ことばは矢のように、あなたのこころに突き刺さる。
あやふやで不安になることばも
その傷が癒えることばも。
×
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このところ批評じみたブログになってしまっていたので
今日くらいはのほほんと近況報告でも。
2か月くらい前に、コンタクトを外さずに寝てしまい角膜潰瘍に
なってしまったー!と書いていましたが、今週でついに治療終了しました。
結局白濁が残ったものの、黒眼にかからなかったのでよかったです。
しかし、久しぶりに視力を測ったら、左右とも3段階も度が上がっていました。
近視は器質的なものの要因が強いので、成長期もとっくに過ぎた私などは
もう度なんて進まないと思っていたのですが
油断してました・・・
コンタクトに久しぶりにしてみたら、メガネで縁取っていた自分の顔が
なんだか物足りない(しみったれた?)顔に見えてしまって仕方なくなりました。
・・・・・・顔が地味なんだろうな。
でも、きっちり度のあったコンタクトをしていると
ああ、世の中ってこんなにキレイだったんだなあ、と思います。
木々の葉の一つ一つが、とてもきれいに見えるし
空の青や日の光がとても眩しく感じます。
きっとこれが春なら、桜の花びら一枚一枚がきっちり見えて感動したことでしょう。
今の実習が化学合成の実習なので、保護メガネの下にメガネをするという
「メガネメガネ(Wメガネ?)」からやっと脱却できました。
でも世界って本当に奇麗ですね
普段何気なく過ごしている世界が、本当はとても美しい世界だということ
(たぶん宇宙人が地球に来たら驚くだろう)
何かきっかけがないと、ついつい忘れてしまうかもしれません。
私も忘れかけていました。
そうそう
今日最寄駅に着いたら、青森物産展?がこじんまりと開かれていました。
たまにりんごとかにんにくとか売っているのだけれど
今日は大好きな「あめせん」(南部せんべいの間に水あめがはさんであるというシロモノ)
があるかな~、と思い声をかけ、ついでに「私も青森です~」なんて言ってしまった。
そしたら!!
「りんご食ってけ~」
と、包丁と林檎を渡されました。
とはいっても実は私、小さい頃から林檎が好きではないのです。
どちらかというと嫌いな部類。食べ過ぎておいしさが分からなくなったのか
はたまたもとから味音痴なのかもしれませんが
とにかく積極的に食べようとは思えない果物でした。
けれど久しぶりに食べた林檎はとても美味しく感じて
つい一個食べてしまいました。
たぶん、林檎を一人で一個食べたのは、生まれて初めてではなかったかと思う。
そのぐらい林檎が、どちらかというと嫌いな果物の部類だったのだ。
それを丸ごと食べられるようになったのは、ここ東京にいるからでしょうか。
しかもしばらく店番までしてしまった・・・
生きてることが 辛いなら
いっそ小さく 死ねばいい
恋人と親は悲しむが
三日とたてば 元通り
(森山直太郎 生きてることが辛いならより)
青森を思い返すと なぜかこの歌が頭の中で響いてくる
私は今、「生きてることが辛い」のだろうか。
今日くらいはのほほんと近況報告でも。
2か月くらい前に、コンタクトを外さずに寝てしまい角膜潰瘍に
なってしまったー!と書いていましたが、今週でついに治療終了しました。
結局白濁が残ったものの、黒眼にかからなかったのでよかったです。
しかし、久しぶりに視力を測ったら、左右とも3段階も度が上がっていました。
近視は器質的なものの要因が強いので、成長期もとっくに過ぎた私などは
もう度なんて進まないと思っていたのですが
油断してました・・・
コンタクトに久しぶりにしてみたら、メガネで縁取っていた自分の顔が
なんだか物足りない(しみったれた?)顔に見えてしまって仕方なくなりました。
・・・・・・顔が地味なんだろうな。
でも、きっちり度のあったコンタクトをしていると
ああ、世の中ってこんなにキレイだったんだなあ、と思います。
木々の葉の一つ一つが、とてもきれいに見えるし
空の青や日の光がとても眩しく感じます。
きっとこれが春なら、桜の花びら一枚一枚がきっちり見えて感動したことでしょう。
今の実習が化学合成の実習なので、保護メガネの下にメガネをするという
「メガネメガネ(Wメガネ?)」からやっと脱却できました。
でも世界って本当に奇麗ですね
普段何気なく過ごしている世界が、本当はとても美しい世界だということ
(たぶん宇宙人が地球に来たら驚くだろう)
何かきっかけがないと、ついつい忘れてしまうかもしれません。
私も忘れかけていました。
そうそう
今日最寄駅に着いたら、青森物産展?がこじんまりと開かれていました。
たまにりんごとかにんにくとか売っているのだけれど
今日は大好きな「あめせん」(南部せんべいの間に水あめがはさんであるというシロモノ)
があるかな~、と思い声をかけ、ついでに「私も青森です~」なんて言ってしまった。
そしたら!!
「りんご食ってけ~」
と、包丁と林檎を渡されました。
とはいっても実は私、小さい頃から林檎が好きではないのです。
どちらかというと嫌いな部類。食べ過ぎておいしさが分からなくなったのか
はたまたもとから味音痴なのかもしれませんが
とにかく積極的に食べようとは思えない果物でした。
けれど久しぶりに食べた林檎はとても美味しく感じて
つい一個食べてしまいました。
たぶん、林檎を一人で一個食べたのは、生まれて初めてではなかったかと思う。
そのぐらい林檎が、どちらかというと嫌いな果物の部類だったのだ。
それを丸ごと食べられるようになったのは、ここ東京にいるからでしょうか。
しかもしばらく店番までしてしまった・・・
生きてることが 辛いなら
いっそ小さく 死ねばいい
恋人と親は悲しむが
三日とたてば 元通り
(森山直太郎 生きてることが辛いならより)
青森を思い返すと なぜかこの歌が頭の中で響いてくる
私は今、「生きてることが辛い」のだろうか。
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昨日の経済の講義。
今の医療改革はまだ不十分だから、このような不具合が
生まれるのだという話をしていた。
まさに、北先生が指摘していた「壮大な勘違い」。
私もそうじゃないだろ!と突っ込みを入れたくなった。
いじめを例に出して、うまく行かない物には必ず両方に
問題がある。イジメでも、イジメられる方にも原因がある。と。
私はこの意見には昔から真っ向に反対です。
イジメには原因がある?
イジメられるほうにも原因がある?
何を戦国時代みたいな話をしてるんだ。
今のイジメには理由なんて存在しない。自分にとって
気に入らないから、ただそれだけで十分なのだ。
逆にあらゆることがイジメの理由になりうる。
極端なことを言えば
父親の職業だとか、家族にハゲがいるとか
家で珍しい犬を飼っているとか
携帯メールを1分以内に返さなかったとか
自分が気に入っている男の子と会話したとか
上げていったらキリがない。そんなくだらないどうでも
いいようなことでイジメの理由になるのだ。要はイジメ
る側の「気に入らなさ」にかかっているのだ。
それを
「イジメ等れる側にも原因がある」ですと?
ふざけるんじゃない。時代錯誤も甚だしいとはこのこと。
自分の子供がいじめの原因として、あなたの容姿のこと
をあげられたらどうするつもりなのか?
そういう、本人のどうにも出来ないことを理由にされても
納得すると言うのか。
もし身体障害があって苛められたら、
「障害があるから」と仕方ないと思うのか。
つまり、イジメにはイジメられるほうにも原因があると
言う人間は、理由さえあればイジメを認める人間なのだと
私は思う。だからイジメを否定するのではなく、イジメら
れるほうも悪い、原因があるからイジメられるんだという
大きな勘違いをするのだ。
イジメは理由がたとえ何にせよ有り得ない事なのではないか。
自分の気に入らなさで相手を不快にさせることは
自己中心的で甘ったれた他罰的思考である。
私はイジメという方法でしか自己を肯定できない、そんな
人間の心こそに問題の焦点を当てるべきではないかと 思う。
他人をいたぶることで、その人間の満たそうとしている ことは
一体何なのか。そこに目を向けず、単純な理由づけや
犯人探しで納得し片付けたつもりになることは、日本人の
最も根の深い問題点ではないか。
私は犯罪が起きた後に、犯人が捕まったからといって
その問題が解決したとは 思えない派だ。
何故なら答えはそこにはないからだ。
犯人が捕まり、理由が判ったところで何になると言うのだ。
大切なのは繰り返されないことではないのか。
私たち日本人は、確実に注目すべき点を見逃している。
今の医療改革はまだ不十分だから、このような不具合が
生まれるのだという話をしていた。
まさに、北先生が指摘していた「壮大な勘違い」。
私もそうじゃないだろ!と突っ込みを入れたくなった。
いじめを例に出して、うまく行かない物には必ず両方に
問題がある。イジメでも、イジメられる方にも原因がある。と。
私はこの意見には昔から真っ向に反対です。
イジメには原因がある?
イジメられるほうにも原因がある?
何を戦国時代みたいな話をしてるんだ。
今のイジメには理由なんて存在しない。自分にとって
気に入らないから、ただそれだけで十分なのだ。
逆にあらゆることがイジメの理由になりうる。
極端なことを言えば
父親の職業だとか、家族にハゲがいるとか
家で珍しい犬を飼っているとか
携帯メールを1分以内に返さなかったとか
自分が気に入っている男の子と会話したとか
上げていったらキリがない。そんなくだらないどうでも
いいようなことでイジメの理由になるのだ。要はイジメ
る側の「気に入らなさ」にかかっているのだ。
それを
「イジメ等れる側にも原因がある」ですと?
