ことばは矢のように、あなたのこころに突き刺さる。
あやふやで不安になることばも
その傷が癒えることばも。
色んな人が周りにいるけれど
試験が立て込んでいるため
最近同じ研究室に人が増えて
ちょっと息苦しくなってきてしまった。
研究室は狭いので、私は自分入れて4人が
限界なのかもしれない。
関係性がどうしても濃くなってしまうというか
距離が近い=心理的距離も近くなるのか
どうしても息がつまってしまいそうになる。
かと言って、せっかく来る人を
追い出すわけにもいかないし
となるとやっぱり
私が引っ越しするしかないのかな
と思う今日この頃。
私は人が好きだけど、人が苦手だ。
ある程度距離が近くなると
その距離感がつかめなくなる。
そのあたりが一番苦しい。
どこにどう適応させていけばいいのか
思考錯誤しているうちに疲れてしまうのだ。
過剰適応なところがあるので
合わせようとしているうちに
自分が今、何をしているのかが
急に色褪せて分からなくなる。
そしてそういう時に
人を傷つけてしまうことがある。
そういうことが、自分では判っているのに。
私は今さら
誰かに助けられたいとか
救われたいとかは思っていない。
最終的には、自分を信じて
自分の力で立ち上がるしかないのだから。
だけどね
時々「がんばれ」って
ただ、励まして欲しいだけなんだよ。
それなのに
なかなかどうして
救われたいように、見えてしまうのだろう。
試験が立て込んでいるため
最近同じ研究室に人が増えて
ちょっと息苦しくなってきてしまった。
研究室は狭いので、私は自分入れて4人が
限界なのかもしれない。
関係性がどうしても濃くなってしまうというか
距離が近い=心理的距離も近くなるのか
どうしても息がつまってしまいそうになる。
かと言って、せっかく来る人を
追い出すわけにもいかないし
となるとやっぱり
私が引っ越しするしかないのかな
と思う今日この頃。
私は人が好きだけど、人が苦手だ。
ある程度距離が近くなると
その距離感がつかめなくなる。
そのあたりが一番苦しい。
どこにどう適応させていけばいいのか
思考錯誤しているうちに疲れてしまうのだ。
過剰適応なところがあるので
合わせようとしているうちに
自分が今、何をしているのかが
急に色褪せて分からなくなる。
そしてそういう時に
人を傷つけてしまうことがある。
そういうことが、自分では判っているのに。
私は今さら
誰かに助けられたいとか
救われたいとかは思っていない。
最終的には、自分を信じて
自分の力で立ち上がるしかないのだから。
だけどね
時々「がんばれ」って
ただ、励まして欲しいだけなんだよ。
それなのに
なかなかどうして
救われたいように、見えてしまうのだろう。
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足利事件でその冤罪が確定したというニュースを
報道していた。
遺伝子検査がまだまだ精度が低かった頃
最新の科学技術として登場してきたこの技術は
曖昧さを十分に残しながらも、確実な証拠として
提出されたものが、決定打となって刑が確定したものである。
それがなぜ今、冤罪として無罪が確定したのか。
その当時の遺伝子検査技術は800分の1くらいの確率で
同じ遺伝子である、という結果を出していたことが 判っている。
これは、簡単に言うとまだまだ特定の遺伝子を細かく判断する技術が
進歩していなかったからである。
しかし、それにも関らず曖昧さがある証拠を、証拠の一つとして扱わず
完全無欠な、証拠の決定打として採用してしまったことに 大きな
間違いがあったのではないだろうか。
同じことは、精神鑑定にも言える。
精神は動かぬ証拠にはならない。
臨床に常に立ち
めまぐるしく変わる精神というものに
触れていなければ
容易に机上の理論だけでその精神を
