ことばは矢のように、あなたのこころに突き刺さる。
あやふやで不安になることばも
その傷が癒えることばも。
めーさんの誤解を訂正したり伝えようとしないと
すっぱりと決めて今日からは普段のもとむらに戻ります。
めーさんの前で言いたいことを言えない私は
やはり自分の幼少のころの父と重ねているのだと思う。
所長より、鈴先生より、誰よりも言いたいことが言えない。
それがめーさんで、明らかに二人きりでは
何言われるかにビクビクしてしまう。
怖い。でも大丈夫。
怖いけど大丈夫。その繰り返し。
二人でいる時は思いきり閉じ込めて
友達が来たら急にそれを開放する。
そうすると、心の解放バルブの開ける量が
微調整できなくなって
言わなくてもいいことまで、口から出てしまう。
そんなこと、言うつもりなどないのに。
言いたくなどないのに。
服部祐民子が歌っているように
毎日
自分の一番好きな自分でいたい
でもそれが出来ないから悔しいんだろう
瞬く間に人は変わり
瞬く間に人は戻る
あなたに会いたい気持ちと
あなたに会えない気持ちは
おんなじもので出来ている
だから私は
会わないより会う
放さないより、放つ。
すっぱりと決めて今日からは普段のもとむらに戻ります。
めーさんの前で言いたいことを言えない私は
やはり自分の幼少のころの父と重ねているのだと思う。
所長より、鈴先生より、誰よりも言いたいことが言えない。
それがめーさんで、明らかに二人きりでは
何言われるかにビクビクしてしまう。
怖い。でも大丈夫。
怖いけど大丈夫。その繰り返し。
二人でいる時は思いきり閉じ込めて
友達が来たら急にそれを開放する。
そうすると、心の解放バルブの開ける量が
微調整できなくなって
言わなくてもいいことまで、口から出てしまう。
そんなこと、言うつもりなどないのに。
言いたくなどないのに。
服部祐民子が歌っているように
毎日
自分の一番好きな自分でいたい
でもそれが出来ないから悔しいんだろう
瞬く間に人は変わり
瞬く間に人は戻る
あなたに会いたい気持ちと
あなたに会えない気持ちは
おんなじもので出来ている
だから私は
会わないより会う
放さないより、放つ。
一生懸命伝えたい気持ちになっていたけど
もういいや。
人に何か伝えたいなんておこがましいことなんだ。
たぶんきっとそうなんだ。
伝えたいとか、判ってほしいとか
もうほんと、無意味な気になった。
たとえ伝わらなくても誤解されててもいいや。
意図してない風に捉えられてても
もうそれは仕方ないことなんだろうね。
そこを伝えよう、本当はこうなんだって言いたい、と
一生懸命頑張ったところで
その人のベクトルが同じ方向を向いていなければ
伝えたいと思うことさえ、伝わってない。
ただウザいだけになる。
何をしたいのかが分からない相手には
何のつもりかも分からないだろう。
ここだって、見るはずなんかないのに。
それでも伝えたくなった。
アホです。
私は。
もうやめよう。
伝わらなくたっていい
判ってもらえなくたっていい
そこにいられるなら
もうそれ以上何も望みません。
ごめんね、めーさん。
私が間違ってた。
伝えたい、と思った私がアホでした。
伝えたところで、きっと何の意味もなくて
ただ、聞いてほしいだけになってしまい
ああ、人間って超無意味な存在で
無意味なことするんだなって
そう、思うだけでした
もういいや。
人に何か伝えたいなんておこがましいことなんだ。
たぶんきっとそうなんだ。
伝えたいとか、判ってほしいとか
もうほんと、無意味な気になった。
たとえ伝わらなくても誤解されててもいいや。
意図してない風に捉えられてても
もうそれは仕方ないことなんだろうね。
そこを伝えよう、本当はこうなんだって言いたい、と
一生懸命頑張ったところで
その人のベクトルが同じ方向を向いていなければ
伝えたいと思うことさえ、伝わってない。
ただウザいだけになる。
何をしたいのかが分からない相手には
何のつもりかも分からないだろう。
ここだって、見るはずなんかないのに。
それでも伝えたくなった。
アホです。
私は。