ふざけるんじゃない。時代錯誤も甚だしいとはこのこと。
自分の子供がいじめの原因として、あなたの容姿のこと
をあげられたらどうするつもりなのか?
そういう、本人のどうにも出来ないことを理由にされても
納得すると言うのか。
もし身体障害があって苛められたら、
「障害があるから」と仕方ないと思うのか。
つまり、イジメにはイジメられるほうにも原因があると
言う人間は、理由さえあればイジメを認める人間なのだと
私は思う。だからイジメを否定するのではなく、イジメら
れるほうも悪い、原因があるからイジメられるんだという
大きな勘違いをするのだ。
イジメは理由がたとえ何にせよ有り得ない事なのではないか。
自分の気に入らなさで相手を不快にさせることは
自己中心的で甘ったれた他罰的思考である。
私はイジメという方法でしか自己を肯定できない、そんな
人間の心こそに問題の焦点を当てるべきではないかと 思う。
他人をいたぶることで、その人間の満たそうとしている ことは
一体何なのか。そこに目を向けず、単純な理由づけや
犯人探しで納得し片付けたつもりになることは、日本人の
最も根の深い問題点ではないか。
私は犯罪が起きた後に、犯人が捕まったからといって
その問題が解決したとは 思えない派だ。
何故なら答えはそこにはないからだ。
犯人が捕まり、理由が判ったところで何になると言うのだ。
大切なのは繰り返されないことではないのか。
私たち日本人は、確実に注目すべき点を見逃している。
雪が降りました。
と言っても今住んでいる所ではなく
遠い北国の話しですが…
雪が降っているときに
空を見上げるのが好きでした。
何億何兆という雪のかけらが
地面目掛けて降り注ぐのを眺めるのが好きでした。
そんな景色はもうここでは見られないけれども
私はここで
私らしく
私なりに
青い森を離れて生きてきた時間が
青い森で過ごした時間を越えようとしている。
けれど私の中でその存在はけして消えることはない。
私という存在が
青い森から消えても
人々の記憶から消えても
このまま会わずにいたら君は
僕を忘れてしまうだろうか
いくつもの優しい日々も全て
無くしてしまうのだろうかと
服部祐民子は歌ったけれど
故郷は遠くにありて想うもの
私の青森は
まだそこにありますか。
と言っても今住んでいる所ではなく
遠い北国の話しですが…
雪が降っているときに
空を見上げるのが好きでした。
何億何兆という雪のかけらが
地面目掛けて降り注ぐのを眺めるのが好きでした。
そんな景色はもうここでは見られないけれども
私はここで
私らしく
私なりに
青い森を離れて生きてきた時間が
青い森で過ごした時間を越えようとしている。
けれど私の中でその存在はけして消えることはない。
私という存在が
青い森から消えても
人々の記憶から消えても
このまま会わずにいたら君は
僕を忘れてしまうだろうか
いくつもの優しい日々も全て
無くしてしまうのだろうかと
服部祐民子は歌ったけれど
故郷は遠くにありて想うもの
私の青森は
まだそこにありますか。
私のいつも使う通学電車には、近所の有名私立小学生が
沢山乗り込んでいます。
そして私のように、大学生も、会社員も乗り込みます。
さらに、朝デイケアに通う障害者の方々もいます。
そんな中で私がいつも見ていて気になること、気分が
悪くなることがあるのです。
それは有名私立小学校の生徒が、障害者の方に対して
「今日もあの変な人いるよー!」
「コワイね~」「気持ち悪い」
「ねー、見に行こうよ」
と言い、そばについてじろじろ見たり、あわよくば
文句の一言でも言いたげな雰囲気で取り巻くのです。
これが毎朝繰り広げられるのです。
見かねた大人たちがたまに、
「見ちゃいけません」
と注意したりするのですが、私はその注意の仕方も
納得いかないわけです。それじゃあいつまで経ったって
正しい知識は身につかないはずです。
障害は、何も目に見える体の障害ばかりではありません。
体の障害については、手を貸しましょうとか、変な目で
見ないだとか、散々教育してるし、24時間テレビなどで
大々的にサポートを訴えています。だからこそ違和感が
無いのです。
けれど精神の障害についてはどうでしょうか。
未だに日本人は見てみないふり、見てはいけないもの
という考えです。
だからまったく精神障害に対する正しい知識が無く、
いつまでもただただ恐怖心を抱くか白い目で見るかでは
ないでしょうか。
日本は精神というものの取り扱いを誤ったと思う。
誰もが持っている精神なのに。
沢山乗り込んでいます。
そして私のように、大学生も、会社員も乗り込みます。
さらに、朝デイケアに通う障害者の方々もいます。
そんな中で私がいつも見ていて気になること、気分が
悪くなることがあるのです。
それは有名私立小学校の生徒が、障害者の方に対して
「今日もあの変な人いるよー!」
「コワイね~」「気持ち悪い」
「ねー、見に行こうよ」
と言い、そばについてじろじろ見たり、あわよくば
文句の一言でも言いたげな雰囲気で取り巻くのです。
これが毎朝繰り広げられるのです。
見かねた大人たちがたまに、
「見ちゃいけません」
と注意したりするのですが、私はその注意の仕方も
納得いかないわけです。それじゃあいつまで経ったって
正しい知識は身につかないはずです。
障害は、何も目に見える体の障害ばかりではありません。
体の障害については、手を貸しましょうとか、変な目で
見ないだとか、散々教育してるし、24時間テレビなどで
大々的にサポートを訴えています。だからこそ違和感が
無いのです。
けれど精神の障害についてはどうでしょうか。
未だに日本人は見てみないふり、見てはいけないもの
という考えです。
だからまったく精神障害に対する正しい知識が無く、
いつまでもただただ恐怖心を抱くか白い目で見るかでは
ないでしょうか。
日本は精神というものの取り扱いを誤ったと思う。
誰もが持っている精神なのに。
今日も経済の時間に、小泉改革により医療現場がどうなったか、を
DVDで見ていました。
小泉改革は、増えゆく医療費を抑えるために、長期入院の保険点数を
ばっさりと切り下げた。
日本は諸外国と比較し、在院日数が長いのだそうだ。
ゆえに、長期入院させると医療費がさらにかかるので
さっさと退院させて医療費を抑えましょうという方式にしました。
しかし、病院だって経営がかかっています
病院側が取った対応は、「保険点数が高いうちに他の病院に転院させる」
これを次々と繰り返していけば、常に病院は高い点数でたらい回せる。
そうやって病院は「生き延びる」しかないシステムになってしまいました。
だけど、一番大切な患者さんの存在は、もののように無視する存在になり
肝心の保険点数は、低くなりそうなら転院させるという裏ワザを生んだおかげで
ちっとも(その点だけに関しては)抑制にはなりません。
まさか、患者がたらい回されるとは、小泉さんも予想しなかっただろう。
甘い。甘すぎる。
安易な保険制度の改正は
生き延びるための裏ワザを生んで、患者に負担を強いるだけの仕組みに
なってしまうだけではないでしょうか
私は、痛みをたとえ伴ったものだとしても
それが「よい方向へ」私たちが目に見えるような改革の成果が得られていれば
必要な痛みだったと思えるのではないでしょうか
だけど今の日本の改革は 小手先の利益だけ追求し
何年先にどうなるかを 本当に考えられていないような気がしてならないのです。
医療費が毎年1兆円ずつ増えているといいます。
だけど、それはそんなに悪でしょうか。
確かに、目先だけ見れば日本にとって大きな支出でしょう。
だけど、その支出のおかげで世界に誇れる長寿大国になってはいませんか。
高度医療技術を駆使し、世界に誇れる日本の医療技術をもっていませんか。
そういった評価を得るためには、医療費という痛みが伴うのは
当然の結果とは考えないのでしょうか。
そして 人間の生活にかかわる直接的な所の国費を削ることは
大きな勘違いではないでしょうか。
今、麻生政権では
たった数万円をあげるから、消費税値上げを許してね、みたいな
子供だましのテクニックを私たちに行おうとしています。
たった1万円程度のばらまきで 消費が拡大するわけない。
だって1万円を「生活費」に回さなければならないほど私たちの生活は
困窮しているのだ。
その1万円を「医療費」に回さなければいけないような
そんな状況なのだ。
それをまったくわかってない。今、何の不自由もなく暮らしている
麻生さんだからこそ、
「1万円もらったー!ラッキー!なんか買おう!」
という発想になるだけであって
税金で毎年何万円も負担増になっている私(たち)にとって
1万円なんて、去年もってかれた税金の回収にもならない額なんですよ。
それなのに、小銭ばら撒いて税金無駄に使ってるとしか思えない。
そんなはした金いらないから
消費税率上昇を見送るとか
2兆円の予算を他に分配するとか
もっとましなことに使いましょうよ。
その1兆円だって、麻生さんのお金じゃないんですから。
もともと私たちの給与から天引いたお金でしょう?