把握しようとするだろう。
しかし、鑑定はあくまで予測値でしかない。
犯行時に戻って精神状態を鑑定するのは不可能だからだ。
あくまでも「いま、この時」を鑑定し、可能性として
審判に上げることができるだけなのだ。
しかし現在、この鑑定が絶対的な判断に使われることがある。
それはこの足利事件の遺伝子検査と全く同じ危険性を
秘めているのではないだろうか。
精神鑑定を持ち出す時
私は犯行時の意識レベルが
大きな意味を持つと考えているが
意識レベルが低かったとしても
相手が人間だとわかった場合は
裁かれるべきと考えている。
人を殺してはいけない。
それが日本の法律の根幹をなしているならば
人間と判断できたかできないかに懸かっているのだ。
正当防衛や精神疾患はその次に
環境背景として情状酌量するべきものだと私は思う。
まだ曖昧さがある科学なのなら
それ自身を結論を出すための決定打にするべきではない
と、思うのです。
科学は覆らない。
だけど、人間がその科学に追い付けない時
大きな間違いを犯すのではないだろうか。
報道していた。
遺伝子検査がまだまだ精度が低かった頃
最新の科学技術として登場してきたこの技術は
曖昧さを十分に残しながらも、確実な証拠として
提出されたものが、決定打となって刑が確定したものである。
それがなぜ今、冤罪として無罪が確定したのか。
その当時の遺伝子検査技術は800分の1くらいの確率で
同じ遺伝子である、という結果を出していたことが 判っている。
これは、簡単に言うとまだまだ特定の遺伝子を細かく判断する技術が
進歩していなかったからである。
しかし、それにも関らず曖昧さがある証拠を、証拠の一つとして扱わず
完全無欠な、証拠の決定打として採用してしまったことに 大きな
間違いがあったのではないだろうか。
同じことは、精神鑑定にも言える。
精神は動かぬ証拠にはならない。
臨床に常に立ち
めまぐるしく変わる精神というものに
触れていなければ
容易に机上の理論だけでその精神を
把握しようとするだろう。
しかし、鑑定はあくまで予測値でしかない。
犯行時に戻って精神状態を鑑定するのは不可能だからだ。
あくまでも「いま、この時」を鑑定し、可能性として
審判に上げることができるだけなのだ。
しかし現在、この鑑定が絶対的な判断に使われることがある。
それはこの足利事件の遺伝子検査と全く同じ危険性を
秘めているのではないだろうか。
精神鑑定を持ち出す時
私は犯行時の意識レベルが
大きな意味を持つと考えているが
意識レベルが低かったとしても
相手が人間だとわかった場合は
裁かれるべきと考えている。
人を殺してはいけない。
それが日本の法律の根幹をなしているならば
人間と判断できたかできないかに懸かっているのだ。
正当防衛や精神疾患はその次に
環境背景として情状酌量するべきものだと私は思う。
まだ曖昧さがある科学なのなら
それ自身を結論を出すための決定打にするべきではない
と、思うのです。
科学は覆らない。
だけど、人間がその科学に追い付けない時
大きな間違いを犯すのではないだろうか。
毎朝同じ電車に乗る。
窓から同じ景色が流れて
同じ場所に辿り着いて
いつも人に会う。
当たり前すぎてただ、通り過ぎる毎日に
なってしまいそうになる
同じ過ぎて、自分が何色なのか
自分が本当にここにいるのかが
判らなくなる
判らなくなる
本当は何一つ同じはずなど無くて
毎日が一生に一度しかないはずなのに
悩んだり躓いたり
悲しんだり嘆いたりしながら
納得いく1日を過ごせた、と
心から思える日にすることは難しい。
常に明日があるから
明日でいいやと思ってしまう。
でも明日は今日の続きではけしてなく
新しい1日だということを
私達は忘れていないだろうか
人や世界は
変わり続けるから明日がくるんだ
変わらないなんて有り得ない
だから変わっていい。