もうやめよう。
伝わらなくたっていい
判ってもらえなくたっていい
そこにいられるなら
もうそれ以上何も望みません。
ごめんね、めーさん。
私が間違ってた。
伝えたい、と思った私がアホでした。
伝えたところで、きっと何の意味もなくて
ただ、聞いてほしいだけになってしまい
ああ、人間って超無意味な存在で
無意味なことするんだなって
そう、思うだけでした
直接会って話すのは
北先生くらい心を許してないと難しい。
せっかく目の前にいて、誰も他にいないのに
結局言いだせないままでいる。
外堀から核心に誘導しようと試みても
外堀の話に「興味無い」と言われてしまったら
核心へ話を誘導することが出来ない。
そんな感じで
結局昨日も何も言えないまま。
なんとなく「その辺り冷めてる」と言われた時
あー、そういうことじゃないんだよなあと思っても
それを説明することができなくて
結局それを言い出せなくて
ここに書いてはみたけれど。
何となく違う風に伝わってるような気がしたとき
メールもできないし
直接話すこともできないなら
どうやって伝えたらいいですか。
↓みたいなことを。
北先生くらい心を許してないと難しい。
せっかく目の前にいて、誰も他にいないのに
結局言いだせないままでいる。
外堀から核心に誘導しようと試みても
外堀の話に「興味無い」と言われてしまったら
核心へ話を誘導することが出来ない。
そんな感じで
結局昨日も何も言えないまま。
なんとなく「その辺り冷めてる」と言われた時
あー、そういうことじゃないんだよなあと思っても
それを説明することができなくて
結局それを言い出せなくて
ここに書いてはみたけれど。
何となく違う風に伝わってるような気がしたとき
メールもできないし
直接話すこともできないなら
どうやって伝えたらいいですか。
↓みたいなことを。
新型インフルエンザ関連の報道が連日なされていますが
どうも報道中に耳障りな言葉がある。
それは
「今、PCR検査を行っているところです」
「PCR検査を受けて下さいね、ということになりました」
PCR検査を受けて下さいね、ってまるで
「人間ドックを受けて下さいね」と同じノリで報道されているのは
報道する本人がPCRが何かが分からない故だろう。
PCRは、「ポリメラーゼ・チェイン・リアクション」の頭文字をとったもので
ポリメラーゼ連鎖反応という意味です。つまり、反応させるやり方です。
と、ポリメラーゼもチェインも分からない人に説明したところで
「???」となり、結局「何だかよくわかんないけどすごい検査なんだ」
という印象しか受けず、しまいには冒頭のように
「あなたもPCR検査を受けてみなさいよ、ということに・・・」
なんてなってしまうのだ。
PCRは人が受けるものではないので、アナウンサーのこの一言で
ドン引きした研究者は私だけではないだろう。
ではいったい今この世間を騒がせている、いかにもすごそうな
PCRとは一体何なのだろうか。
簡単に説明すると、私たちは個人を特定するための情報は、DNAという
遺伝情報が詰まった本のようなものに書かれています。
この本の全てのページが一致すれば、同一人物と特定されます。
遺伝情報が全く同じ=同じ人間、ということです。
同じ人がいてもいいんじゃないか?と思いますが、最近は細かく、詳しく
その本の内容の一致を確認できるようになっているので、その確率は全
世界の人口、つまり50億分の1以下になっています。ということは、
地球上で一人だといえます。
新型インフルエンザのもつDNA、つまり遺伝子情報のつまった本の
ようなものが、何ページ一致するかを調べるために、PCRを使います。
ちょっとのDNAでも、連鎖反応によって大きく増やすことができるので
DNAを含むものであれば量が少なくても大丈夫です。
ほんの少しの体液(血液)でも、個人が特定できるのはこのためです。
今回の場合も、少しの体液を採取して、PCRにかけているのでしょう。
どうしてではPCRにかけるのか。(PCR検査を行う、というような使い方