どうしていつもいつも政治というのは国民を無視しているのだろう。
医療も教育も福祉も 日本は何一つ「お金持ちしか受けられない」制度
になってしまっているじゃないか。
現場の声を聞いたら けしてそんな決断はしないはずです。
日本の政治家は
何かを私たちから 奪い間違え
何かを私たちに 与え間違えている。
生活は どこへいったのでしょうか。
DVDで見ていました。
小泉改革は、増えゆく医療費を抑えるために、長期入院の保険点数を
ばっさりと切り下げた。
日本は諸外国と比較し、在院日数が長いのだそうだ。
ゆえに、長期入院させると医療費がさらにかかるので
さっさと退院させて医療費を抑えましょうという方式にしました。
しかし、病院だって経営がかかっています
病院側が取った対応は、「保険点数が高いうちに他の病院に転院させる」
これを次々と繰り返していけば、常に病院は高い点数でたらい回せる。
そうやって病院は「生き延びる」しかないシステムになってしまいました。
だけど、一番大切な患者さんの存在は、もののように無視する存在になり
肝心の保険点数は、低くなりそうなら転院させるという裏ワザを生んだおかげで
ちっとも(その点だけに関しては)抑制にはなりません。
まさか、患者がたらい回されるとは、小泉さんも予想しなかっただろう。
甘い。甘すぎる。
安易な保険制度の改正は
生き延びるための裏ワザを生んで、患者に負担を強いるだけの仕組みに
なってしまうだけではないでしょうか
私は、痛みをたとえ伴ったものだとしても
それが「よい方向へ」私たちが目に見えるような改革の成果が得られていれば
必要な痛みだったと思えるのではないでしょうか
だけど今の日本の改革は 小手先の利益だけ追求し
何年先にどうなるかを 本当に考えられていないような気がしてならないのです。
医療費が毎年1兆円ずつ増えているといいます。
だけど、それはそんなに悪でしょうか。
確かに、目先だけ見れば日本にとって大きな支出でしょう。
だけど、その支出のおかげで世界に誇れる長寿大国になってはいませんか。
高度医療技術を駆使し、世界に誇れる日本の医療技術をもっていませんか。
そういった評価を得るためには、医療費という痛みが伴うのは
当然の結果とは考えないのでしょうか。
そして 人間の生活にかかわる直接的な所の国費を削ることは
大きな勘違いではないでしょうか。
今、麻生政権では
たった数万円をあげるから、消費税値上げを許してね、みたいな
子供だましのテクニックを私たちに行おうとしています。
たった1万円程度のばらまきで 消費が拡大するわけない。
だって1万円を「生活費」に回さなければならないほど私たちの生活は
困窮しているのだ。
その1万円を「医療費」に回さなければいけないような
そんな状況なのだ。
それをまったくわかってない。今、何の不自由もなく暮らしている
麻生さんだからこそ、
「1万円もらったー!ラッキー!なんか買おう!」
という発想になるだけであって
税金で毎年何万円も負担増になっている私(たち)にとって
1万円なんて、去年もってかれた税金の回収にもならない額なんですよ。
それなのに、小銭ばら撒いて税金無駄に使ってるとしか思えない。
そんなはした金いらないから
消費税率上昇を見送るとか
2兆円の予算を他に分配するとか
もっとましなことに使いましょうよ。
その1兆円だって、麻生さんのお金じゃないんですから。
もともと私たちの給与から天引いたお金でしょう?
どうしていつもいつも政治というのは国民を無視しているのだろう。
医療も教育も福祉も 日本は何一つ「お金持ちしか受けられない」制度
になってしまっているじゃないか。
現場の声を聞いたら けしてそんな決断はしないはずです。
日本の政治家は
何かを私たちから 奪い間違え
何かを私たちに 与え間違えている。
生活は どこへいったのでしょうか。
先日ブログで書いた、医療と経済について。
私は一番北先生とこの話をしたかったので、北先生からの反論メールが
届いてうれしく思いました。(なかなか会う機会がないので)
この前は医療も自由競争を!という主張の先生の講義を受けた、という話を
書いたのですが、それに対する私なりの不安がある、ということを付け加えました。
自由化していいものと、悪いものがある。
私もそう思います。
研修医が自由に研修先を選べるようになりました。
これは、「自由」ですよね。
だけど、その自由は、局地に集中してしまった。
地方は自由選択の枠組みに入っていない地域、いわゆる「選択の眼中にない」地域と
化してしまいました。
それは研修先の病院だけではありません。
昔はストレート研修といって、目的の科に研修医として働き、専門的な知識を
早い段階から積み上げることが可能でした。
しかし、今はスーパーローテーション※が義務化されました。
中途半端に全科ローテする時間があったら、少しでも早く、専門的な知識を学びたいと
思う学生もいるだろう。
確かに一通りの知識は必要だが、今の医療は細分化・専門化が進み
分からない時は専門の先生にどんどん回していくではないか。
まわった先でその先のプロが診断してくれるのだ。
研修医が「毎日5時に帰れて、週休二日の科はどこですか?」と平気で医長に聞くように
なった今の時代。
自由化という大義名分で、人間の生活に必要な最低限の権利が
無くなっていくように思えて仕方がない。
つまり、私は「全国民に生活のすべてのことについて自由を行使させる」ことは
無理だと思うのです。
日本の国民が当たり前に保障されるべきもの、生活を守るもの、命を守るものについては
私も北先生の言うとおり、自由競争の原理を適用すべきではないと考えます。
医師を自由に選べる権利を、患者側に与えるのならば
医師は逆に、その「選べる権利」を守る側に立たなければならない。
教育もそう。自由競争で犠牲になるのは受ける側です。
平等とは、あらゆる「受ける側」への平等であり
与える側の自由と平等は、同じ視点て考えることはできないのではないでしょうか。
そこをごちゃまぜにしたことによって日本は
手が付けられないほど、修正がきかない制度が増えたのではないでしょうか。
税金が足りないから、国民負担を増やせばいいと
単純に考えるのかもしれません。
だけど、税金は毎年いくら無駄につかっているのでしょうか。
国民一人一人が血税を払い
日々の生活で節約を意識し、努力したって
国が億単位で無駄使いしたら、そんな努力は一気に水の泡なんですよ。
要するに
税金をいくら値上げしたところで、日本は根本的な無駄使いなどを必要経費とする
風潮があるためにいくら国民から税金を徴収したところで支出が増えるだけ。
家計簿の付け方知ってるか?と言いたい。
まあ、それはうちの大学にも言えるんですが
ちまちま研究室の電気を半分しか点灯しないとか、図書館の電気は6階以上は
点灯させないことにしたとか、無駄なんですよ。
そんなんで節約していくらになるというのだ。
そんな犠牲を払っても、上が何百万とか持ってったらあっという間に無駄。
私たちは無駄なお金を使わせるために節約を手伝っているわけではないのだ。
国家予算が何兆もあるために、一千万単位の支出は何とも思わない金額に
なってしまっているんじゃないだろうか。
その一千万は、いったいどうやって手に入れたお金なのか
全く考えたことがないように思えてなりません。
木を見て森を見ずとはまさにこのこと。
うちの大学の経済の先生はとても面白い講義をするのですが
時々納得いかない理論を展開することがあります。
たとえば
薬学部生の就職先で一番エリートは製薬会社の研究職!
一番給料がいい!