そのままでいいということは
変わり続けるなかで揺れながら
あなたは明日を生きていいのだ、と
いうことなんです
窓から同じ景色が流れて
同じ場所に辿り着いて
いつも人に会う。
当たり前すぎてただ、通り過ぎる毎日に
なってしまいそうになる
同じ過ぎて、自分が何色なのか
自分が本当にここにいるのかが
判らなくなる
判らなくなる
本当は何一つ同じはずなど無くて
毎日が一生に一度しかないはずなのに
悩んだり躓いたり
悲しんだり嘆いたりしながら
納得いく1日を過ごせた、と
心から思える日にすることは難しい。
常に明日があるから
明日でいいやと思ってしまう。
でも明日は今日の続きではけしてなく
新しい1日だということを
私達は忘れていないだろうか
人や世界は
変わり続けるから明日がくるんだ
変わらないなんて有り得ない
だから変わっていい。
そのままでいいということは
変わり続けるなかで揺れながら
あなたは明日を生きていいのだ、と
いうことなんです
一週間がまた始まる。
始まりの朝はいつもはいないめーさんがいる日。
「おはよう」という。
最近は「おはよう」と言われる。
唯一実習がない日だが
他学科は午後の講義がないため誰もいない。
めーさんと無言の時間が何時間も流れる。
修行のような午後でもある。
だけど話しかけられたり
二人で笑ったりすると修行が楽しくなる。
アホだ。
今月は毎週末が中間試験で
おまけに祝祭日も何にもない。
一番しんどい月だなあ。
誰にも邪魔されずに
めーさんとこで勉強出来ればいいのに。
人がたくさんいると息が詰まる。
どんな自分でいたらいいかを考えてしまい
演じることに疲れてしまう。
本当は 演じることなどないのに。
私は私の役を演じる前に
無駄にピエロになろうとする。
そこが自分で一番嫌だなあと思う。
私は私で、ぶれずにまっすぐ
私のままでいられたらいいのに。
めーさんとこにいるとそう思う。
私は私でいてもいいのに
私は私でいられなくなる。
いつか許されたい
許してほしいよ。
始まりの朝はいつもはいないめーさんがいる日。
「おはよう」という。
最近は「おはよう」と言われる。
唯一実習がない日だが
他学科は午後の講義がないため誰もいない。
めーさんと無言の時間が何時間も流れる。
修行のような午後でもある。
だけど話しかけられたり
二人で笑ったりすると修行が楽しくなる。
アホだ。
今月は毎週末が中間試験で
おまけに祝祭日も何にもない。
一番しんどい月だなあ。
誰にも邪魔されずに
めーさんとこで勉強出来ればいいのに。
人がたくさんいると息が詰まる。
どんな自分でいたらいいかを考えてしまい
演じることに疲れてしまう。
本当は 演じることなどないのに。
私は私の役を演じる前に
無駄にピエロになろうとする。
そこが自分で一番嫌だなあと思う。
私は私で、ぶれずにまっすぐ
私のままでいられたらいいのに。
めーさんとこにいるとそう思う。
私は私でいてもいいのに
私は私でいられなくなる。
いつか許されたい
許してほしいよ。
嘘は、嫌いだ。
いや、正確に言えば、嘘は嫌い「だった」。
嘘をつくこと自体は私は
良いことでも悪いことでもないと思っている。
その嘘で誰も傷つかず、誰かが守られるならば。
私はその嘘を指摘したり
わざわざ真実を突き詰めようとなどしないだろう。
そうだとしたらもはやそれは
薄っぺらい嘘ではなく
その言葉は
打ち放った光の矢とおんなじだ。
だけど
自分を守るためだけの嘘は嫌いだ。
誰かを傷つけてまで自分をよく見せようとしたり
真実を捻じ曲げてさえ押しとおすような嘘は
誰も幸せになどならない。
そんな嘘が私は嫌いだ。
自分が傷ついても
本当のことが知りたい
嘘は嫌いだ
嘘だけはいや、と
我儘を言っていたのは遠い昔の話だ。
真実だけで、人間は生きてはいけない。
そして真実は、必ずしも幸せを生みはしない。