ではなくPCRにかける、といった使い方をします。PCRをさせる機械にか
けるので)
それは、少しの本の断片では、詳しく調べるには小さすぎるので、大量に
複製する必要があります。
ここで、連鎖反応を使ってDNAを倍々に増やしていく。これがPCRです。
小さい本は文字が小さくて読みにくいけど、PCRを使ってそれを5倍、10倍に
すればそれだけ文字も大きくなって読みやすく、解読しやすくなる、といった感
じですかね。
そうやって大きく見やすくした本(DNA)が、「新型インフルエンザ」という本(DNA)
とどのくらい一致するかを比較するために使われるのが、このPCR法と呼ばれる
手法なのです。(手法というか、反応方法というか)
といったことなので、「あなたPCR検査を受けて下さいね」というのは
日本語としてどうなのか。
「PCRをかけて詳しく検査する必要があります」ならわかるけど。
メディアで「PCR、PCR]と連呼していると
どんだけすごい検査なのかと思ってしまいますが
実は正しい言葉の使われ方をしていないのに「すごい方法」みたいな
ことになっています。だけど、けしてそうではないと思うのです。
メディアという舞台で、言葉だけが独り踊っているのです。
私たちは、そこで一緒に踊ってはいけないと思うのです。
それは自らが踊っているのではなく、踊らされているのですから。
このようなことがあると、そのうち病院に行って
「私もPCR検査受けたい!」
なんていう患者さんが出ては来ないだろうか・・・
どうも報道中に耳障りな言葉がある。
それは
「今、PCR検査を行っているところです」
「PCR検査を受けて下さいね、ということになりました」
PCR検査を受けて下さいね、ってまるで
「人間ドックを受けて下さいね」と同じノリで報道されているのは
報道する本人がPCRが何かが分からない故だろう。
PCRは、「ポリメラーゼ・チェイン・リアクション」の頭文字をとったもので
ポリメラーゼ連鎖反応という意味です。つまり、反応させるやり方です。
と、ポリメラーゼもチェインも分からない人に説明したところで
「???」となり、結局「何だかよくわかんないけどすごい検査なんだ」
という印象しか受けず、しまいには冒頭のように
「あなたもPCR検査を受けてみなさいよ、ということに・・・」
なんてなってしまうのだ。
PCRは人が受けるものではないので、アナウンサーのこの一言で
ドン引きした研究者は私だけではないだろう。
ではいったい今この世間を騒がせている、いかにもすごそうな
PCRとは一体何なのだろうか。
簡単に説明すると、私たちは個人を特定するための情報は、DNAという
遺伝情報が詰まった本のようなものに書かれています。
この本の全てのページが一致すれば、同一人物と特定されます。
遺伝情報が全く同じ=同じ人間、ということです。
同じ人がいてもいいんじゃないか?と思いますが、最近は細かく、詳しく
その本の内容の一致を確認できるようになっているので、その確率は全
世界の人口、つまり50億分の1以下になっています。ということは、
地球上で一人だといえます。
新型インフルエンザのもつDNA、つまり遺伝子情報のつまった本の
ようなものが、何ページ一致するかを調べるために、PCRを使います。
ちょっとのDNAでも、連鎖反応によって大きく増やすことができるので
DNAを含むものであれば量が少なくても大丈夫です。
ほんの少しの体液(血液)でも、個人が特定できるのはこのためです。
今回の場合も、少しの体液を採取して、PCRにかけているのでしょう。
どうしてではPCRにかけるのか。(PCR検査を行う、というような使い方
ではなくPCRにかける、といった使い方をします。PCRをさせる機械にか
けるので)
それは、少しの本の断片では、詳しく調べるには小さすぎるので、大量に
複製する必要があります。
ここで、連鎖反応を使ってDNAを倍々に増やしていく。これがPCRです。
小さい本は文字が小さくて読みにくいけど、PCRを使ってそれを5倍、10倍に
