのに。

だけど最終的に私は一番
古池に伝えたいのは

今、生きてここにいます

私はここにいますと

伝えたいんだろうなあ。


キンモクセイの花が散る前に。


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昨日とある女の子が

「引っ越ししたいな~ ペットが飼えるところがいいな~、家に帰ってもさみしいから」

と言いました。

私が、「ペットは大変だよ~。どこにもいけないよ~」
というと、

「えっ、家に置いておいたらだめなの?それっていたずらとかするから見てないと
だめってこと?」

というので

「餌だってあげるでしょ、それに、生きているんだから部屋に閉じ込めておくこと
できないじゃない。見ててあげないといけないんだよ」

と、さらに言うと

「ペットホテルとかに預けるっていうのは?」と。
(お前は週三日しか家に帰らないから家に閉じ込めておくか誰かに預けるつもりなのか)

なのでさらに私が

「ペットホテルだって、普段からちゃんと飼ってるならいいけど、普段放置したあげく
突然預けたって駄目だよ~。それに、万が一ってこともあるし・・・」

というと、彼女の口から衝撃的発言が・・・


「だって、別に死んじゃったりしても、保障してくれるでしょ!?」


・・・・・・・あーた。

保障って、死んじゃっても
「あ、すいません、弁償します。30万の犬ですよね?じゃあ30万弁償します」 
って言って君は納得するのか。動物はモノじゃないんだっつうの。
家族が万が一旅行で死んでも、「事故は保障があるから」と言われて素直に納得するのか!?

でも、この発言から彼女は完全なる「動く人形」として動物がほしいと言っているということが
わかりました。

一人暮らしで、部屋に帰ってもさみしいから、部屋に帰ると動くイキモノがほしい。
かわいいところだけをいいとこどりしたい。
死んだら換わりを買えばいい。

きっとこういうタイプの人間が

「飽きたから」と言って動物を簡単に捨てたり、ほうり出したりするのだろう。
なんというエゴだ。

小さいころに、動物を飼うこと、生き物を命を自分の手が握ること
自分が世話をしなければ死んでしまうということ
死ぬということは、もう二度と会えない喪失感と一生付き合うということ
そういうことを学ばなかった、もしくは親により避けて生きてきたのだろうなあと
思いました。

命の大切さは
残酷なようだけど、実際にその手で、体で感じなければ
理解することはできないだろうし
想像すること、共感することさえ不可能だろう。
しかし そういったことは現代社会では
「経験しなくていいもの」の部類、そう経験しなければしないで
大したことないと思われているものになってしまったのではないだろうか。

命とはとても重く
その手から放したら二度と戻ってくることはない。

生き物は、「死んでしまうとかわいそうだから」と言って、飼うことを反対する親や
そう思って飼わない人も多いだろう。
でも、私はそれは違うと思うのだ。

生きているものは、死んでしまう。それが当たり前だ。
だけど、「死んでしまうから」かわいそうと言って避けるのではなく、
私たちが世話をしなければ死んでしまうからこそ、大切に、大切に
その命を守り、世話していかなければならないものなのだ。
そこで学べるもの、経験できることは、人間として大切なものがぎっしり詰まっている。

命とは、なんとはかないものだろう。

シュバイツァー博士はそういったけど
それをただの「悲しい現象」としてのみとらえるのではなく
それを取り巻く様々な心の動き、弱いものを守る気持ち
そういったことを学ぶことが 大切なのではないでしょうか。
そして大切な命と過ごした時間は、お金などでは決して買えない
かけがえのない時間と経験だと 私は思います。


彼女が動物を飼うのは、まだまだ早いなあ・・・


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昨日嵐の中映画を見に行きました。
「闇の子供たち」という、人身売買、臓器売買、児童買春など
アジアの子供たちの現状にこういうものがあるんだ、という
問題を提起している梁石日原作「闇の子供たち」の映画化です

これは、けして舞台となっているタイ国を責めている映画ではないと
監督がインタビューで話していました。
そしてただ「かわいそう・・・」と センチメンタルな気分にさせるものでも
ありません。
確実にこの映画は、今の社会に一石を投じるものだと思うのです。
それは真実の物語だからです。

子供の命や、子供の体が大人の欲望のままに欲される。
それはまるで、生きているけれども「物」の扱いです
日本人だって、日本以外の諸外国の大人だって
それに加担していることがこの映画で分かります
生活のために子供たちは自発的に体を売っているわけではありません。
売春宿に親や大人に「生活のため」として
野菜のように売られていくのです
そこで幼児性愛者の相手を強いられ
HIVに感染し、AIDSを発症するとゴミ袋にいれて捨てられる。
臓器移植のために、「いきたまま」臓器をとられ
いろんな国の人に移植され、臓器をとられた子供はまた
ごみのように捨てられる。

アジアの子供は
なぜここまで劣悪な扱いを受けるのか。
貧困層やマフィア、そして警察までが一部加担している
この闇は
なぜアジアだけいつもクローズアップされるのでしょうか。
お金を払えば、何もかもが手に入る時代
それがきっと誰かを深く深く、傷つけることになっていること
そしてお金の価値がどういうものなのか
命の価値とはどういうものなのか

私たちは、目の前のお金が「物」に変わってしまったら
その物の価値を真に考えることが無いのかもしれません。
これはお金で買っていいものなのだろうか
そして これはお金を払って買うべきなのだろうか
この物の価値は、たったこれっぽちの紙で済むものだろうか

お金はとても便利なものです
だけど、お金で買えない価値があるということ
それは一体誰が教えてくれるのでしょうか

お金の流通やマーケットは
経済学が教えてくれます
だけどその流れるものの価値や大切さは
一体どこで誰が教えてくれるのでしょうか。

小さいころから
何かを手に入れるためにはお金「だけ」があればいいと
そういう世界で育ったらきっと
お金さえあれば何でもできるような
そういう観念になってしまうかもしれません。

お金で買えないもの

お金で買ってはいけないもの

値段のつかないもの

かけがえの無いもの

代わりがないもの。

それを教えることができるのは
私たち大人だと思うのです。
子供は何も知らない。
でも、何も知らないということは
何でもインプットされるということと同じだと思うのです

まっさらな心でも
傷つくのには十分です
彼らは知識で傷つくのではありません。
本能で傷つくのです
何も知らないうちから
本能の悲しさを与えてはいけないと
思うのです
それは本能の怒りとなり
闇となりまた次の世代へと
ただ、ぐるぐる回ってしまうだけなのですから。

「闇の子供たち」
http://www.yami-kodomo.jp/

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