誰か一人でも幸せになるものもあれば
その真実が誰ひとりとして幸せにしないものもある。
どうでもいい嘘は嫌いだ。
自己満足な嘘が嫌いだ。
そのくらいなら何も話さない方がましだ。
人を救わない嘘は、嫌いだ。
いや、正確に言えば、嘘は嫌い「だった」。
嘘をつくこと自体は私は
良いことでも悪いことでもないと思っている。
その嘘で誰も傷つかず、誰かが守られるならば。
私はその嘘を指摘したり
わざわざ真実を突き詰めようとなどしないだろう。
そうだとしたらもはやそれは
薄っぺらい嘘ではなく
その言葉は
打ち放った光の矢とおんなじだ。
だけど
自分を守るためだけの嘘は嫌いだ。
誰かを傷つけてまで自分をよく見せようとしたり
真実を捻じ曲げてさえ押しとおすような嘘は
誰も幸せになどならない。
そんな嘘が私は嫌いだ。
自分が傷ついても
本当のことが知りたい
嘘は嫌いだ
嘘だけはいや、と
我儘を言っていたのは遠い昔の話だ。
真実だけで、人間は生きてはいけない。
そして真実は、必ずしも幸せを生みはしない。
誰か一人でも幸せになるものもあれば
その真実が誰ひとりとして幸せにしないものもある。
どうでもいい嘘は嫌いだ。
自己満足な嘘が嫌いだ。
そのくらいなら何も話さない方がましだ。
人を救わない嘘は、嫌いだ。
自分を見失った時
絶望に落ちた時
私たちは、
「未来が見えない」と言う。
「未来が無い」とも。
未来はいつだって私たちが生きていさえすれば
必ずその先に存在するはずなのに
私たちが立ち止まるから
それは急に見えなくなる。
未来というのはきっと
動き続ける時にだけに見えるものなのだ。
同じところに立ち止まっていれば
未来だってその先を動こうとしない。
結末が予測出来てしまうなら
未来が無いと感じてしまうのも無理はない。
そのままではその先が
変わることなどないのだから。
未来が見えないんじゃない。
未来が無いんじゃない。
動き続けなければきっと
未来などできないのだ。
だから動き始めよう。
生き続けみよう。
未来がその先に長く
長く続くように。
絶望に落ちた時
私たちは、
「未来が見えない」と言う。
「未来が無い」とも。
未来はいつだって私たちが生きていさえすれば
必ずその先に存在するはずなのに
私たちが立ち止まるから
それは急に見えなくなる。
未来というのはきっと
動き続ける時にだけに見えるものなのだ。
同じところに立ち止まっていれば
未来だってその先を動こうとしない。
結末が予測出来てしまうなら
未来が無いと感じてしまうのも無理はない。
そのままではその先が
変わることなどないのだから。
未来が見えないんじゃない。
未来が無いんじゃない。
動き続けなければきっと
未来などできないのだ。
だから動き始めよう。
生き続けみよう。
未来がその先に長く
長く続くように。
なぜかこのところ、会う人が
「私と年が一つしか変わらないのではないか」
という考えにとらわれている。
ビタミン先生も、めーさんもそうだと思っていた。
その前の予備校の生物科の先生にもそう感じていたし
一体この「一つ年上シンドローム」は
どこから来ているのだろうか?
ただ、鈴先生にはそれを思わなかったから、そこの違いに
何か鍵がありそうな気はしているのだけど…。
一つ上。
それは近いようで私にはとても遠い。
ストレートでその場にいる人間の前に立つ私は
回り道して遠回りしていま
あなたがかつて歩んだ道の上に居るだけなのに
どうして取り残されているように思うんだろう。
先に生まれたあなたと私には
どれだけの隔たりがあると言うのだろう。
「私と年が一つしか変わらないのではないか」
という考えにとらわれている。
ビタミン先生も、めーさんもそうだと思っていた。
その前の予備校の生物科の先生にもそう感じていたし
一体この「一つ年上シンドローム」は
どこから来ているのだろうか?