すればそれだけ文字も大きくなって読みやすく、解読しやすくなる、といった感
じですかね。
そうやって大きく見やすくした本(DNA)が、「新型インフルエンザ」という本(DNA)
とどのくらい一致するかを比較するために使われるのが、このPCR法と呼ばれる
手法なのです。(手法というか、反応方法というか)
といったことなので、「あなたPCR検査を受けて下さいね」というのは
日本語としてどうなのか。
「PCRをかけて詳しく検査する必要があります」ならわかるけど。
メディアで「PCR、PCR]と連呼していると
どんだけすごい検査なのかと思ってしまいますが
実は正しい言葉の使われ方をしていないのに「すごい方法」みたいな
ことになっています。だけど、けしてそうではないと思うのです。
メディアという舞台で、言葉だけが独り踊っているのです。
私たちは、そこで一緒に踊ってはいけないと思うのです。
それは自らが踊っているのではなく、踊らされているのですから。
このようなことがあると、そのうち病院に行って
「私もPCR検査受けたい!」
なんていう患者さんが出ては来ないだろうか・・・
非日常から帰ってきました。
今の私にとってはかなりの非日常なのだけど
元をたどるとこれが日常だったような気もします。
青い森のほんとに近くまで行きながら
私はことしも青い森には足を踏み入れることはなかった。
そのかわりこの10年以上
私の周りに変わらず存在している仲間たちが
私の存在を確かに感じさせてくれる。
そんな連休を今年も過ごすことができました。
会えなかったたけちゃん、また暇みつけて会えるといいね。
そして今年も
私が人生で尊敬する恩師の3人のうちの一人
(のうち二人は同じ苗字なんだけど)
と久ぶりに再会してきました。
北先生の話もしましたよん。
あいかわらずしゃきっとしていて
話す内容はしっかり筋が通ってて
私の尊敬する先生の一人です。
また会えて良かった。
色んな人がいて
色んな事を言う。
色んな考え方があって
色んな思いがある。
私は
その中から取捨選択をしなければならないし
自分の道を探さなくてはならない。
色んな人が色んな事を伝えるけれど
どれも間違いではなくて
どの道もきっと
その人にとって正しいし
正しかった。
私は
私の道を選んで進む。
たとえ青い森を捨てても。
さよなら、私の青い森。
今の私にとってはかなりの非日常なのだけど
元をたどるとこれが日常だったような気もします。
青い森のほんとに近くまで行きながら
私はことしも青い森には足を踏み入れることはなかった。
そのかわりこの10年以上
私の周りに変わらず存在している仲間たちが
私の存在を確かに感じさせてくれる。
そんな連休を今年も過ごすことができました。
会えなかったたけちゃん、また暇みつけて会えるといいね。
そして今年も
私が人生で尊敬する恩師の3人のうちの一人
(のうち二人は同じ苗字なんだけど)
と久ぶりに再会してきました。
北先生の話もしましたよん。
あいかわらずしゃきっとしていて
話す内容はしっかり筋が通ってて
私の尊敬する先生の一人です。
また会えて良かった。
色んな人がいて
色んな事を言う。
色んな考え方があって
色んな思いがある。
私は
その中から取捨選択をしなければならないし
自分の道を探さなくてはならない。
色んな人が色んな事を伝えるけれど
どれも間違いではなくて
どの道もきっと
その人にとって正しいし
正しかった。
私は
私の道を選んで進む。
たとえ青い森を捨てても。
さよなら、私の青い森。
なんだかとってもぐったりしていて
風邪のせいもあるのかな?週末はすっかり寝て過ごしてしまった。
何だか起きる気力もあんまり無い感じで
火曜日のお昼にある試験、大丈夫かなあ、という感じです・・・
何でこんなにぐったりしてるんだろ?
それから、「精神的に弱い」とは、どういうことを指すんだろうとか
わけのわからないことを考えてみたりして。
私は精神的に弱い方なんだろうか。
自分では、昔は弱かったのかもしれないけれど
今はそんなに前ほど弱い気はしない。
弱いってどういうことだろう?