と、言っていたのですが
私が昔働いていた製薬会社では
土日も休みなく実験し、正月もない、しかも結果が出るまで残業(納期みたいなものありますからね)
そんな生活で給料も超大手ではなかったためにそれほど「超高給」ではなかったので
研究所やめて病院薬剤師になったり、薬局のパートになって
定期的な休みが取れる生活に転職した人いっぱいいます。
それに何より、今やっている実験が本当に薬になるのか分からない仕事
それが研究職なんですよ
抗がん剤の動物実験までやったら全滅したとか
フェーズ2までいって頓挫したとか
そういうことだってあるわけですよ(実際あった)
そしたら今までの自分の残業とか実験とか水の泡な気がするのは
きっと私だけじゃなくいろんな研究所員が思っていたことだろう。
それに研究費の分配もあるので、不毛な研究やってる研究員に
「いつまでパッチやってんだよ!もう諦めろ!」 とか
「また早産したの!? 薬きいてないじゃん!200万がパーだ」とか
そういうこと思う場面が多発するわけです。
自分のしたことが眼の前で実際に見ることができる仕事がしたい。
そう思う人が転職という道を選ぶのです。
間接的にではなく、直接患者さんとかかわりたい。
そういう思いは、医療関係者が根本的にもつものではないでしょうか。
それを一概に「みんなのあこがれは研究所!」みたいなくくられ方は
私はいかがなものかと。
かくいう私だって、飼育管理という根本的な雑用が嫌いで
研究職から逃げましたから。
学生からは
「えーーっ なんでぇえええ」
なんて言われますが、仕事なんて実際やってみないとその苦労なんてわかりません。
私はメーカーの研究所に勤務するのが夢だったので、最初に研究所配属が決まった時は
マイナーな研究所でもとてもうれしかったのですが
はっきりいって、やってみないと分かりません。
あこがれや夢だけじゃやっていけない現実がありますから。
話がそれまくりましたが
経済政策だってそう。理論だけじゃ分からない現実がある。
だけど、経済政策・医療政策という「政策」は
だめだったからすぐ止める、方向転換するということが
なかなか難しいようです。
その中には多大な国民の犠牲を払います。
やってみなきゃ分からない、といって小泉改革は始まりましたが
その改革の結果 貧富の差は増し 患者はタライ回しにされ
結局は新たな改革のために再び国民に犠牲を強いることになった。
いつまで国民は、政策の犠牲になればよいのでしょうか。
医療はビジネスだと考える人もいると思いますが
私は人の命を扱い仕事はビジネスでは割り切れないと思うのです。
いや、むしろ
ビジネス的な観点ばかりから改革したら
私たちの医療は守られないとさえ思うのです。
自由競争の波の中で、患者の命の足元をみるような
そんなアメリカのようになってはいけないと思うのです。
やってみたけどだめだった、というのが許されない分野というもの
が、世の中には存在していると思うのです。
日本はアメリカに倣え、という方式ですが
そのアメリカがはたして世界で一番幸せな国でしょうか
日本はアメリカに憧れすぎて
失敗を教訓に出来ないでいるのではないだろうか
もはやアメリカの失敗を失敗として認識できないほど
日本の政治家の病理は進行してしまっているのかもしれない。
日本国民は
どういうことが現実化されれば 豊かな国だと、過ごしやすい国だと
思うのでしょうか
税金が高くても、医療・福祉・国民の生活 そういったものがきっちり守られていれば
国民が納得できるお金の使い方をしていさえすれば文句は言わないはず。
だけど今の日本は違います
何も守られることなく、いやむしろ脅かされながら
それでもなお改革という名のもとに さらに税金負担を強いる
小泉元首相は言いました。
「改革には痛みを伴う」と。
だけど
こんなに痛みを伴うのに、何も変わらず、むしろ悪い方へ行っているのは
その政策が暗に 間違いだったと示唆しているのではないでしょうか
改革が足りないのではなく、それが間違ったことだったと
なぜ認められないのでしょうか。
自由競争のなかで神の見えざる手が働くというけれど
今のアメリカに、神の手はどこへ行ったのでしょうか
自由という名の下に競争を激化して
神様も怒ってしまったのでしょうか
そして私は 医療・福祉については 神さまの登場は望むべきではないと
そう考えます。
※スーパーローテ―ション(スーパーローテ):すべての科を数か月単位で回り、それから
自分の専門科へ研修へ行く制度。このスーパーローテを2年受けなければ保険診療ができない
私は一番北先生とこの話をしたかったので、北先生からの反論メールが
届いてうれしく思いました。(なかなか会う機会がないので)
この前は医療も自由競争を!という主張の先生の講義を受けた、という話を
書いたのですが、それに対する私なりの不安がある、ということを付け加えました。
自由化していいものと、悪いものがある。
私もそう思います。
研修医が自由に研修先を選べるようになりました。
これは、「自由」ですよね。
だけど、その自由は、局地に集中してしまった。
地方は自由選択の枠組みに入っていない地域、いわゆる「選択の眼中にない」地域と
化してしまいました。
それは研修先の病院だけではありません。
昔はストレート研修といって、目的の科に研修医として働き、専門的な知識を
早い段階から積み上げることが可能でした。
しかし、今はスーパーローテーション※が義務化されました。
中途半端に全科ローテする時間があったら、少しでも早く、専門的な知識を学びたいと
思う学生もいるだろう。
確かに一通りの知識は必要だが、今の医療は細分化・専門化が進み
分からない時は専門の先生にどんどん回していくではないか。
まわった先でその先のプロが診断してくれるのだ。
研修医が「毎日5時に帰れて、週休二日の科はどこですか?」と平気で医長に聞くように
なった今の時代。
自由化という大義名分で、人間の生活に必要な最低限の権利が
無くなっていくように思えて仕方がない。
つまり、私は「全国民に生活のすべてのことについて自由を行使させる」ことは
無理だと思うのです。
日本の国民が当たり前に保障されるべきもの、生活を守るもの、命を守るものについては
私も北先生の言うとおり、自由競争の原理を適用すべきではないと考えます。
医師を自由に選べる権利を、患者側に与えるのならば
医師は逆に、その「選べる権利」を守る側に立たなければならない。
教育もそう。自由競争で犠牲になるのは受ける側です。
平等とは、あらゆる「受ける側」への平等であり
与える側の自由と平等は、同じ視点て考えることはできないのではないでしょうか。
そこをごちゃまぜにしたことによって日本は
手が付けられないほど、修正がきかない制度が増えたのではないでしょうか。
税金が足りないから、国民負担を増やせばいいと
単純に考えるのかもしれません。
だけど、税金は毎年いくら無駄につかっているのでしょうか。
国民一人一人が血税を払い
日々の生活で節約を意識し、努力したって
国が億単位で無駄使いしたら、そんな努力は一気に水の泡なんですよ。
要するに
税金をいくら値上げしたところで、日本は根本的な無駄使いなどを必要経費とする
風潮があるためにいくら国民から税金を徴収したところで支出が増えるだけ。
家計簿の付け方知ってるか?と言いたい。
まあ、それはうちの大学にも言えるんですが
ちまちま研究室の電気を半分しか点灯しないとか、図書館の電気は6階以上は
点灯させないことにしたとか、無駄なんですよ。
そんなんで節約していくらになるというのだ。
そんな犠牲を払っても、上が何百万とか持ってったらあっという間に無駄。
私たちは無駄なお金を使わせるために節約を手伝っているわけではないのだ。
国家予算が何兆もあるために、一千万単位の支出は何とも思わない金額に
なってしまっているんじゃないだろうか。
その一千万は、いったいどうやって手に入れたお金なのか
全く考えたことがないように思えてなりません。
木を見て森を見ずとはまさにこのこと。
うちの大学の経済の先生はとても面白い講義をするのですが
時々納得いかない理論を展開することがあります。
たとえば
薬学部生の就職先で一番エリートは製薬会社の研究職!
一番給料がいい!
と、言っていたのですが
私が昔働いていた製薬会社では
土日も休みなく実験し、正月もない、しかも結果が出るまで残業(納期みたいなものありますからね)
そんな生活で給料も超大手ではなかったためにそれほど「超高給」ではなかったので
研究所やめて病院薬剤師になったり、薬局のパートになって
定期的な休みが取れる生活に転職した人いっぱいいます。
それに何より、今やっている実験が本当に薬になるのか分からない仕事
それが研究職なんですよ
抗がん剤の動物実験までやったら全滅したとか
フェーズ2までいって頓挫したとか
そういうことだってあるわけですよ(実際あった)
そしたら今までの自分の残業とか実験とか水の泡な気がするのは
きっと私だけじゃなくいろんな研究所員が思っていたことだろう。
それに研究費の分配もあるので、不毛な研究やってる研究員に
「いつまでパッチやってんだよ!もう諦めろ!」 とか
「また早産したの!? 薬きいてないじゃん!200万がパーだ」とか
そういうこと思う場面が多発するわけです。
自分のしたことが眼の前で実際に見ることができる仕事がしたい。
そう思う人が転職という道を選ぶのです。
間接的にではなく、直接患者さんとかかわりたい。
そういう思いは、医療関係者が根本的にもつものではないでしょうか。
それを一概に「みんなのあこがれは研究所!」みたいなくくられ方は
私はいかがなものかと。
かくいう私だって、飼育管理という根本的な雑用が嫌いで
研究職から逃げましたから。
学生からは
「えーーっ なんでぇえええ」
なんて言われますが、仕事なんて実際やってみないとその苦労なんてわかりません。
私はメーカーの研究所に勤務するのが夢だったので、最初に研究所配属が決まった時は
マイナーな研究所でもとてもうれしかったのですが
はっきりいって、やってみないと分かりません。
あこがれや夢だけじゃやっていけない現実がありますから。
話がそれまくりましたが
経済政策だってそう。理論だけじゃ分からない現実がある。
だけど、経済政策・医療政策という「政策」は
だめだったからすぐ止める、方向転換するということが
なかなか難しいようです。
その中には多大な国民の犠牲を払います。
やってみなきゃ分からない、といって小泉改革は始まりましたが
その改革の結果 貧富の差は増し 患者はタライ回しにされ
結局は新たな改革のために再び国民に犠牲を強いることになった。
いつまで国民は、政策の犠牲になればよいのでしょうか。
医療はビジネスだと考える人もいると思いますが
私は人の命を扱い仕事はビジネスでは割り切れないと思うのです。
いや、むしろ
ビジネス的な観点ばかりから改革したら
私たちの医療は守られないとさえ思うのです。
自由競争の波の中で、患者の命の足元をみるような
そんなアメリカのようになってはいけないと思うのです。
やってみたけどだめだった、というのが許されない分野というもの
が、世の中には存在していると思うのです。
日本はアメリカに倣え、という方式ですが
そのアメリカがはたして世界で一番幸せな国でしょうか
日本はアメリカに憧れすぎて
失敗を教訓に出来ないでいるのではないだろうか
もはやアメリカの失敗を失敗として認識できないほど
日本の政治家の病理は進行してしまっているのかもしれない。
日本国民は
どういうことが現実化されれば 豊かな国だと、過ごしやすい国だと
思うのでしょうか
税金が高くても、医療・福祉・国民の生活 そういったものがきっちり守られていれば
国民が納得できるお金の使い方をしていさえすれば文句は言わないはず。
だけど今の日本は違います
何も守られることなく、いやむしろ脅かされながら
それでもなお改革という名のもとに さらに税金負担を強いる
小泉元首相は言いました。
「改革には痛みを伴う」と。
だけど
こんなに痛みを伴うのに、何も変わらず、むしろ悪い方へ行っているのは
その政策が暗に 間違いだったと示唆しているのではないでしょうか
改革が足りないのではなく、それが間違ったことだったと
なぜ認められないのでしょうか。
自由競争のなかで神の見えざる手が働くというけれど
今のアメリカに、神の手はどこへ行ったのでしょうか
自由という名の下に競争を激化して
神様も怒ってしまったのでしょうか
そして私は 医療・福祉については 神さまの登場は望むべきではないと
そう考えます。
※スーパーローテ―ション(スーパーローテ):すべての科を数か月単位で回り、それから
自分の専門科へ研修へ行く制度。このスーパーローテを2年受けなければ保険診療ができない
今日は毎年恒例の昇仙峡の日。
今日も馬車に乗ってきました。
一年に一度しかいかないけれど、今回の昇仙峡は
お店がリニューアルされていたり、馬車の終点が変わっていたり
水飲み場がなくなってたりと、いろいろ変わっていてビックリ。
でも、往復馬車にのって、大満足な一日でした。
往復6時間かかるので、移動の社内では今まで時間がなくて話せなかった
いろんな相談ごとや話をたくさんしてきました。
今はほとんど仕事の話中心でしたが
精神科と心療内科の一般的なイメージの話(注:先月の日記参照)や
そういうイメージ持ってる一般人っていうのは来院対象じゃないからいいんだよ!