ただ、鈴先生にはそれを思わなかったから、そこの違いに
何か鍵がありそうな気はしているのだけど…。
一つ上。
それは近いようで私にはとても遠い。
ストレートでその場にいる人間の前に立つ私は
回り道して遠回りしていま
あなたがかつて歩んだ道の上に居るだけなのに
どうして取り残されているように思うんだろう。
先に生まれたあなたと私には
どれだけの隔たりがあると言うのだろう。
相手に何かを求めるのは
とても傲慢で自分勝手なことだと
私は勝手に考えているけれど
でも、やっぱり人間だから
誰かと分かり合いたいと思う。
でも、分かってもらいたいとか
知ってほしいという方向は傲慢な気がしてならない。
ならば人間はどうしたらいいだろう。
求めることが傲慢だとしたら
要求することが自己中心的なのなら
そこには、もう祈ることしか残っていないのではないだろうか
祈ることは、神様への要求だ。
願うことは、自分の意思だ。
賛美歌でこう歌っている。
「神様は友達なんだから
悩みも苦しみも全部聞いてあげるよ。
だから一人で苦しまないで
神様に話してごらん」
私はクリスチャンでもないし
神様の存在を確信してもいない。
だけど、祈ることはできる。
願うのではなく、祈ること。
祈りは、願うことよりも
強く自分中心の意識を反映させていないというか
もっと自分だけではなく、広い意味だと思うのです。
私は今まで祈ることというのは
特にありませんでしたが
最近思います
願える程、私は他人に掬ってもらえる人間ではないなら
私は祈るしかないのではないだろうか
私が、私として
一人の人間として生きていくのに
平和でありますように
目の前の人間が
そこにいるあなたが
幸せでありますようにと。
とても傲慢で自分勝手なことだと
私は勝手に考えているけれど
でも、やっぱり人間だから
誰かと分かり合いたいと思う。
でも、分かってもらいたいとか
知ってほしいという方向は傲慢な気がしてならない。
ならば人間はどうしたらいいだろう。
求めることが傲慢だとしたら
要求することが自己中心的なのなら
そこには、もう祈ることしか残っていないのではないだろうか
祈ることは、神様への要求だ。
願うことは、自分の意思だ。
賛美歌でこう歌っている。
「神様は友達なんだから
悩みも苦しみも全部聞いてあげるよ。
だから一人で苦しまないで
神様に話してごらん」
私はクリスチャンでもないし
神様の存在を確信してもいない。
だけど、祈ることはできる。
願うのではなく、祈ること。
祈りは、願うことよりも
強く自分中心の意識を反映させていないというか
もっと自分だけではなく、広い意味だと思うのです。
私は今まで祈ることというのは
特にありませんでしたが
最近思います
願える程、私は他人に掬ってもらえる人間ではないなら
私は祈るしかないのではないだろうか
私が、私として
一人の人間として生きていくのに
平和でありますように
目の前の人間が
そこにいるあなたが
幸せでありますようにと。
おだやかに一週間が過た。
週明けには鈴先生の夢を見た。
久しぶりに。
泣きたくなったら、鈴先生。
しんどくなったら、鈴先生。
鈴先生は私のきっと迷い道での目印みたいなものなのだ。
鈴先生の家には最近新しい家族が増えた。
小さい小さい命が、鈴先生の家に登場し
鈴先生の生活に色んなうるおいを与えてくれているだろう。
そんな鈴先生が、現実世界で泣かずに
夢の中でばかり泣き虫になる私の夢に出てきた。
夢の中で鈴先生が出てくると
私は今自分が、迷子になっていることに気がつく。
そして私にいろんな事を言ってくれる。
当たり前だけど
誰かに言って欲しかった言葉。
気づいてはいたけれど
誰かに言われて確信したかった言葉を。