生きていけないことかなあ。
対処しきれないことかな。
私は自傷行為もしないし
かと言ってその場からも逃げない。
弱いってどういうことを指すんだろう?
泣かない=強いなら
私はすっかり弱くなったと思う。
だけど、私はそうではないと思っている。
泣くことと弱いことは、また別の話だと思うのだ。
感情のないことが強いことを指すのではないし
泣くことが弱さではないとも思う。
だけど泣くのは子供のすることのように
世間では認知されていて
大人が泣いたらだめな世界になっているから
私が泣いたら、それは即弱い人間であるということに
なってしまう気がする。
強いというのはフラットであるということだろうか。
何事にも動じず
感情を表に出さないことが
それが精神的な強さと認定されることだろうか。
分からない。
私は辛くてもこの場から逃げ出さないし
目の前のルーチンも投げ出さない。
なのにめーさんが弱そう、というからには
そいういう部分以外のところで
弱いと感じる部分があるからだろうか。
私が色んな事を考えるから
弱いというラベルになるのだろうか
フラットであること。
それが強さであるなら
何も知らずに、なにも経験しないことこそ
強い人間を作ることになるのではないだろうか
人間は経験を積めば積むほど
色んな事を考える。
頭の中を記憶がよぎる。
それが振り幅の大きさを決めているのだと思う。
その代わり大きく振れる。はみ出さない程度に。
でもそれはけしてフラットではない。
安定してはいないんだ。
風邪のせいもあるのかな?週末はすっかり寝て過ごしてしまった。
何だか起きる気力もあんまり無い感じで
火曜日のお昼にある試験、大丈夫かなあ、という感じです・・・
何でこんなにぐったりしてるんだろ?
それから、「精神的に弱い」とは、どういうことを指すんだろうとか
わけのわからないことを考えてみたりして。
私は精神的に弱い方なんだろうか。
自分では、昔は弱かったのかもしれないけれど
今はそんなに前ほど弱い気はしない。
弱いってどういうことだろう?
生きていけないことかなあ。
対処しきれないことかな。
私は自傷行為もしないし
かと言ってその場からも逃げない。
弱いってどういうことを指すんだろう?
泣かない=強いなら
私はすっかり弱くなったと思う。
だけど、私はそうではないと思っている。
泣くことと弱いことは、また別の話だと思うのだ。
感情のないことが強いことを指すのではないし
泣くことが弱さではないとも思う。
だけど泣くのは子供のすることのように
世間では認知されていて
大人が泣いたらだめな世界になっているから
私が泣いたら、それは即弱い人間であるということに
なってしまう気がする。
強いというのはフラットであるということだろうか。
何事にも動じず
感情を表に出さないことが
それが精神的な強さと認定されることだろうか。
分からない。
私は辛くてもこの場から逃げ出さないし
目の前のルーチンも投げ出さない。
なのにめーさんが弱そう、というからには
そいういう部分以外のところで
弱いと感じる部分があるからだろうか。
私が色んな事を考えるから
弱いというラベルになるのだろうか
フラットであること。
それが強さであるなら
何も知らずに、なにも経験しないことこそ
強い人間を作ることになるのではないだろうか
人間は経験を積めば積むほど
色んな事を考える。
頭の中を記憶がよぎる。
それが振り幅の大きさを決めているのだと思う。
その代わり大きく振れる。はみ出さない程度に。
でもそれはけしてフラットではない。
安定してはいないんだ。
分析に長く携わってきて
自分が変わったと感じること。
それは、相手が自分のことを誤解しても
けしてその場で本人に対して反論しなくなったこと
だと思う。
たとえば
相手が自分の発言だと勘違いして自分を責めても
そこで「それは私が言ったんじゃないよ」とは
絶対言わない。
今それを言ったところで、何にもならないからだ。
そして、同じように、自分の意図と違うように相手が
捉えて自分を責めたりしても
決してその場で違う、と言わなくなった。