みたいな話や、今後の事業展開の話などなど。
久しぶりに仕事の話をたくさんしたなあという感じです。
山梨は今日は曇りで、ひんやりとした肌寒い一日でしたが
此処に来るたびに「ああ、11月って秋だなあ」と思います。
私が生まれ育った北国や、仕事の関係で住んでいた旭川などは
11月といったら冬なので、ここにきてから11月なのに雪が降るどころか
紅葉のシーズンだったことに驚きでした。
北国で紅葉って言ったら9月10月の秋なのよ。
こっちで言ったら9月なんかばりばりの残暑まっただ中なんだけど。
なんだか関東で暮らすようになってからの方が
季節感がはっきりしてるような気もする。
そうそう
車の中で話題になったことの一つ
私の通ってる大学の薬学部の学生が、薬理の先生に
「先生、なんで薬理なんてやんなきゃなんないのーっ!」
と言ったので、薬理の先生が「なぜ、薬理を学ばなければならないのか」
というストーリー仕立てのロールプレイみたいなものを出してきて説明
してくれた、という話。
でも、
薬理っていったら薬学の王道だろう!
薬理やりたくないならもはや薬学部に存在する意味がないだろう!
医学生が「何で内科やんなきゃなんないのー!」って言ってるのと同じだろう。
ありえない愚痴だ。
今の学生って何考えてるかわかりませんね。
というオチでした。
薬学嫌いな薬学生。
えっ?
今日も馬車に乗ってきました。
一年に一度しかいかないけれど、今回の昇仙峡は
お店がリニューアルされていたり、馬車の終点が変わっていたり
水飲み場がなくなってたりと、いろいろ変わっていてビックリ。
でも、往復馬車にのって、大満足な一日でした。
往復6時間かかるので、移動の社内では今まで時間がなくて話せなかった
いろんな相談ごとや話をたくさんしてきました。
今はほとんど仕事の話中心でしたが
精神科と心療内科の一般的なイメージの話(注:先月の日記参照)や
そういうイメージ持ってる一般人っていうのは来院対象じゃないからいいんだよ!
みたいな話や、今後の事業展開の話などなど。
久しぶりに仕事の話をたくさんしたなあという感じです。
山梨は今日は曇りで、ひんやりとした肌寒い一日でしたが
此処に来るたびに「ああ、11月って秋だなあ」と思います。
私が生まれ育った北国や、仕事の関係で住んでいた旭川などは
11月といったら冬なので、ここにきてから11月なのに雪が降るどころか
紅葉のシーズンだったことに驚きでした。
北国で紅葉って言ったら9月10月の秋なのよ。
こっちで言ったら9月なんかばりばりの残暑まっただ中なんだけど。
なんだか関東で暮らすようになってからの方が
季節感がはっきりしてるような気もする。
そうそう
車の中で話題になったことの一つ
私の通ってる大学の薬学部の学生が、薬理の先生に
「先生、なんで薬理なんてやんなきゃなんないのーっ!」
と言ったので、薬理の先生が「なぜ、薬理を学ばなければならないのか」
というストーリー仕立てのロールプレイみたいなものを出してきて説明
してくれた、という話。
でも、
薬理っていったら薬学の王道だろう!
薬理やりたくないならもはや薬学部に存在する意味がないだろう!
医学生が「何で内科やんなきゃなんないのー!」って言ってるのと同じだろう。
ありえない愚痴だ。
今の学生って何考えてるかわかりませんね。
というオチでした。
薬学嫌いな薬学生。
えっ?
昨日は物理実習3日目。
生物系実習ちがい、出席番号順でならぶ前期と同じ班構成です。
そう。
覚えている人もいるかと思いますが
あの、常に確認したうえに、説明したらそれを否定するという
私がイガグリを投げつけそうになった(というか投げた)彼がいるのです。
したばって今回の私は冷静。
あ、「したばって」っていうのは青森弁で「しかしながら」「だけれども」という意味です。
所により「したたって」というところもあります。
まあ、青森弁講座はおいといて。
彼のぞんざいな態度は、後期になっても相変わらずご健在で
班員に対しての話し方が
ねー! これ三角フラスコじゃなくていいの!
ねー! 〇〇に△ってかいてあるよ!やんなくていいの!
ねー! ねー! もう時間じゃないの!そっちやってよ!
なぜにそんなに態度がでかいのか。
せめて人を呼ぶときに「ねー!」はやめよう。ちゃんと名前があるのだ。
名札だって付けてるから、名前はわかるはずなのだ。
そんなんだから、班の他のメンバーもムッとしているのが
傍目に見てよくわかる。
話しかけないし、やらせないのだ。メンバーの一員になってない。
そんな感じです。彼一人だけ、別世界なんです。彼の中でも、私たちとは
別世界の人間だと思ってるのかも知れない。
前期は大人げなく切れましたが 今回は実習が終わった後
彼が一人になった時に言いました。
「あんな言葉使いしてると、みんなをいやな気分にさせちゃうよ。
これから一緒に頑張っていこう!っていうメンバーになるんだから。
それにOSCEでも態度見られるから、今のうちにあの態度と話し方直していかないと
急には直せないよ」
と、かなーりやんわり、冷静に。そして感情を全く込めずに言いました。
そしたら
「自分でも気づいてはいるんですけど・・直せないんです」
というので
「家でも親に ねー! とかちょっとー!って言ってるんでしょ」
と指摘したら
「そうです・・・」
彼は家では殿様扱いなのだ。
母親に対して「ねー!これ食べられないって言ったじゃん!」
とか、そういう事ばかり言っているそうなのです。
それに素直に従う「ごめんね、ママが悪かったわ」という母。
自分の思いどおりにならないところばかりを指摘する。
しかも、彼の場合相当な早口で、もごもごとこもった感じでこういった
ことを言うので、本当に「ぞんざいな」感じになってしまうのです。
でも、本人気付いてるというので
「じゃあ、少しずつ直していこう!来週からやってみよう!」
と言って彼と別れました。
彼が来週からどうなることか、ちょっと見てみます。
急には直らないですけどね。長年積み重ねてきたわけだから。
彼は5浪しているので、周りの人間は皆「年下」だと思ってるようなんです
自分より下の人間には、ぞんざいな態度をとる。
しかし、クラスの金髪の派手なおねーさん(年下)に
「ねえねえ」と話しかけられたら瞬間的に
「すいません!俺頭悪いんで!」
なんだその返しは。
きっと学生時代、そういう態度で一度や二度
いじめにあったことがあるのだろう・・・
それにしても、自分は年上だから威張っていい。
という態度はよろしくないですよね。
〇〇だから威張ってもいい、ということはないと思うのです。
相手を見下して威張ること自体、よくないことだと思うのですよ、私。
でもここでは自分が上になって
強い立場になれたと錯覚してる部分もあるのでしょうね
いろんな育ち方の学生がいるのですが
特に私の通っている大学は学費が高いので
お嬢様・おぼっちゃまが多いのは事実。
でも、そういった家庭に育ったからと言って、性格が悪くなるとは限らないし
そういった家庭に育ったからこそ、根性ねじ曲がったりもするわけで。
要は環境要因が大きいと思います。
鈴先生とかは「親の育て方が悪い」というけれど
私も、こういった「人間への根本的なかかわり方」や
社会に対する常識的な行動などは
やっぱり親が見本になるから、親の責任が重大だと思うのです。
よく「放任主義」で育てている、と自慢げに言う親がいますが
そんなのは自慢でも何でもなく
常識的な教育や人間としての教育を全く施さずに
今まで衣食住と金を豊富に与えて飼ってきました
と公言してるのとおんなじだと思うのです。
そんなの何の自慢にもならないのに
それが自慢で、非常識な行動や言動も
「個性」と、面倒な関わりをしたくない一心で
無視した結果だと思うのです
人間関係や生きていくことは
めんどくさくて泥臭くてうざいもんなんですよ。
だけどそれを避けていたら
私は人間が人間ではなくなってしまうと思うのです。
人間関係は、うざいのが当たり前。
気遣ったり、気遣われたり。
あたり前が、うざいの3文字で片づけられる世の中が
この先どんな人間社会を生むのでしょうか。
生物系実習ちがい、出席番号順でならぶ前期と同じ班構成です。
そう。
覚えている人もいるかと思いますが
あの、常に確認したうえに、説明したらそれを否定するという
私がイガグリを投げつけそうになった(というか投げた)彼がいるのです。
したばって今回の私は冷静。
あ、「したばって」っていうのは青森弁で「しかしながら」「だけれども」という意味です。
所により「したたって」というところもあります。
まあ、青森弁講座はおいといて。
彼のぞんざいな態度は、後期になっても相変わらずご健在で
班員に対しての話し方が
ねー! これ三角フラスコじゃなくていいの!