そして必ずと言っていいほど
予知夢のようにその日は鈴先生に会う。
夢の中の鈴先生は、現実の鈴先生とおんなじで
私を勇気づける。
ここに、立っていようという勇気を。
そして再び一週間が過ぎて
ちょっとハイテンションな一週間だったと
振り返ると思うのは
めーさんが私に話かけてくれるからだろうか。
過剰適応な私は
本当はとてつもなく低空不安定飛行な人間なのだ。
そこにたまたま元気な子がいるから
そのテンションに釣られて自分が引っ張り上げられるだけで
結局はそれは他力本願な力なのだ。
その糸が切れたら思いっきり落ちるだけ。
自分にはそこにとどまっていられる能力がないのだ。
だけどそうやって一杯引っ張りあげられてるときに
好きな人には 笑ってほしいと
好きな人の笑ってる顔が見ていたい
そんな気持ちになってついつい私は
笑わせようとしてしまう
そこで無理するから失敗するのだけれど
やっぱり笑って欲しい。
笑っている方がいい。
人が笑ってる顔は、やっぱり素敵だ。
いつか素直に
誰かを笑顔にすることができるような
そんな人間になりたいなと
服部祐民子の「幸せになりたい」を聞きながら
思ってみたりする土曜日でした。
服部祐民子「幸せになりたい」
http://www.youtube.com/watch?v=_L-IR7I8-UI
週明けには鈴先生の夢を見た。
久しぶりに。
泣きたくなったら、鈴先生。
しんどくなったら、鈴先生。
鈴先生は私のきっと迷い道での目印みたいなものなのだ。
鈴先生の家には最近新しい家族が増えた。
小さい小さい命が、鈴先生の家に登場し
鈴先生の生活に色んなうるおいを与えてくれているだろう。
そんな鈴先生が、現実世界で泣かずに
夢の中でばかり泣き虫になる私の夢に出てきた。
夢の中で鈴先生が出てくると
私は今自分が、迷子になっていることに気がつく。
そして私にいろんな事を言ってくれる。
当たり前だけど
誰かに言って欲しかった言葉。
気づいてはいたけれど
誰かに言われて確信したかった言葉を。
そして必ずと言っていいほど
予知夢のようにその日は鈴先生に会う。
夢の中の鈴先生は、現実の鈴先生とおんなじで
私を勇気づける。
ここに、立っていようという勇気を。
そして再び一週間が過ぎて
ちょっとハイテンションな一週間だったと
振り返ると思うのは
めーさんが私に話かけてくれるからだろうか。
過剰適応な私は
本当はとてつもなく低空不安定飛行な人間なのだ。
そこにたまたま元気な子がいるから
そのテンションに釣られて自分が引っ張り上げられるだけで
結局はそれは他力本願な力なのだ。
その糸が切れたら思いっきり落ちるだけ。
自分にはそこにとどまっていられる能力がないのだ。
だけどそうやって一杯引っ張りあげられてるときに
好きな人には 笑ってほしいと
好きな人の笑ってる顔が見ていたい
そんな気持ちになってついつい私は
笑わせようとしてしまう
そこで無理するから失敗するのだけれど
やっぱり笑って欲しい。
笑っている方がいい。
人が笑ってる顔は、やっぱり素敵だ。
いつか素直に
誰かを笑顔にすることができるような
そんな人間になりたいなと
服部祐民子の「幸せになりたい」を聞きながら
思ってみたりする土曜日でした。
服部祐民子「幸せになりたい」
http://www.youtube.com/watch?v=_L-IR7I8-UI
「私はこの人間より長く生きているからこの人間よりも何でも知っている」
「年上だからこの人よりも経験が多い」
という考えをする人が、かなりいると思う。
人生経験、という言葉があるくらい
人生は経験の積み重ねだからだ。
だけどそれは、生きている年月に比例するか?と言われたら
その答えは必ずしもイエスではないだろう。