はっきりいって、そのおかげでものすごく損をしていると思う。
相手に誤解されると思う。
だけどそれでもいい、と思っている。
分析は、相手がそう取ってしまったらそれまで、なのだ。
そう思わせた自分が悪いのだ。
だから反論しない。
相手がそう取ったのであれば、仕方ない。
他人の発言が、まるで私からの発言だと取られて
怒りをぶつけられても
相手が自分が言ったかのように投影するからには
自分と相手にそれなりの関係性があるからだ。
投影せざるをえない何かを、自分が持っていたからで
相手は相手で、投影したくなる何かがあったからだ。
だから反論しない。
実生活では、けして良いことではないと思うけれど
分析やり始めてからかなり私にはこの傾向が強くなった。
どちらにしろ、相手が怒りをぶつけている時は
全部出し切る前に反論したって、誤解を訂正したって
余計相手が腹立つだけなので
すごく損をしているように、思うけれど
いつか、自分が勘違いしていた、と相手が気づくまで
私からはけして言わない。
それは、私じゃない。
と。
自分が変わったと感じること。
それは、相手が自分のことを誤解しても
けしてその場で本人に対して反論しなくなったこと
だと思う。
たとえば
相手が自分の発言だと勘違いして自分を責めても
そこで「それは私が言ったんじゃないよ」とは
絶対言わない。
今それを言ったところで、何にもならないからだ。
そして、同じように、自分の意図と違うように相手が
捉えて自分を責めたりしても
決してその場で違う、と言わなくなった。
はっきりいって、そのおかげでものすごく損をしていると思う。
相手に誤解されると思う。
だけどそれでもいい、と思っている。
分析は、相手がそう取ってしまったらそれまで、なのだ。
そう思わせた自分が悪いのだ。
だから反論しない。
相手がそう取ったのであれば、仕方ない。
他人の発言が、まるで私からの発言だと取られて
怒りをぶつけられても
相手が自分が言ったかのように投影するからには
自分と相手にそれなりの関係性があるからだ。
投影せざるをえない何かを、自分が持っていたからで
相手は相手で、投影したくなる何かがあったからだ。
だから反論しない。
実生活では、けして良いことではないと思うけれど
分析やり始めてからかなり私にはこの傾向が強くなった。
どちらにしろ、相手が怒りをぶつけている時は
全部出し切る前に反論したって、誤解を訂正したって
余計相手が腹立つだけなので
すごく損をしているように、思うけれど
いつか、自分が勘違いしていた、と相手が気づくまで
私からはけして言わない。
それは、私じゃない。
と。
まるであの頃の私たちのようだ。
覚えていない
多分、あなたはきっと。
思い出が
動き出してしまわないように
私はなるべく、思い出さないようにしたかったのに
理屈など関係なくそれは動きだす
景色やにおい、流れる空気が
一瞬で引き戻す
人間は記憶でならどこへでも飛んでいける
だけどそれはまるで舵の利かない船のようで
とても怖くなるときがある
私にとっては
積み上げていくことが出来ずに崩してしまった
積み木のような世界が「過去」である。
そして今も私は
積み木はうまく積むことができない。
積み木は不安定だけど
土台さえしっかりつくれば
いくらでも積んでいける
途中で揺れても支えがあれば
いくらでもつながっていける
脈々と受け継がれる系統樹のように
覚えていない
多分、あなたはきっと。
思い出が
動き出してしまわないように
私はなるべく、思い出さないようにしたかったのに
理屈など関係なくそれは動きだす
景色やにおい、流れる空気が
一瞬で引き戻す
人間は記憶でならどこへでも飛んでいける
だけどそれはまるで舵の利かない船のようで
とても怖くなるときがある
私にとっては
積み上げていくことが出来ずに崩してしまった
積み木のような世界が「過去」である。
そして今も私は
積み木はうまく積むことができない。
積み木は不安定だけど
土台さえしっかりつくれば
いくらでも積んでいける
途中で揺れても支えがあれば
いくらでもつながっていける
脈々と受け継がれる系統樹のように