ねー! 〇〇に△ってかいてあるよ!やんなくていいの!
ねー! ねー! もう時間じゃないの!そっちやってよ!
なぜにそんなに態度がでかいのか。
せめて人を呼ぶときに「ねー!」はやめよう。ちゃんと名前があるのだ。
名札だって付けてるから、名前はわかるはずなのだ。
そんなんだから、班の他のメンバーもムッとしているのが
傍目に見てよくわかる。
話しかけないし、やらせないのだ。メンバーの一員になってない。
そんな感じです。彼一人だけ、別世界なんです。彼の中でも、私たちとは
別世界の人間だと思ってるのかも知れない。
前期は大人げなく切れましたが 今回は実習が終わった後
彼が一人になった時に言いました。
「あんな言葉使いしてると、みんなをいやな気分にさせちゃうよ。
これから一緒に頑張っていこう!っていうメンバーになるんだから。
それにOSCEでも態度見られるから、今のうちにあの態度と話し方直していかないと
急には直せないよ」
と、かなーりやんわり、冷静に。そして感情を全く込めずに言いました。
そしたら
「自分でも気づいてはいるんですけど・・直せないんです」
というので
「家でも親に ねー! とかちょっとー!って言ってるんでしょ」
と指摘したら
「そうです・・・」
彼は家では殿様扱いなのだ。
母親に対して「ねー!これ食べられないって言ったじゃん!」
とか、そういう事ばかり言っているそうなのです。
それに素直に従う「ごめんね、ママが悪かったわ」という母。
自分の思いどおりにならないところばかりを指摘する。
しかも、彼の場合相当な早口で、もごもごとこもった感じでこういった
ことを言うので、本当に「ぞんざいな」感じになってしまうのです。
でも、本人気付いてるというので
「じゃあ、少しずつ直していこう!来週からやってみよう!」
と言って彼と別れました。
彼が来週からどうなることか、ちょっと見てみます。
急には直らないですけどね。長年積み重ねてきたわけだから。
彼は5浪しているので、周りの人間は皆「年下」だと思ってるようなんです
自分より下の人間には、ぞんざいな態度をとる。
しかし、クラスの金髪の派手なおねーさん(年下)に
「ねえねえ」と話しかけられたら瞬間的に
「すいません!俺頭悪いんで!」
なんだその返しは。
きっと学生時代、そういう態度で一度や二度
いじめにあったことがあるのだろう・・・
それにしても、自分は年上だから威張っていい。
という態度はよろしくないですよね。
〇〇だから威張ってもいい、ということはないと思うのです。
相手を見下して威張ること自体、よくないことだと思うのですよ、私。
でもここでは自分が上になって
強い立場になれたと錯覚してる部分もあるのでしょうね
いろんな育ち方の学生がいるのですが
特に私の通っている大学は学費が高いので
お嬢様・おぼっちゃまが多いのは事実。
でも、そういった家庭に育ったからと言って、性格が悪くなるとは限らないし
そういった家庭に育ったからこそ、根性ねじ曲がったりもするわけで。
要は環境要因が大きいと思います。
鈴先生とかは「親の育て方が悪い」というけれど
私も、こういった「人間への根本的なかかわり方」や
社会に対する常識的な行動などは
やっぱり親が見本になるから、親の責任が重大だと思うのです。
よく「放任主義」で育てている、と自慢げに言う親がいますが
そんなのは自慢でも何でもなく
常識的な教育や人間としての教育を全く施さずに
今まで衣食住と金を豊富に与えて飼ってきました
と公言してるのとおんなじだと思うのです。
そんなの何の自慢にもならないのに
それが自慢で、非常識な行動や言動も
「個性」と、面倒な関わりをしたくない一心で
無視した結果だと思うのです
人間関係や生きていくことは
めんどくさくて泥臭くてうざいもんなんですよ。
だけどそれを避けていたら
私は人間が人間ではなくなってしまうと思うのです。
人間関係は、うざいのが当たり前。
気遣ったり、気遣われたり。
あたり前が、うざいの3文字で片づけられる世の中が
この先どんな人間社会を生むのでしょうか。
水曜日は恒例の社員旅行。
今年は箱根に行ってきました。
私は大学があるので、実習が終わった後箱根に向い、宴会から
合流しましたが、すでに皆さん出来上がっていたため
素面のテンションと合わせるのに一苦労。
この箱根のために、金曜朝一提出の微生物のレポートを
必至で火曜の夜に完成させたため
宴会でごはんをたべ、温泉につかっって部屋にもどって
布団の上に横になった瞬間
二度と朝まで起き上がれなかった・・・
みんなは4時まで麻雀してたみたいだけど。
交流できずに今年も終わってしまった。
翌日は皆が寝ている間に大学に出発。
酷な日程ですね・・・まあ社会人と学生の時間の差って
こんなもんだろう。
大学生活では最近
「若い人にはついてけないなー」と思うことが
ちらほら出てきました。
この間の実習のレポート手分けしよーぜ!っていうのもそうだけど
昨日も親しくしている友人の一人が
関数電卓がほしー!と買いに行って
実際使ってみたら、分数が分数のまま表示できない関数電卓
(まあ、この「自然表示」というのがカシオの特権で逆に珍しいのですが)
だったことに気がついて
せっかく何千円も払ったのに
「何これー!使えないじゃん。説明書読んでも分かんないし。
新しいの買う。これ捨てるしかない」
というので
「関数電卓買う時にいろいろ見なかったの?説明とか箱に書いてあるものとか」
と聞いたら
「見たよ!なんか、なんとかが230と100いくらできるって2つあって、多い方がいいかと思って」
私「じゃあ、その多い230ってやつは、何する機能なの?」
「いや、分かんない・・」
コラ。
「だめだよ、せっかく何千円も払って電卓買う時にちゃんとよく見て比較して買わなきゃー。
お金ももったいないじゃん。安くないんだし」
と言ったら、きっとそれは年よりの考えなんでしょうね
「えー。だってお金もったいないっていっても、どーせ私のお金じゃないし。
親のお金だし。 また新しいの買おうっと。」
むっ。
いかんいかん。
こういうのって普通なんでしょうね。
今年は箱根に行ってきました。
私は大学があるので、実習が終わった後箱根に向い、宴会から
合流しましたが、すでに皆さん出来上がっていたため
素面のテンションと合わせるのに一苦労。
この箱根のために、金曜朝一提出の微生物のレポートを
必至で火曜の夜に完成させたため
宴会でごはんをたべ、温泉につかっって部屋にもどって
布団の上に横になった瞬間
二度と朝まで起き上がれなかった・・・
みんなは4時まで麻雀してたみたいだけど。
交流できずに今年も終わってしまった。
翌日は皆が寝ている間に大学に出発。
酷な日程ですね・・・まあ社会人と学生の時間の差って
こんなもんだろう。
大学生活では最近
「若い人にはついてけないなー」と思うことが
ちらほら出てきました。
この間の実習のレポート手分けしよーぜ!っていうのもそうだけど
昨日も親しくしている友人の一人が
関数電卓がほしー!と買いに行って
実際使ってみたら、分数が分数のまま表示できない関数電卓
(まあ、この「自然表示」というのがカシオの特権で逆に珍しいのですが)
だったことに気がついて
せっかく何千円も払ったのに
「何これー!使えないじゃん。説明書読んでも分かんないし。
新しいの買う。これ捨てるしかない」
というので
「関数電卓買う時にいろいろ見なかったの?説明とか箱に書いてあるものとか」
と聞いたら
「見たよ!なんか、なんとかが230と100いくらできるって2つあって、多い方がいいかと思って」
私「じゃあ、その多い230ってやつは、何する機能なの?」
「いや、分かんない・・」
コラ。
「だめだよ、せっかく何千円も払って電卓買う時にちゃんとよく見て比較して買わなきゃー。
お金ももったいないじゃん。安くないんだし」
と言ったら、きっとそれは年よりの考えなんでしょうね
「えー。だってお金もったいないっていっても、どーせ私のお金じゃないし。
親のお金だし。 また新しいの買おうっと。」
むっ。
いかんいかん。
こういうのって普通なんでしょうね。
おはようございます。
このところ妙に山に登りたくて、ついに週末行ってきました。
といっても400メートルそこそこのちび山ですが
これがなまった体にはなかなかのものでした。
しかもメガネっこにはさらにツライ。
そうそう、ご心配頂いております目ですが、昨日の診察で
傷は治ったけど角膜の濁りがあるで、あとはこのままにするか
それともダメかもしれないけどあと二週間ステロイドを
点眼するか、どっちでもいいよ!とのこと。
こんな提示じゃ後者を選ぶしかないだろう。
黒目にかかっていないのが幸いして視力に影響無いのですが、
あと数ミリずれてたら移植(またかよ)だったらしい。
右目の移植の時は目をちくちく縫ったのに跡がないのは
細菌に感染しなかったからという理由だけなのだろうか。
謎だ。
こないだの試験の成績が却ってきました。
いやー、ほんと綱渡りですね。
首ねの皮一枚とはまさにこのこと。
啖呵切った機能形態学と薬理だけは高得点を死守したのが
幸いです。あとはみんな危険ゾーンすれすれ。よくぞ追試
にならなかったと採点の大らかさに感謝です(笑)
勉強というのは
学ぶ楽しさというものがあるわけだけど
それは一旦そういう場所を離れないと得られないものなのかも
知れません。
なぜ学ぶかが明確ならきっと
分かる楽しみがあるのだろうなぁ。
私の場合、丸のまま試練ですが。
このところ妙に山に登りたくて、ついに週末行ってきました。