密度の濃い人生と
あっという間にただ過ごした年月とでは
私はたとえ生きていた年月が長くとも
何の優位性も無いと思っている。
だけど世界では(日本では)
年長者の言うことを聞けだとか
年上の人間の言うことは間違いないだとか
そういうことが多すぎやしませんか
確かにそれが「イコール:イエス」であることも
あると思うけれど
でもね、よく考えてほしい
そう言った言葉を振りかざすあなたは
その言葉を放つ人間の人生を
一体どれだけ把握しているのでしょうか
そしてその人生のどれだけあなたは
共感することができましたか
安易に年齢だけで優位に立とうとするのは
相手の人生に対して失礼ではないですか
あなたの考える相手の辛さはきっと
あなたの経験の範囲内の辛さでしか
感じることが出来ない
それならば生きている長さは
相手と比べることが出来るでしょうか
相手との関係性の中での順位付けに
どれほど役に立つというのでしょうか
そして
相手との間に順位付けをすることに
何の意味があるのでしょうか
「年上だからこの人よりも経験が多い」
という考えをする人が、かなりいると思う。
人生経験、という言葉があるくらい
人生は経験の積み重ねだからだ。
だけどそれは、生きている年月に比例するか?と言われたら
その答えは必ずしもイエスではないだろう。
密度の濃い人生と
あっという間にただ過ごした年月とでは
私はたとえ生きていた年月が長くとも
何の優位性も無いと思っている。
だけど世界では(日本では)
年長者の言うことを聞けだとか
年上の人間の言うことは間違いないだとか
そういうことが多すぎやしませんか
確かにそれが「イコール:イエス」であることも
あると思うけれど
でもね、よく考えてほしい
そう言った言葉を振りかざすあなたは
その言葉を放つ人間の人生を
一体どれだけ把握しているのでしょうか
そしてその人生のどれだけあなたは
共感することができましたか
安易に年齢だけで優位に立とうとするのは
相手の人生に対して失礼ではないですか
あなたの考える相手の辛さはきっと
あなたの経験の範囲内の辛さでしか
感じることが出来ない
それならば生きている長さは
相手と比べることが出来るでしょうか
相手との関係性の中での順位付けに
どれほど役に立つというのでしょうか
そして
相手との間に順位付けをすることに
何の意味があるのでしょうか
今日は職場の部下の結婚式。
2月の大ゲンカした自己愛さんの社長も来るので
かなり憂鬱でしたがなんとか無事終えて帰ってきました。
院長は私と仲直りさせたかったようですが
仲直りとか喧嘩とか、もはやそういうレベルではなく
社長と人間としてもう関わりたくないというレベル。
しかし今日はわざわざ追いかけてきた挙句
「もとさん!もとさん! お久ぶり♪」
・・・・・・・・・・・・・・・・。
お久ぶり♪ じゃねーっつうの。
私は一度他人に心を閉ざしたら
とことん閉ざしてしまうので
もうダメダメ。
そうそう人に心を閉ざすことなんて
よっぽどのことが無ければ無いけれど
この人に限ってはその「よっぽど」に該当するのだ。
私は他責的で内省出来ないタイプがどうしてもだめだ。
社長は自分の連絡ミスでも必ず「システムが悪い」
「〇〇さんどうなってんの!?」「相手が悪い」
と、絶対に自分にも非があったとは思わない人なのだ。
そのため私になぜここまで嫌われたかも
私が悪いこと以外、自分にも悪いところがあったということを
全く内省出来ていない。
許す許さないの前に、内省したかどうかを問いたい。
内省も出来てないのに仲直りも何もないだろう。
心を開くのはもう無理だけど
仕事相手としてはちゃんと関わりますよ。
だからもう少し内省してほしいのだけど
自己愛さんには無理なんだろうなあ。