といっても400メートルそこそこのちび山ですが
これがなまった体にはなかなかのものでした。
しかもメガネっこにはさらにツライ。
そうそう、ご心配頂いております目ですが、昨日の診察で
傷は治ったけど角膜の濁りがあるで、あとはこのままにするか
それともダメかもしれないけどあと二週間ステロイドを
点眼するか、どっちでもいいよ!とのこと。
こんな提示じゃ後者を選ぶしかないだろう。
黒目にかかっていないのが幸いして視力に影響無いのですが、
あと数ミリずれてたら移植(またかよ)だったらしい。
右目の移植の時は目をちくちく縫ったのに跡がないのは
細菌に感染しなかったからという理由だけなのだろうか。
謎だ。
こないだの試験の成績が却ってきました。
いやー、ほんと綱渡りですね。
首ねの皮一枚とはまさにこのこと。
啖呵切った機能形態学と薬理だけは高得点を死守したのが
幸いです。あとはみんな危険ゾーンすれすれ。よくぞ追試
にならなかったと採点の大らかさに感謝です(笑)
勉強というのは
学ぶ楽しさというものがあるわけだけど
それは一旦そういう場所を離れないと得られないものなのかも
知れません。
なぜ学ぶかが明確ならきっと
分かる楽しみがあるのだろうなぁ。
私の場合、丸のまま試練ですが。
昨日で微生物実習もおわり、第一クールの生物系実習Ⅱが終わりました。
最終日はグラム染色の実技試験と、大腸菌培地と黄色ブドウ球菌に対する
抗生物質の感受性を調べる実験でした。
簡単に言うと、前の日に、各種抗生物質を含んだ小さい紙(薬剤ディスク)を
大腸菌や黄色ブドウ球菌が含まれている培地に載せて、紙のまわりに菌が生えず
円形に透明な培地になれば(これを阻止円といいます)その紙に含まれている抗生
物質は、その培地に生えている菌に対して有効だということ。
私の班は前日に大腸菌培地と黄ブ培地に8種類すべてを入れなければならないの
ですが間違えて2個ずつ入れてしまった薬剤があり、各培地で1種類ずつ、感受性を
調べられないものがあったのです。
実習担当の先生は
「もし、菌が生えなかったり、阻止円ができなかったような場合は、観察できないから
その分だけ他の班の様子を見せてもらってレポートに書いて」と言っていました。
しかし、うちの班のメンバーたちは
「一種類だけ他の班のやつ書いたら、ディスクの並びも違うからおかしくなんねぇ?
めんどくせーから全部隣の班の結果写そうぜ」
うちの班のやつも、他のはちゃんと結果でてますけど、あたかも自分の班がそうだった
みたいに隣の班の培地の様子を書くつもりか。
しかも、阻止円の大きさを定規で測るのだが、私が長さを測っているとさらにもう一人の
班の子が私に
「もとさん、測った長さ同じにしないといけないんで・・(勝手に測らないで)」
なぜそれぞれ自分で測った結果をレポートに書くのに、全員同じ長さに揃える必要が
あるのか。どうせ違っていたってその誤差1ミリくらいだ。
しかも君たちは隣の班の培地をあたかも自分の班の結果だとスケッチし、長さも隣の班
の一人が代表して測ったものをまる写しじゃないの。
なので私が
「同じにする必要ないじゃない。それぞれ測ればいいんだよ」
と言ったら、「他人と1ミリでも違う数値が違うと間違いで、その間違いを書くのがいや」
というような感じでもごもご。結局私以外の二人は、自分の班の培地の結果ではなく
隣の班の成功したものをスケッチしていた。
失敗すると考察しないといけないから面倒なのだろう。
要するに、なぜか19班の結果は、20班の私を除いた班員とまるっきり同じ値。
私だけ全然違う培地のスケッチで、当然阻止円径も別の値。
どーいうこっちゃ。
まあ別に他の班のメンバーがたとえ自分たちの結果に満足できなかったからと、
隣の成功結果を写したっていいけどね。
私は科学者としてのプライドがあるので自分の班(20班)の事実をレポートしますけど。
さらにその実習には課題があり、8種類の抗生物質について、用法用途などを調べて
レポートしなさい、というものがおまけであったのだ。
そこでまた班の一人が、隣の班と打ち合わせたらしく私に
「課題調べるのって8種類もあるからめんどくないですか?
みんなで2種類ずつくらいで手分けして調べようってことになったんンすけど」
(勝手に「なったんですけど」って決めるなよ)
と、言ってきた。
内心
「何で生まれて初めて大学生やって、しかも微生物なんか初めて調べるようなそんな
若造が調べたものをレポートに写さなきゃなんないんだよ?
人がやったやつなんか当てになんないし、あてにするつもりないから
結局自分で全部調べることになるから無意味。
それに調べたものが間違ってたら、この班と隣の班のメンバーが全員同じ間違いする
ことになるんだぞ。そうなったら誰が責任とってくれんだよ・・・
だいたいなー、たった8種類調べんのをめんどくせぇとか言ってんじゃねぇよ!」
と、大人げなく思いましたがそこは堪え、
「そうすると、隣の班も含めて、全員同じレポート書くことになるよね?
文章まったく同じやつ。それでいいの?先生いいって言ってた?」
と返しました。
あからさまに「こいつKYだ」みたいなふてくされた顔されましたよ。
彼らの意図が踏みにじられたわけですから。
彼らはとりあえず助手の人にきいてみる、と言って聞きに行きましたが
「うーん、わかんないから先生に聞いてみな」
との答え。
そのあたりでもう彼らは分担する気満々だ。
そりゃそうだよね。テストさえ高得点とれば、実習で優がもらえるなら
とにかく結果だけ、答えだけを暗記すればいいんだ。
調べる時間なんか彼らには無駄以外の何ものでもない。
結局先生に
「自分で考えろ」
と言われたみたいです。あはは、あたり前ですよね。
今回の微生物実習は、「当然のことはいちいち言わない」方針だったようですが
今の学生にはそれはちょっと酷だったようです。
例えば、菌を扱う前に白金耳を焼く、と初日教わりましたが、翌日の別の実験の日には
言いませんでした。そのため学生が
「ねえ、白金耳って今日も焼かないとだめなの?」と言い出す始末。
私が
「そうだよー。常に焼かないといけないんだよーこの操作では
白金耳焼くっていうのはもう常識的にやんなきゃいけない操作なんだよー」
と答えると
「だって今日先生焼けって言って無いじゃん。」とふてくされて反論。
いかにも私が嘘ついたような、そんな感じで睨みつけてきます。
もちろん、上記2つの言動により、私は班から浮いてしまいましたよ。
村八分(死語)です。彼らには「こいつうぜぇ」と思われたに違いない。
その他にも
「せんせー! シャーレに植えた菌とか班の番号は書かなくていいんですかー?」
と、手をあげて質問していたやつがいた。
先生は
「当然です!いちいちそんなこと聞かないでください。常識です」
と答えたのだが、学生側はブーイング。
「だって言わなきゃわかんないじゃん。」
「言ってくれなくちゃ、後から書かなくていいって言われたら嫌じゃん」
「今回の実習って、先生あんまり説明してくれないよね」
しまいには
「あの先生キライ。ちゃんと説明してくれない」
・・・・・・・・・・・・・・・。
おねーさん返す言葉がありません。
そこまで指示出さないと何もできないのか。
答えだけは覚えるのが得意で
テストすれば高得点とり、何も理解してないのに「できたー」とか
いい点取ることだけが正しいことで
間違うことは不要なこと、ただ回答だけ覚えることに心血を注いだ
偏差値教育体制が悪いのか
それともゆとり教育という名の、子供に「自ら考える」ことをさせない
そういった体制が悪かったのか。
ゆとり教育は日本史上最高のバカを生んだと
何かの集会で聞いたことがあるが
いま、まさにそのゆとり教育第一世代・第二世代と机を並べて
学生生活を送っている私には
その発言はけして間違ってはいないと思っている。
全員がバカとは言わないが
日本史上最高に「自分の力で考えられない子供」や「常識なし人間」を
量産したことは間違いないだろう。
答えを間違うことを、なぜそんなに恐れるのだろう。
そして、周りと違うことをなぜそんなに恐れるのだろうか。
他人に迷惑をかけるような、個性とも呼べないようなものを
「これはうちの子の個性ですから」
と言ってはばからない親。
そして、それが正しいと信じて疑わずに育った子供。
医療系に進んでいいんだろうか?こんな学生たちが。
自分で調べることがそんなに「超だりぃ」ことなのか。
だったら大学生なんかやめちまえと言いたい。
親からのお金で何の不自由もなく学生生活を送っているのに。
自分で勉強したくて、薬学について学びたくて、もしくはその必要があって
わざわざ大学入学という道を選んだのではないのか。
まさか「親に行けって言われた」とかいうんじゃないだろうね・・・
もう 親の庇護がなければ
生きていけない幼児でもないのに
なにかあれば親のせいにするし、親がいないと生きられないようなことをいう。
しかし、その割には親への文句を言う。
「早く死んでほしい」なんて発言は何度学生から聞いたことか。
自分の力で働いて、生活したこともないひよっこが。
気分だけは一人前なのに、実際には一人をものすごく恐怖する。
アンビバレントな思春期が、大学生になってまで続いているかのようだ。
高校卒業してすぐ働いているような、そんな若者がいる一方
何も考えずにただ毎日だりぃ、と文句をいいつつ
お気楽に大学生をやっているような若者もいる。
そんなことを考えるのは
私がもう年よりだからでしょうか?
これがジェネレーションギャップというものなんでしょうか。
甘やかして育てられた若者は、困難を回避し、打たれ弱く
苦労なんて言葉は死語と化しているだろう。
最終日はグラム染色の実技試験と、大腸菌培地と黄色ブドウ球菌に対する
抗生物質の感受性を調べる実験でした。
簡単に言うと、前の日に、各種抗生物質を含んだ小さい紙(薬剤ディスク)を
大腸菌や黄色ブドウ球菌が含まれている培地に載せて、紙のまわりに菌が生えず
円形に透明な培地になれば(これを阻止円といいます)その紙に含まれている抗生
物質は、その培地に生えている菌に対して有効だということ。
私の班は前日に大腸菌培地と黄ブ培地に8種類すべてを入れなければならないの
ですが間違えて2個ずつ入れてしまった薬剤があり、各培地で1種類ずつ、感受性を
調べられないものがあったのです。
実習担当の先生は
「もし、菌が生えなかったり、阻止円ができなかったような場合は、観察できないから
その分だけ他の班の様子を見せてもらってレポートに書いて」と言っていました。
しかし、うちの班のメンバーたちは
「一種類だけ他の班のやつ書いたら、ディスクの並びも違うからおかしくなんねぇ?
めんどくせーから全部隣の班の結果写そうぜ」
うちの班のやつも、他のはちゃんと結果でてますけど、あたかも自分の班がそうだった
みたいに隣の班の培地の様子を書くつもりか。
しかも、阻止円の大きさを定規で測るのだが、私が長さを測っているとさらにもう一人の
班の子が私に
「もとさん、測った長さ同じにしないといけないんで・・(勝手に測らないで)」
なぜそれぞれ自分で測った結果をレポートに書くのに、全員同じ長さに揃える必要が
あるのか。どうせ違っていたってその誤差1ミリくらいだ。
しかも君たちは隣の班の培地をあたかも自分の班の結果だとスケッチし、長さも隣の班
の一人が代表して測ったものをまる写しじゃないの。
なので私が
「同じにする必要ないじゃない。それぞれ測ればいいんだよ」
と言ったら、「他人と1ミリでも違う数値が違うと間違いで、その間違いを書くのがいや」
というような感じでもごもご。結局私以外の二人は、自分の班の培地の結果ではなく
隣の班の成功したものをスケッチしていた。
失敗すると考察しないといけないから面倒なのだろう。
要するに、なぜか19班の結果は、20班の私を除いた班員とまるっきり同じ値。
私だけ全然違う培地のスケッチで、当然阻止円径も別の値。
どーいうこっちゃ。
まあ別に他の班のメンバーがたとえ自分たちの結果に満足できなかったからと、
隣の成功結果を写したっていいけどね。
私は科学者としてのプライドがあるので自分の班(20班)の事実をレポートしますけど。
さらにその実習には課題があり、8種類の抗生物質について、用法用途などを調べて
レポートしなさい、というものがおまけであったのだ。
そこでまた班の一人が、隣の班と打ち合わせたらしく私に
「課題調べるのって8種類もあるからめんどくないですか?
みんなで2種類ずつくらいで手分けして調べようってことになったんンすけど」
(勝手に「なったんですけど」って決めるなよ)
と、言ってきた。
内心
「何で生まれて初めて大学生やって、しかも微生物なんか初めて調べるようなそんな
若造が調べたものをレポートに写さなきゃなんないんだよ?
人がやったやつなんか当てになんないし、あてにするつもりないから
結局自分で全部調べることになるから無意味。
それに調べたものが間違ってたら、この班と隣の班のメンバーが全員同じ間違いする
ことになるんだぞ。そうなったら誰が責任とってくれんだよ・・・
だいたいなー、たった8種類調べんのをめんどくせぇとか言ってんじゃねぇよ!」
と、大人げなく思いましたがそこは堪え、
「そうすると、隣の班も含めて、全員同じレポート書くことになるよね?
文章まったく同じやつ。それでいいの?先生いいって言ってた?」
と返しました。
あからさまに「こいつKYだ」みたいなふてくされた顔されましたよ。
彼らの意図が踏みにじられたわけですから。
彼らはとりあえず助手の人にきいてみる、と言って聞きに行きましたが
「うーん、わかんないから先生に聞いてみな」
との答え。
そのあたりでもう彼らは分担する気満々だ。
そりゃそうだよね。テストさえ高得点とれば、実習で優がもらえるなら
とにかく結果だけ、答えだけを暗記すればいいんだ。
調べる時間なんか彼らには無駄以外の何ものでもない。
結局先生に
「自分で考えろ」
と言われたみたいです。あはは、あたり前ですよね。
今回の微生物実習は、「当然のことはいちいち言わない」方針だったようですが
今の学生にはそれはちょっと酷だったようです。
例えば、菌を扱う前に白金耳を焼く、と初日教わりましたが、翌日の別の実験の日には
言いませんでした。そのため学生が
「ねえ、白金耳って今日も焼かないとだめなの?」と言い出す始末。
私が
「そうだよー。常に焼かないといけないんだよーこの操作では
白金耳焼くっていうのはもう常識的にやんなきゃいけない操作なんだよー」
と答えると
「だって今日先生焼けって言って無いじゃん。」とふてくされて反論。
いかにも私が嘘ついたような、そんな感じで睨みつけてきます。
もちろん、上記2つの言動により、私は班から浮いてしまいましたよ。
村八分(死語)です。彼らには「こいつうぜぇ」と思われたに違いない。
その他にも
「せんせー! シャーレに植えた菌とか班の番号は書かなくていいんですかー?」
と、手をあげて質問していたやつがいた。
先生は
「当然です!いちいちそんなこと聞かないでください。常識です」
と答えたのだが、学生側はブーイング。
「だって言わなきゃわかんないじゃん。」
「言ってくれなくちゃ、後から書かなくていいって言われたら嫌じゃん」
「今回の実習って、先生あんまり説明してくれないよね」
しまいには
「あの先生キライ。ちゃんと説明してくれない」
・・・・・・・・・・・・・・・。
おねーさん返す言葉がありません。
そこまで指示出さないと何もできないのか。
答えだけは覚えるのが得意で
テストすれば高得点とり、何も理解してないのに「できたー」とか
いい点取ることだけが正しいことで
間違うことは不要なこと、ただ回答だけ覚えることに心血を注いだ
偏差値教育体制が悪いのか
それともゆとり教育という名の、子供に「自ら考える」ことをさせない
そういった体制が悪かったのか。
ゆとり教育は日本史上最高のバカを生んだと
何かの集会で聞いたことがあるが
いま、まさにそのゆとり教育第一世代・第二世代と机を並べて
学生生活を送っている私には
その発言はけして間違ってはいないと思っている。
全員がバカとは言わないが
日本史上最高に「自分の力で考えられない子供」や「常識なし人間」を
量産したことは間違いないだろう。
答えを間違うことを、なぜそんなに恐れるのだろう。
そして、周りと違うことをなぜそんなに恐れるのだろうか。
他人に迷惑をかけるような、個性とも呼べないようなものを
「これはうちの子の個性ですから」
と言ってはばからない親。
そして、それが正しいと信じて疑わずに育った子供。
医療系に進んでいいんだろうか?こんな学生たちが。
自分で調べることがそんなに「超だりぃ」ことなのか。
だったら大学生なんかやめちまえと言いたい。
親からのお金で何の不自由もなく学生生活を送っているのに。
自分で勉強したくて、薬学について学びたくて、もしくはその必要があって
わざわざ大学入学という道を選んだのではないのか。
まさか「親に行けって言われた」とかいうんじゃないだろうね・・・
もう 親の庇護がなければ
生きていけない幼児でもないのに
なにかあれば親のせいにするし、親がいないと生きられないようなことをいう。
しかし、その割には親への文句を言う。
「早く死んでほしい」なんて発言は何度学生から聞いたことか。
自分の力で働いて、生活したこともないひよっこが。
気分だけは一人前なのに、実際には一人をものすごく恐怖する。
アンビバレントな思春期が、大学生になってまで続いているかのようだ。
高校卒業してすぐ働いているような、そんな若者がいる一方
何も考えずにただ毎日だりぃ、と文句をいいつつ
お気楽に大学生をやっているような若者もいる。
そんなことを考えるのは
私がもう年よりだからでしょうか?
これがジェネレーションギャップというものなんでしょうか。
甘やかして育てられた若者は、困難を回避し、打たれ弱く
苦労なんて言葉は死語と化しているだろう。