2月の大ゲンカした自己愛さんの社長も来るので
かなり憂鬱でしたがなんとか無事終えて帰ってきました。
院長は私と仲直りさせたかったようですが
仲直りとか喧嘩とか、もはやそういうレベルではなく
社長と人間としてもう関わりたくないというレベル。
しかし今日はわざわざ追いかけてきた挙句
「もとさん!もとさん! お久ぶり♪」
・・・・・・・・・・・・・・・・。
お久ぶり♪ じゃねーっつうの。
私は一度他人に心を閉ざしたら
とことん閉ざしてしまうので
もうダメダメ。
そうそう人に心を閉ざすことなんて
よっぽどのことが無ければ無いけれど
この人に限ってはその「よっぽど」に該当するのだ。
私は他責的で内省出来ないタイプがどうしてもだめだ。
社長は自分の連絡ミスでも必ず「システムが悪い」
「〇〇さんどうなってんの!?」「相手が悪い」
と、絶対に自分にも非があったとは思わない人なのだ。
そのため私になぜここまで嫌われたかも
私が悪いこと以外、自分にも悪いところがあったということを
全く内省出来ていない。
許す許さないの前に、内省したかどうかを問いたい。
内省も出来てないのに仲直りも何もないだろう。
心を開くのはもう無理だけど
仕事相手としてはちゃんと関わりますよ。
だからもう少し内省してほしいのだけど
自己愛さんには無理なんだろうなあ。
また一週間が過ぎました。
この一週間も、ちょっとしんどめな一週間でした。
私は人に合わせる、というようなことをめーさんのように
意識したことはないけれど、気づけばきっと合わせている。
だけどそれはとても下手っぴで、うまくいかない。
押しても押しても、大丈夫なんじゃないかと思う。
というよりも、どこまで押したら大丈夫なのかを
探ってしまう癖がある。
でも、相手のスイッチが入る瞬間の閾値近くなっても
ひょうひょうとしている人の前では、私は鈍感なのか
寸止め出来ない。自分では止められない勢いが付いてしまう。
仕事や何でもない人に対しては、あれだけ慎重になるのに
自分の好きな人に対してだと、それが狂ってしまう。
自分らしさ、が出せていないのか。
それとも、それがだめだめな自分の本質なのか。
どっちだろう。どっちもかな。
あの部屋での沈黙が怖い。
だけど、あの部屋が一番安心できる。
アンビバレントだなあ。
でもほんと
あの場ではめーさんしか信じてないのよ。
この山は
いつまで続く山なんだろう
めーさんに手を差し伸べられることを求めてないし
私は一人でこの山を登りたい
だけど時々
ただ、私は励ましてほしいだけなのに。
この一週間も、ちょっとしんどめな一週間でした。
私は人に合わせる、というようなことをめーさんのように
意識したことはないけれど、気づけばきっと合わせている。
だけどそれはとても下手っぴで、うまくいかない。
押しても押しても、大丈夫なんじゃないかと思う。
というよりも、どこまで押したら大丈夫なのかを
探ってしまう癖がある。
でも、相手のスイッチが入る瞬間の閾値近くなっても
ひょうひょうとしている人の前では、私は鈍感なのか
寸止め出来ない。自分では止められない勢いが付いてしまう。
仕事や何でもない人に対しては、あれだけ慎重になるのに
自分の好きな人に対してだと、それが狂ってしまう。
自分らしさ、が出せていないのか。
それとも、それがだめだめな自分の本質なのか。
どっちだろう。どっちもかな。
あの部屋での沈黙が怖い。
だけど、あの部屋が一番安心できる。
アンビバレントだなあ。
でもほんと
あの場ではめーさんしか信じてないのよ。
この山は
いつまで続く山なんだろう
めーさんに手を差し伸べられることを求めてないし
私は一人でこの山を登りたい
だけど時々
ただ、私は励ましてほしいだけなのに。